第十五章:なつくもの ―如月・下旬― 其の六
次第に視界はクリアになって、背景のクラスメイトの表情がよく見える。ぽかんと開かれた口。呆気にとられているのだ。声を発する者はいなかった。無理もない。明朗快活なムードメーカーが叫びにも似た声を延々と挙げ連ねているのだから。誰もこんな姿の彼女を見たことはなかっただろう。
小夜子だってそうだ。まさかここまで彼女が追い詰められていたなんて思わなかった。
今、ここで話をすべきではなかったか。じわりじわりと迫ってくる後悔。しかし時すでに遅し、である。続けるしかなかった。言いたいこと、伝えたいことの半分だって、まだ伝えられていないのだ。
「……静音ちゃんのこと羨ましいって、私だって何度も思ってきたよ。明るくて、可愛くて。気も利いて、しっかりしてて。誰とでも仲良くできて、私と違って運動もできて。毎日、いつも笑ってて……楽しそうで。羨ましいって、思ったよ」
「わかったような口聞かないでよ! 何も知らないくせに……!」
言いながら、聞きながら、ああそうか、と小夜子は思った。今、目の前にいるのはきっと剥き出しの静音なのだ。
いつも無理をしていたのかもしれない。“普通”に見られたくて。
爽やかな笑顔の裏にひたすら隠してきたのだろう――もしかしたら本人すらも自覚していなかったかもしれない、暗い荒波を。
ただそれが少し、今の間だけほんの少し暴れて、表に出てきただけ。隠れていた彼女が、ひょこりと顔を出しただけ。
本当の、ではない。彼女はもう一人の静音だ。
もう少し、もう少しだけ“荒波”と話していたい。
今この瞬間は、もう一人の静音との「初めまして」なのだから。
「普通の恋愛、なんて。そんなの満足にできているわけじゃないよ、私だって……。正直に言って普通じゃない、もしかしたら誰よりも、前途多難かもしれない」
声を震わせながら。静音ちゃん、知らなかったよね、と。小夜子は目を見開く静音を見つめる。
「何も知らないくせに、なんて。そんなの、お互い様じゃないかな……!?」
グラグラと揺れる視界、忘れていた鼓動がついに主張を始めた。全身を駆け巡る血に熱がこもり、突き刺さる数多の視線に冷や汗が止まらない。
ああ、言ってしまった。
後悔が竜巻のようにぐるぐる、ぐるぐると眼前に立ちはだかる。 全身を呑まれて、かき混ぜられて、前後左右の見分けもつかなくなって……いずれは、傷だらけになって潰れてしまいそう。
思わずぎゅっと目を瞑ってしまいそうになった小夜子だったが、それを遮るものがあった。
「そこまで」
耳に響くは凛とした声。視界を埋め尽くすは美しい波状。
小夜子と静音の間に割って入る形で、芽衣が荒波の前に立ちはだかっていた。音もなく、するりと。まるで風のように。
「楠木……」
突然の登場に驚いたようで、静音は先程から目を真ん丸にしたままだ。が、それも徐々に鋭利さを増して。尖った目尻に早変わり。
「なによ……急に現れて。あんたも私に説教すんの? そうだよね、あんたっていつも私にだけ当たりキツいもんね!」
凪いだ海を、再び荒波が支配する。もはや留まることを知らないそれが、今度は芽衣をも包もうとしている。
一方の芽衣は平然としたものだった。無機質な無表情で、ひたすらに静音を見つめている。
「原。私には何を言っても構わない。ただ……」
だがその琥珀色の瞳に映るのは、決して哀れみではなかった。それはまるで――怒りのよう。
そして彼女の声は、やたら鈍重に響いた。
「何にイライラしているのか知らないけど、萩尾さんに当たるのはやめろ」
芽衣の放った台詞に、ぽかん、としてしまったのは小夜子だった。はて、どこかで聞いたことがあるような台詞だ、と思って。まるで遠い遠い昔に聞いたように感じられるが、たしかその言葉は――。
「はあ!? なに言ってんの!? それは私が、前に、あんたに……!」
突如、言葉を詰まらせた静音。吊り上がった黒の瞳が、荒波が、途端に落ち着きを取り戻す。電源の切れたロボットさながら、そのまま沈静化してしまった。
やがて、静音の眼に光は宿る。それだけではない。黒い海が揺れる、揺れる。光を何度も反射させたのはそれだ。キラキラ、ゆらゆら、忙しい。
「私が……前に、あんたに言ったん……だった」
