第五章:こわすひと ―長月― 其の弐
「林檎……?」
小夜子は数回瞬きをして、言葉を咀嚼する。
どういう意味かを訊こうと口を開くと、芽衣はさっさと校門から姿を消してしまった。
不思議な子だ、と思った。言動だけでなく、先ほどのあの表情も。憂いとも言えた。自嘲とも、言えた。あの、全てを諦めたような笑み。
すると、廊下に響く張りのある声。
「あ、小夜子ー。教室掃除終わったよー。今、帰り?」
「う、うんっ」
「方向同じなら一緒に帰ろうよ」
「うん」
静音だった。先ほどまでのテストに対する落胆振りは、とうに色褪せているようだ。靴箱から真っ白なシューズを取り出すと、眉を八の字にする小夜子を見つめてくる。
「なに、どしたん?」
――……どう、説明したらいいのか……。
「楠木さんに『林檎買ったほうがいい』って……言われたんだけど……」
「へ、楠木に? え、っていうか林檎?」
静音も目を丸くする。
「うん。でも、私……今日、お財布持ってきてなくて……」
「そういう問題かよっ!」
静音に突っ込みを入れられ、なんだか小夜子は嬉しくなった。
* * *
どんよりとした灰色の雲は、時間の経過とともにどす黒さを増していく。もっと雨が強まるのではないか、雷が落ちてくるのではないか。そんな心配すらしてしまうほどだったが、隣にいる静音は常に明るい調子で。表情も、感情表現も豊かな子だと思った。自分には無い物を持つ静音を、素直に羨ましく思う。憧れの念すら、抱いてしまう。
ふと、通りかかった八百屋の前で、足を止める。店頭に並べられた食材の中に、瑞々しく光る林檎を見つけたのだ。
「……なんで、あんなこと言ったのかなぁ」
雨がオレンジ色の傘を叩く。静音は林檎を一つ手に取って、口を開く。
「楠木かぁ。うーん……ちょっと変わったところあるからねぇ」
「え……そうなの?」
「突然じーっと人の目見たかと思ったら逸らしたり? どこを見るでもなくぼーっとしたり? 何て言うかな……あの容姿だから余計に奇行が目立つって言うのかな。まあ悪い奴ではないでしょ。よくわからんがアドバイス? みたいなのくれたわけだし」
――……そうだよね。何を意図してかはわからないけど……。
「……でもお財布無いからなぁ。一回帰って、もう一度ここに戻ってこようかな……」
「そこまでするか林檎のために。……あ、っていうか小夜子はお家、どの辺なの? ここからそんなに近いの?」
静音が話題を変える。
「あ、うん。この近くにあるお店……に、下宿してるんだけど」
「へえ、下宿かぁ~……面白そう。下宿先って遊びに行っていいものなの?」
「え……。うん、いい……んじゃないかな? たぶん」
静音がはにかむ。
「今度遊びに行くね!」
この屈託ない笑顔でそう言われて、断れる人間はいないのではないかと小夜子は思った。
「う、うん、いつでもどうぞ!」
分かれ道にさしかかると、静音はさらに交通量の多いマンション街の方へと体を向けた。
「じゃあ、私こっちだから~。小夜子もいつか、うちに遊びにおいでねー!」
「うん。また明日ね!」
笑顔で手を振ると、水溜りを綺麗に避けつつ、去っていく赤い傘。
「『遊びに』……かあ」
ぽつりと呟く。
奏一郎なら温かく迎え入れてくれるだろう。
しかし、静音はどうだろう。もう小夜子は慣れてしまったが、彼のあの日本人離れした、というより常人離れをした外観を受け入れてくれるだろうか。
――……大丈夫、だよね。静音ちゃんって、見た目とかで判断するような子じゃないと思うし。
「……うん、帰ろう」
歩を進め、森に沿うようにして道を歩いていく。遠ざかる車の音。
