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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十五章:なつくもの ―如月・中旬― 其の参

 虚ろめいた二つの視線が、ダッシュボードに注がれる。否、そうではなくて――その深い茶の眼の視線の先に、たまたまそれが在ったに過ぎない。


 「二回目」と言ったその言葉に、橘も大きく目を見張る。言葉の意味がわからないからではない。わかるからこそ、驚いてしまうのだ。

「お前、まだ……」


 その不十分な問いかけに対して、桐谷が答えることはなかった。

 問答を遮ったのはウィンドウのノックの音だった。体ごと傾いで、運転席の窓から不思議そうに顔を覗かせる一人の男。


「橘くんかい? そうだよな?」

 黒髪を所々自由に跳ねさせた、やや小太りの男――桐谷の父・正一(まさかず)がそこにいた。


 偶然とはいえまさか会うことになるとは思っていなかった橘だったが、すぐさま運転席を降り会釈を返す。

「ご無沙汰しております。相変わらずお元気そうで」

「いやぁ、十年ぶりくらいかねぇ。最後に見たのなんて高校生くらいじゃなかったかな。橘くん、しばらく見ないうちにますます男前になったんじゃないか?」

 目尻の皺を何層も重ねて、正一は笑う。


 ああ、そういえばよく笑う人だったなこの人は、と橘は思い出していた。


 笑う時に小さな笑窪を浮かべるのは相変わらずだ。静音は昔から香澄寄りの顔とよく言われてきたらしいが、笑顔に関してだけ言えば正一に近いものがある。


 会話をしていて不愉快にもならないし嫌味の無い、人当たりの良い人物であることは間違いない。


 ただ、それを家族に向ける余裕が無いだけなのだ。


「……俺、きょーやの荷物取ってくるから。待ってて」

 そう言ってそそくさと車から降りた桐谷。彼の背を見送る正一の目は、決して冷淡なものではない。かと言って温かみもない。それもまた、“相変わらず”だ。


「……それにしても、急でしたね。桐谷(あいつ)にお見合いなんて」

「いやいやー、そんなことないよ。ああ見えてもう二十七なんだ。そろそろ身を固めてもらって、と思うのも当然のことさ。社長としても、親としてもね」


 ころり、表情を変えて。人好きのしそうな顔に、幾層もの皺を重ねている。

「……昔に比べたら治まってきたとはいえ、完全に、じゃない。あの破壊癖を理解できるような女性(ひと)がいるとは思えないんですが」

 橘がそう言った途端、伏せられた目。ああ、やはり彼も、少しはそこに負い目を感じてはいたようだ。


「そこはもう……もし本当に結婚、なんてことになったらだが。お相手のお嬢さんには申し訳ないが、一生隠し通すしかない。由良には我慢してもらうしかないだろうな。そもそもの話、あんな異常な癖……早々に治さなきゃならないものだったんだ」