ぼろり、ぼろり。黒い海から光が漏れた。幾筋も、幾筋も頬を伝い流れ行く。その光は透明だったけれど――ああ、綺麗だなと小夜子は意識の奥底で、うっすら思った。
静音の行動を予測することなんて、この場にいる者の誰もできなかったろう。距離があったわけではない、それなのに。芽衣を通り過ぎ、空間を切って、静音は。
「…………小夜子…………!」
小夜子の胸に、飛び込んできた。
あまりの衝撃に耐えきれず、三、四歩後退せざるを得なかった小夜子。左肩に頭を預ける静音の表情を、窺い知ることはできない。くぐもった声を、左耳が拾う。
「小夜子、ごめん、ごめんね、八つ当たりして、ごべんなさい……! いっぱい小夜子にひどいこと言って、ごべん。傷付けたよね、ごべ、ごべんね……!!」
肩口に、湿った温もりが広がっていく。それに安心してしまったのかもしれない。緊張の糸がぷつりと切れたのかもしれない。小夜子もいつの間にか、己の目頭に熱を覚えていた。
喉から込み上げる痛みを、必死に飲み込んで。
「私こそ……ごめん。何も知らない、なんて言ってごめんね。静音ちゃん、ごめんね」
背中にそっと手を回し、小夜子は気付いた。
細い腰。小さな頭。幼い子供のような泣き声。震える華奢な肩。
明るくて、気が利いて、運動ができて。誰とでも仲良くなれて。
自分には無いものばかり持っていたものだから、ずっと憧れていた。ずっと、長いこと誤解していた。きっと心のどこかで、神格化していた。
悩みもする。泣き喚きもする。
当然だ。
静音は、人間なのだから。
教室中に泣き声が木霊する中、それにつられるようにざわ、ざわ、という話し声が漏れ始めた。
「え、なに。解決した……の?」
「喧嘩してたとか?」
「いやでも何も知らないってずっと言ってたじゃん」
「なんか俺ら、話に付いていけてないんだけど……」
安堵。混乱。困惑。それぞれがそれぞれの色を濃くしていく一方で、静音の嗚咽は止まらない。未だに顔を上げることのないせいか、小夜子の肩は彼女の涙で濡れに濡れていた。
もはや野次馬と化したクラスメイトが、ぞろぞろと三人を囲い始める。今の顔を誰にも見られたくないだろう静音の気持ちを思うと、居たたまれない。
朝礼などどうでもいい。早く静音を教室から連れ出さなければ――。
「どうした、騒がしい。早く席に着きな」
声を発したのは眉を顰めている杉田。いつの間にか教室に入ってきていたようだ。
三人を取り囲んでいたクラスメイトが、渋々、といった調子で自席に戻っていく。小夜子に静音、そして芽衣の三人だけは佇んだまま。
「おっと。なんだ、修羅場か?」
冗談めかして微笑む杉田。こんなのは慣れっこ、とでも言わんばかりの余裕綽々っぷりだ。さすが教師歴が長いだけある。
「んー、と。そうだな、楠木と萩尾。原を保健室に連れてってやってくれないか」
「は、はい!」
教室でのやり取りを聞いていたはずがない……にも関わらず、この采配。詳細はわからずとも、まるで杉田は大筋を悟っているようだ。
芽衣が静音の肩をそっと掴む。
「私が連れていくから、萩尾さんは念のため原の荷物を取ってくれる?」
「うん!」
芽衣と静音の双方が教室から姿を消したことで、クラスメイトのざわめきは高まるばかり。
「先生! 何があったの!? 知ってるんだよね!?」
「何で俺らには何の説明も無しなわけ?」
不服なのだろう。当然と言えばそうだ。心配していたのは皆同じなのだし、あの荒れに荒れた静音と空間を共にした以上、気にならないわけがない。
静音の机上、机の中の荷物を彼女の鞄に詰め込みながら、物言わぬ小夜子への視線もほんの少し、冷たい、ような。
「騒ぐなっての。一教室につき一年に一回くらいは、こういう事は起きるもんなんだよ」
十年前と比べたら減った方だ、と置いて。杉田は笑った。
「ああ、それと。原がもし元気になっても、『何があったの?』とか訊くのは止めとけよな?」
ざわめいていた教室が、しんと静まり返る。何で、という声は所々から、か細く零れていたけれど。
荷物をまとめ終えた小夜子は、そっと教室の後ろの扉に手をかけ。教壇の杉田へと小さく会釈した。彼女がこちらに視線を送ることは、なかったけれど。
「永く一緒にいるために必要なのは、『知っている』ことじゃない。『理解しようとする』ということだからだよ」
その言葉は残されたクラスメイトに、だけではなく。小夜子にも、向けられたような気がした。




