第十五章:なつくもの ―如月・下旬― 其の十
奏一郎の台詞を、何度か咀嚼して。噛み砕いて、飲み込んで。そうしてようやく桐谷はクエスチョンを頭に浮かべた。
奏一郎が何を言わんとしているのか、結局はわからなかったから。
「心屋さんの言うことは時々、不可思議すぎて難しいや、俺には」
「ふふふ、そうかい?」
お手上げとばかりに目を閉じた桐谷。自分の分もいつの間にか用意していたらしい、奏一郎は蠢く湯気を楽しげに弄んでいる。
「僕から言わせれば、よっぽど君たちの方が不可思議なんだけれどね。……いったい何があったら、そんなに憂いを帯びた表情をしていられるのか、とかね」
桐谷の目頭、小鼻に深い影が刻まれようとしていた。街を包もうとしている夕闇の成せる業か。
静寂の中では目立つ、時を刻む秒針の音。それが一定のリズムで重なっていく度――影の色は徐々に、深まっていった。
「……俺のことを好きな、女の子がいてさ」
ぽつり、こぼすように。桐谷は口を開き、言葉を紡いでいく。
「気持ちには応えられないんだ、絶対に。だからずっと、気が付かない振りをしてきた」
「……話の腰を折って悪いけれど。どうして?」
なぜ、気持ちに応えられないのか。「絶対」とまで付け加えるほどに。奏一郎がそう問うているのだと察して――桐谷は、答える。
「……可哀想、だから。幸せになって、ほしいから」
ごめん、今はそうとしか言えない……と、弱々しく呟く桐谷に、奏一郎は満足げに微笑んだ。続きをどうぞと促されているのが、桐谷にはわかる。
「気付かない振りをして、それを続けていればいいって思ってたんだ。向こうだって、俺に想いを打ち明けることはないだろうし。若気の至りだって、一時の気の迷いだっていずれ気付いてくれたらって……それが一番良いと思ってた」
瞼の裏に、瞳を隠して。
初めて出会った時のことを、思い出す。
産後、退院し帰宅してからも、なかなか「妹」に会わせてくれない香澄に業を煮やして。彼女が一人出かけた隙に、家政婦の目を盗んで「妹」の眠る部屋に侵入したのだ。
温かなオレンジ色の壁紙に寄り添う、小さなベッド。けれどそこに横たわる「妹」は、そんな小さなベッドに余ったスペースを作るほどに小ぢんまりとしていた。
真っ赤な顔に、鉛筆で線を引いたような細い目の縁。ちょこちょこと頼りない睫毛が生えているのが印象的だ。音もなく眠っているせいか、精巧な人形のようにすら見えてくる。けれども、至近距離まで近寄ったわけでもないのに、いつだったか嗅いだことのある甘いミルクの香りが鼻を掠め――ああ、生きているんだなと実感させられる。
初めて直接目にした、「生後間もない赤ん坊」。その時桐谷が口にしたのは――、
「可哀想に、ね……」
およそ、そのシチュエーションには似合わない台詞だった。
可哀想に、可哀想に、と。何度も何度も心の中で、呪いのように呟いた。別に「妹」に恨みがあるわけじゃない。嫉妬だなんてとんでもない。
ただ湧いたのは、憐憫の情。
家庭をろくに顧みることもない父親。温かみのない、母親。会話の交わされることのない家。たとえ交わしたとしても罵倒のドッジボール。そんな夫婦喧嘩すらも笑いの種にしてしまえる家政婦たち。
こんな温かみのない家で、この子は「生きていかなくてはいけない」のだ。
親は子を選べないし、子も親を選べない。ましてや、その後に待ち受ける運命なんて知る由もない。憐れで、仕方がない。
丸椅子を運び足裏をそこに乗せる。膝立ちすると、ちょうどベッドの柵に顎を乗せることに成功した。
そっと、徐に右手を伸ばして。赤らんだ頬の膨らみにちょんと触れてみる。
赤ちゃん肌、というのはもう少しツルツルと滑らかなものと思っていた。よく見ると汗疹に似た発疹がポツポツ浮かんでいるので、もしかしたらそのせいかもしれないが。
「うん……みゅう……」
……もしかしたらしつこく触りすぎたのかもしれない。ぱちりと目の開いた二重瞼と目が合う。
