第十五章:なつくもの ―如月・下旬― 其の九
それを見届けてから、芽衣はそっと小夜子の肩に腕を回す。自然、芽衣の胸元に上半身を預けてしまったわけだが。温かな体温に、紡がれる鼓動に安心しきったのか、徐々に体は弛緩していった。
左耳が、芽衣の声を拾う。
「……でもまだ、原は幸運な方かもしれないね」
何が、という声を待つこともなく、彼女は続けた。
「想わなくていい……ってことは、想いを受け入れることはできなくても、原の想いを恋心だって認めてくれたってことだから」
ぱちり、小夜子の瞬きが増える。
「私も、恋をしたことはないからよくわからないけど。……片想いで一番辛いのはきっと……振られることじゃなくて。その想いを、恋だと認めてもらえないことなんじゃないかって、思うから」
芽衣の見解を耳にしながら、小夜子はそうだったと目を見開いた。
そう、芽衣は知らないのだ。静音の想い人が兄であることなんて。
芽衣は知らないのだ。静音の想いは、恋心だなんて誰にも認めてもらえないことを。世間がそれを許しはしないことを。
……きっとそれは自分も――奏一郎への想いもまた、例外ではないということを小夜子は悟った。
* * *
黄昏時、路考茶の髪は吹き荒ぶ風邪に揺れていた。小麦畑が嵐に遭遇したかのよう。女子供ではないのでさすがに体を持っていかれることはないだろうが、足元はふらつきを覚えていた。
普段からこの歩き方だったか。それともやはり風のせいか。あるいは今の心境が足元に現れてしまっているのか。もはや桐谷にとっては、そんなことはどうでもよくなっていた。
先程まで長かったはずの影も、そろそろアスファルトに溶け込んでしまいそうだ。燃えるような夕焼けが眩しくて、思わず目を細めてしまう。
さて、どこへ行こうかと思い立った時、ふと、つい橘の顔が頭に過ってしまうけれど。
「きょーやはまだ仕事中だし……」
ぼーっとした眼でそう独りごちると、その台詞すらも風がさらっていってしまったようで。自分の声なのに、どこか遠い。
手持ちの携帯電話を眺めるも、誰からの連絡もないようで。ディスプレイは待受画面をただ映すだけ。はぁ、とため息を吐くと、ますます虚しい気持ちが高まっていく。天候がそれを助長させるのだろうか。
その時だ。
「いらっしゃい」
よく知っている声が、右の耳をすっと通り抜けたのは。
「風が強いね、今日は」
ロッキングチェアに腰かけ、キシキシと音を立てる彼――奏一郎がいた。膝には成猫のあんずが一匹、丸くなっている。
桐谷は目を丸くした。
自分は果たしてこの道を選んでいただろうか? どうして目の前に、『心屋』が在るのだろうか?
「たしかにぼーっとはしてたと思うけど、さ。この道は選んでなかった……はず、なんだけど」
桐谷が狼狽しているのを珍しがってか、店主はくすくすと笑っていた。黄昏色に染まる髪が、椅子の動きに合わせてちらちらと揺れている。
「ここは、そういう店だから」
意味深長な台詞を浮かべる笑みは、どこか寂しそうな。けれど話し相手が出来て嬉しそうでもある、ような気もする。目の動きで、桐谷はそれを察してしまえた。
自分だって話し相手を欲していたのだと、わかっていたから。
吹き抜ける風に、背を押されて。桐谷は一歩、店内に足を踏み入れる。刹那、途切れる風の音。シャッターは開ききっているのに、なぜか広がる無音の世界。まるでここは外界と完全に遮断されているようで。
「お茶を運んでこよう、君はそこで待っていてくれ」
暖簾をくぐり、居間へと姿を消した奏一郎。さて、どうしたものかと桐谷は小首を傾げる。が、ここは「店」だ。退屈しのぎになるものなんて、たくさん溢れている。
ちょうど腰の位置に佇む木目調のテーブル。その上には、整然と商品たちが鎮座していた。。
蛇の傘のランプ、針が四つある時計、精巧な日本人形。布地の破けたお手玉。蜘蛛の巣状に罅割れた手鏡。
そしてヒビの割れた、瑠璃色のグラス。
たしか、子猫――今はブロッコリーと名付けた――を引き取ったその日、手に取ったものだったと桐谷は思い出す。
右手でそっと触れると、やはりその感触には覚えがあった。が、突如生じたのは、違和感。
――こんなにたくさん、ヒビが入っていたっけか?
たしかに以前も、少しでも手荒に扱ってしまえば壊れてしまうだろう危うさはあった。けれども今は、持ち上げただけで粉々に砕けてしまいそうなほどの断層の重なりが深く、深く刻まれている。
よく似ているだけで他のグラスだろうかとも疑ったが、いやいやとすぐに思い直す。証拠などないが、確信はあった。彼の長所の一つだ、勘が鋭いのは。
「おや。座っていてくれて良かったのに」
思っていたより早めの帰還だ。盆に乗った湯飲みから、白い湯気が立ち込めている。差し出されたほうじ茶を、早速口に含む桐谷。
「今夜は冷えるだろうからね。ゆっくりしていくといいよ」
「ねぇ、心屋さん」
問いかけに、「なぁに」と店主は微笑んだ。
「ふと沸いた疑問なんだけどさ。心屋の商品は全部、どういうルートでやってきてるの?」
「うーん、そうだなぁ……」
天井を仰ぎ見る奏一郎。桐谷は知らないが、これは彼の癖なのだ。やがて視線を桐谷へ戻し、碧眼はそっと細められる。
「ここにあるのは捨てられたり、引き取り手がいなかったり。巡りめぐって僕の元に来たモノがほとんどだよ。一部、例外はいるけれどね」
そう言って彼は、テーブルの端に鎮座していた銀色の水筒の縁をなぞった。
「だからどういうルートと訊かれても、『人伝』としか言いようが無いな」
「へぇ……そうなんだ」
なるほどなぁ、と納得したのも束の間。掘り下げても掘り下げても、彼の纏う「不思議」は拭いきれない。
「それじゃ心屋さんは、なんでそういう物を集めてるの? 趣味?」
「あはは、違うよ。僕が必要としているってだけのことさ」
やんわりと否定して、彼はそのまま続けた。
「人にはできないから。わからないからね。一度壊れてしまったモノを、大事にする方法なんて」
ぱちり。一度の瞬きが、時間を止める。
「ここに在るのは欠けてしまったり。粉々になってしまったり。ヒビの入ったりしたモノばかり。誰かに大事にされていた。……あるいは最初から、誰からも必要とされなかったモノ」
でも、だから良いんだ。だからこそ価値があるんだと奏一郎は続けた。
「そんな彼らだからこそ、ここに来る『お客様』の、心になってくれるのさ」