その代わり、葉と雨の出会う音が幾十にも広がって聴こえてきて、心なしか落ち着いてくる。砂利道の水溜りは広く深く、そこだけは我慢するしかないのだけれど。
そろそろ心屋にたどり着くなあと思った頃、だった。心臓が、どくんと大きな音を立てて揺れたのは。
心屋の前に、見慣れぬ車が二台停まっているのだ。
一台は、黒塗りに光る高級車だ。雨の日の砂利道に相応しくないくらい、ピカピカに車が磨かれているのが遠目でもわかった。
それより何より。その奥に見えたのは、ショベルカーだ。それを目にした瞬間。以前小夜子が住んでいた街の工場に、同じ形のものがあったのを彼女は思い出していた。たしかあの工場は、木材を粉砕するのにショベルカーを使っていたのではなかったか。
心臓が跳ねる。雨粒が跳ねる。もしかしたら、スカートにも泥汚れが付いてしまったかもしれなかった。
だが、水溜りを気にしてなどいられなかった。靴下が濡れるのなんて、どうでもよかった。自分の肺のことだって、頭から抜け落ちていた。
小夜子は走り出していた。きっと、心屋の店先までなんて大した距離でもなかったはずだが。久々の運動に息は切れる。が、そんなことは二の次、三の次だ。
眼前に広がっていた光景を、素直に受け入れることはできなかった。
「なに……? これ」
もはや見慣れた数少ない家具である卓袱台も、小夜子の部屋の家具も。家の中の全ての物が外に放り出され、雨除けのためか、ブルーシートが乱雑にかけられてあった。
そして何より、店の前には巨大なショベルカーが佇んでいる。
これらが何を意味するのか理解してしまった瞬間。小夜子は全身の機能を停止させたかのように、そこに立ち尽くしてしまった。
すると、店の中から現れたのは、見知らぬ二つの影。
「中の物は全て持ち出したな?」
黒い傘を差しつつ、問うスーツ姿の男性。
「はい、このガラクタで全部です。どうしても開かない襖があったので、そこは放置していますが」
なにやら籠を抱えた、ツナギ姿の男性。
スーツ姿の男性は、籠の中を見てうっすらと目を細める。
「本当にくだらん物しか売っていなかったんだな。まったく、こんなボロい店一つ立ち退かせるのに、橘はいったい何を手間取っていたんだ……」
そのとき、籠から垣間見えたのは――見間違えようの無い、心屋の商品の数々――。
「なにしてるんですか!?」
小夜子の声に、スーツ姿の男性が振り返る。佐々木 上松だ。テレビでよく見るあの笑顔は、実際の彼からは微塵も見られない。温かみのない険しい目と、そしてふくよかな体型をこちらに向かせる。
「おや。もしや、この家にお住まいのお嬢さんかな? 悪いが、この家は取り壊させてもらうよ」
柔らかなのは口調だけだ。画面上とは全く異なる冷徹な笑みを浮かべる彼に、小夜子はぞっとした。
――……奏一郎さんは……まだ帰ってきてないのかな。私が、なんとかしなくちゃ……。
「何、言ってるんですか。こんな、勝手に家に侵入したり、家具を持ち出したりして……犯罪ですよ、こんなの!」
「『犯罪』? ほう、なら裁判を起こさなくちゃな、ん?」
小夜子を小馬鹿にしたような態度だ。
「まあ仮に起こせたとしても、君たちは負けるだろうがな。腕のいい弁護士など、こちらはいくらでも用意できる。それにこの辺りにはもう民家は無い。証拠も証人も無しに、どう裁判で勝とうと言うのかな?」
まるで、言い慣れているかのようだった。いけしゃしゃあと、そして業務のように台詞を言い放つ彼に、小夜子は何も言い返せなくなってしまった。
「物を言うのは権力、財力……“力”だよ。無力な君たちに、私を裁くことなどできないんだよ、お嬢さん」
言い返したい。が、悔しいと思う反面、その通りかもしれないと小夜子は思ってしまう。そんな思考に至ってしまう自分がさらに悔しくて――それでも唇を噛むことしかできない。