ああ、やはり自分とは少しも似ていないな、とうっすら思ってしまう。当然のことなのに。
一方の「妹」は、赤らんだ顔をさらに紅潮させて、しわくちゃの表情を作ると――、
「あ……かっかっ……」
そんな、独特の台詞で上擦ったかと思いきや。
「ふぁぁぁぁん! ふぁぁぁぁん……!」
耳をつんざく、よく通る声。
サイレンに似たそれに意表を突かれ、桐谷は思わず固まってしまう。
「え……ええっと……っ!?」
ひとまず離れようかと思った、瞬間。
ひっくり返っただんご虫のように体を動かし、「妹」は空に手を伸ばし始めた。自然、そこには桐谷の人差し指がある。
「あ……」
知らぬ間に、初めて見る赤ん坊の動きに意識を奪われてしまっていたらしい。易々と人差し指をぎゅっと掴まれ、桐谷はまったく身動きができなくなってしまっていた。
優しく引っ張ってもびくともしない。一体この小さな体にどれだけのパワーが秘められているというのだ。
依然、サイレンは鳴り止まない。
「え……えっと……!」
辺りをきょろきょろと見渡してみても、あやせそうなおもちゃがない。仮にあったとしても、身動きのできないこの状況では手に入れることは叶わないが。普段通り、冷静に考えればわかることだろうに、なぜか今はそれが出来ない――焦って、いたのだ。
――もしこの部屋に来ていたことがバレたらどうなる……? 叱られてごはん抜きにされちゃうかもしれない……!
叱られるのには慣れているが、成長期にごはん抜きはきつい。おやつ抜きはもっときつい。デッド・オア・アライブである。
「ちょっ……! しーっ! 静かにして……っ」
「ふぁぁぁぁん……! ひぐっ! ふぁぁぁぁん!」
空いていたもう片方の人差し指で「静かにして」のポーズを取るも、効果は今一つのようだ。
脇腹や足の裏をくすぐったり、いないいないばあをしてみても目線すら合わせてくれない。
どうすれば良いのかわからなくて――しまいには、左手を目一杯広げ。小さな頭をぽんぽんと撫でてやることくらいしか思い付かなかった。
すると、どうだろう。
サイレンの音が徐々に小さくなっていき……開かれていた瞼も、唇も。一気に沈静化。
目尻と目頭に溜まった水溜まりが耳に流れるのを防ぐため、桐谷は袖でそっと拭ってやる。それと同時に、がくんと項垂れてしまった。
「……はぁ~……」
安堵とも気疲れともいえる溜息。とにかく泣き止ませることには成功したようだ。
けれども心臓は大きく高鳴ったまま、落ち着く素振りを一向に見せない。
眠って、泣いて、喚いて、涙を流して。そしてまた、眠って。
未だに人差し指は、強く握られたまま。
「おーい……放してよ。そろそろ戻らなきゃ不味いんだって」
小声でそう声をかけるも、「妹」はそんなことは知らぬとばかりに鼻水の音の混じった寝息を立てるだけだ。
まるで何事もなかったかのように、初めて見た時と同じ顔を浮かべて眠るだけ……。
突如、花が咲いたみたいだった。それを見てああ、そうか……と。桐谷は悟ったのだ。
苦も楽もない。善も悪もない。幸も不幸も、何も知らない――ただ、まっさらな命がそこにある。
そこに在るのはただ、それだけなのだ。
「可哀想」だなんて、言うべきじゃなかった。たとえ本人がその言葉を理解などしていなくても、言うべきじゃなかった。
決めつけるべきではなかった。
「可哀想」になるかどうかなんて、この子次第じゃないかと。
「……『可哀想に』なんて、俺が絶対にさせないからね。守ってあげるからね」
ぽんぽん、と。まだ毛の細く薄い頭を、優しく優しく撫でていく。
そうするとただ眠っているだけの「妹」の表情が、どこか嬉しそうに見えるから不思議だ。
……そうだ。「妹」、ではなかったと。桐谷は改めた。
名を、呼ぶ。
「『静音』」
握られた人差し指を上下に揺らして。交わされるのは、初めての握手。
「『おにいちゃん』ですよ。……どうぞよろしくね」