 二十年以上もの間、彼に付きまとってきた癖。橘は思う。治す、だなんて不可能に近いだろうと。それは桐谷も理解していることだ。

 それなのにこの目の前の男は、未だにそれを理解できないのだ。理解したくないのだ、しようとしないのだ。


 息子として見たことなどない。


 ころり、ころり。ひとつ、ふたつと。

 胃に石ころが転がっていく。


 徐々に蓄積されていく重み。久方ぶりのその鈍重な感覚に、橘は躊躇いを覚えていた。けれどそれすら、躊躇いすらも石ころに潰されて――ぐちゃり。


 ぐちゃり、ぐちゃりと音を立て。“怒り”はぽつり、出来上がる。


 心臓がざわざわと蠢くのを感じながら、努めて冷静にと己に言い聞かせ。橘は口を開いた。


「……たしか貴方もお見合い結婚でしたよね。それも会社絡みの」

「あはははははは! まあ、あの結婚は失敗だったと言えるがねぇ」

 豪快に笑い飛ばした後に、彼が浮かべたのは朗笑だった。しかし、先ほどまで刻まれていたはずの笑窪はそこにはない。

「で、何が言いたいんだい?」

「いえ。……理解に苦しい、と思っただけですよ。息子に自分と同じ道を歩ませようとしている、親の気が知れないな、と」


 ほとんど閉じていた瞼が、まるで眩しいものでも見たかのように小さく開かれた。急に鋭く見える眼光から窺い知れるのは――烈火の如く燃え盛る、憤り。

 ああ、これがこの人の本性なのだ。にこにこと機嫌の良い面をしながらその下で、様々な感情をひた隠しにしてしまえる。


 今その感情の一つが、わかりやすい形になって暴れ狂っているだけだ。


 笑窪に代わり、今度は眉間に皺が深々と寄っている。


「これは家族の問題だ! 君には関係ない……口を挟んでいいことじゃないのはわかるだろう!?」


 口角から唾を飛ばす勢いで、そう捲し立てる正一。そのありきたりでありふれた一言が自然、橘の「冷静に」という心がけを打ち消していった。


「だから……!」


 よりにもよって、「家族」という言葉を使うな、と。


「あなたがあいつを、会社の持ち物としか思っていない……! 『家族』として思っていないのが問題だと言っているんです!」


 橘の台詞が、寒空の下で放たれた刹那。ぴょこぴょこと風に髪を遊ばせながら、件の彼が帰って来た。


 どこから聞いていたのかは知れない。けれどさすがに言い争いをしていたことは察したのだろう、いつもの無表情に、ほんのり困惑の色を重ねながら――「……どうしよう」、そう呟いて。


「……どうしよう。こういう時は……うん、あれかな。『止めて! 俺のために争わないで!』……とか言った方がいいのかな……」

「男、男、男の組み合わせで何を言っているんだお前……」


 途端、空気の抜けたような音が心の内に響くのを感じる。戦意喪失、とでも言おうか。気付いた時には橘と正一、双方の怒りはすっかり鎮火されてしまっていた。


 ああ、そういえばこいつはこういう男だった……。そう橘は改めて認識するのだった。


 瞬間的な登場とその第一声で、この場の空気を支配してしまえるのだから桐谷という男、ただ者ではない。


 橘が密かに感心しているその一方で、正一は「こいつはまた訳のわからないことを……」とでも言いたげな呆れ顔だ。


「……まったく! お前がそんなだから嫁さんの一人も自分で見つけられないんだろうが! 由良、来い! 当日の打ち合わせをするぞ」

 こちらに一瞥をくれるでもなく、あからさまに怒りを(あらわ)にしながら正一は敷地内へと消えていった。とは言っても、先ほどまでのそれと比べれば小火(ぼや)程度のものだが。


 橘の荷物を両手でそっと手渡して、桐谷は口を開く。

「……きょーや。喧嘩とか争いっていうのはね、同レベルの間柄でしか起きないもんなの」

「…………」

 諭しているわけではないのだろう。言い聞かせるみたいに。それはまるで、祈るように。

「きょーやがあんなオヤジと同じレベルになんて、なっちゃダメなの」

「……ああ、悪い。つい、感情的になってしまった」

「んーん、いいよ、嬉しいし。きょーやはいつも誰かのために……そういうところでエネルギー使っちゃう人だもんね……」

 ほんの少し遠い目をしながら。桐谷は薄く微笑む。


「やっぱり神様みたいだ、きょーやは」

「お前……いっつもそれ言うな」


 何の躊躇いも嫌味も恥ずかしげも無しにそんなことを言ってのけるのもまた、彼の才能かもしれないが。橘は、ゆっくりと首を横に振る。


「……俺はただ、お前が親父さんみたいになってほしくないだけだ」


 愛の無い結婚をして、愛の無い家庭を作って――やがて、それを顧みることもなくなって。

 己の仕事にのみ情熱を傾け、身も心も会社に捧げるような。……そんな人身御供のようには、なってほしくないのだ。


 橘の言わんとしていることは自然と理解できたらしい。うんうん、と頷きながら、

「今回の見合いが、その第一歩とならないように気を付けるよ……」

 桐谷はそう言って、もう一度微笑んだ。


 そろそろ正一が桐谷を再び呼びに来るかもしれない。橘は運転席に乗り込んだ。


「そういえば、打ち合わせって……何をするんだ?」

「んー、当日の会場は噴水があって綺麗だの散歩にそこへ行けだの、当日のお料理だの、会話の仕方だのエスコートの仕方だの……まあ、とにかく地獄の時間です」


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