小夜子が言葉を失ったのを見て、意気揚々と佐々木はショベルカーへと近づいていった。
「おい、桐谷! さっさとこれを壊せ!」
「いいんすか……? まだ店主も来てないってのに」
『桐谷』と呼ばれたショベルカーの中の男性が、ひょっこりとショベルカーから顔を出し、惰性的な声を出す。この緊迫した状況には、極めて不似合いな声のトーンだ。
「構わん。目撃者は小娘一人の方が、処理もしやすいしな」
「……合点承知です」
ショベルカーが、鈍い音を立てて動き出す。そして、それは容赦なく心屋の屋根に差し掛かる――。
「や……やめてください!」
心屋に向かって走り出す小夜子の腕を、ツナギの男が後ろから掴む。オレンジ色の傘は、音を立てて地面に落下した。
「危険です、下がってください!」
男の説得など、耳に入らない。
「壊しちゃダメです! ここは、ここは、奏一郎さんの……!」
とても、大切な場所。
「……奏一郎さんの……っ! ……私の、家なんです!」
涙が溢れ出しそうになる。
その時だった――。
「家の前で、喧嘩は止めてくれないか?」
冷静な声に、その場にいた全員が動きを止めた。
「……奏一郎さん……!」
番傘を差した奏一郎は菖蒲色の風呂敷を右手に、のほほんとした顔でショベルカーを見つめている。
「……これはまた、大掛かりなことだなぁ」
そう言って、にっこりと笑う。
「その子、放してくれないか? 僕の大事な下宿生なんだが」
ツナギの男が、ぱっと小夜子を掴んでいた手を離す。自由の身となった小夜子は、すぐさま奏一郎の元に駆け寄った。
「そ、奏一郎さん……」
――ああ、泣きたい。本当に私は……無力だ。
何もできなかった。奏一郎さんのために、何も――。
奇妙な出で立ちの奏一郎の登場に、佐々木は面食らったように唖然としていた。いや、小夜子を除くその場にいた全員がそうだ。最初に我に返ったのは佐々木だった。
「どんなふてぶてしい面をしているかと思えば……やはりただの変わり者か。店主も来たことだ、丁度いい……続けろ!」
「……はい」
再びショベルカーが動き出す。ゆっくりとした、勢いの無い動きではあるけれども。それでもその鈍重な音は、小夜子の心臓を震わせるには充分だった。
「悪く思うなよ、店主さん。最初から抵抗せず、言うことを聞いておけばよかったのにな」
「……ふーん。そんなに、僕の家を壊したいのか」
奏一郎は穏やかに微笑んでいる。少なくとも、小夜子にはそう見えた。どうして、こんな状況でそんなに落ち着いていられるのか。何か考えがあるのか。頭の中でぐるぐる考えても、彼の表情は穏やかそのままに――――、
「……いいだろう、壊してみせろ」
そんなことを、言うから。小夜子は、我が耳を疑った。
「……奏、一郎さん? 今、何て」
「『壊してみせろ』と言ったんだ。壊したいんだろう? ならば壊せばいい」
「……奏一郎さん、何を言ってるんですか!?」
それを聞いた佐々木は、ふっと笑った。
「そら、変わり者の家主からの許可ももらった! 桐谷!」
「……はい」
指示を受けた桐谷は、慣れた手つきでショベルカーを駆使していく。
「なん、で?」
――ここは、あなたにとって『大切』じゃないんですか?
……私だけ、だったんですか?
縋るような気持ちで、小夜子は彼の顔を見上げる。思ったことを、形にしたくて――。
だが、言葉を失った。彼の浮かべている表情に、釘付けになってしまう――。
人間のものとは思えないほどの、恐怖心を煽るような――笑み。冷たい、笑み。それは、まるで棘のような。刃のような。
そして、その笑みを作り出す口から、静かにこぼされた言葉。
「……壊せるのなら、な」