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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十五章:なつくもの ―如月・中旬― 其の弐

 どんなに歩幅を小さくしても、いずれはそこに辿り着く―― 。


 『心屋』は目の前。古いおんぼろの木材の塊が青空の下、今日も今日とて小夜子を迎え入れている。


 ――ああ。このお店も昔から、ずーっと此処にあったんだなぁ……。


 この店は、ずっと奏一郎と共に在るのだ。今までも、これからだって。

 店を形作る木材も、もちろん老いるのだろう――見るからに老朽化の一途を辿っているのだから――が、それらが「死ぬ」ことはない。少なくとも八十年そこらが寿命の人間に比べたら、永く奏一郎の傍らにいられる。

 小夜子は……少しだけ、『心屋』が羨ましいと思ってしまう。


 人にでなく、物に対してそんな気持ちを抱く日が来るだなんて。彼女は夢にも思っていなかった。


 軒先から一歩、足を踏み入れてしまえば。茶の間からふわり、雪にも混じってしまえそうな白髪がひょこりと顔を出す。それに合わせて、並べられた商品たちを通り過ぎ。小夜子は言うのだ。

「ただいま、です。奏一郎さん」

「おかえりなさい、さよ」

 毎日と言ってもいいだろう繰り返されたこのやり取りも、もはや慣れたもののように小夜子は感じていた。


 「ただいま」と言うと、彼はいつも決まって微笑むのだ。細められた碧眼、それはさらに深みを増して。唇は緩やかな弧を描く。元々端正な顔立ちをしている彼が、目尻にくしゃりと皺を寄せるのを見る度に……たったそれだけのことに、小夜子はいつも心踊らせ、舞い上がってしまう。


 それに胸の苦しみが加わったのは、ここ数日の話だ。


「ちょうどこれから昼食を作るところだったんだ。何か食べたいものはあるかな?」

「えっと、そうですね~……温かい物が食べたいです! あ、私も一緒に作りますね……!」


 そう言って、小夜子も笑みを返す。

 苦しみを脇に置いて。日常を、回していく。


* * *


 二月も下旬に差し掛かった頃。


 橘は桐谷邸へと足を運んでいた。車に積んできたいくつもの紙袋を開封し、開封してはそれを広げていく。


 最初に橘が取り出したのは、ネイビーのスーツだ。


「まず、スーツな。お前たしか黒しか持ってなかったよな?」

「冠婚葬祭用のが一着だけ……。普段、スーツ自体着ないからね……」

「だよな。グレーもあるが、ネイビーの方がお前には合うかもな。雰囲気が締まる。もう俺は着ないからこれはお前にやる」

 そう言って、ネイビーのスーツを桐谷にハンガーごと手渡す。受け取った彼も、普段の無表情を忘れ微笑みを浮かべている。


「次にネクタイな。無地のとストライプ柄のをいくつか持ってきたから、その中から気に入ったのを選んでいいぞ」


 ごそり、紙袋の中から十数本のネクタイを取り出す橘。この至れり尽くせりぶりにはさすがの桐谷も舌を巻く。

「俺のオススメはこの青いやつと茶色だな。まあ、好みもあるだろうから無理強いはしないが。どうせお前、黒しか持ってないだろ」

「冠婚葬祭用のが一本だけ……」

「……ネクタイも一本だけやる」

「ありがとー。きょーや、スタイリストみたいでかっこいー」


 (ほう)けたようなお礼の言葉に、橘はくらり、頭痛すら覚えてきた。なぜ、なぜこんなことになったのか、と暫し頭を抱えてしまう。

 残り一月(ひとつき)も無いというのに、桐谷は見合いの準備を何一つしていなかったのだ。


 当日の段取りやスーツは用意したのか、と電話でふと訊いてみれば、

「用意するの忘れてた……」

 返ってきたのはぽけーっとした声色。衝動的にスーツにネクタイを抱え車を走らせたくなるのも、無理からぬことであった。……少なくとも、橘はそういう男だった。


 それにしても、と。橘は改めて桐谷を見やる。

 時間はまだ残されているとはいえ、依然召し物を用意していなかったとはと呆れてしまう。己の人生と、そして会社の今後の命運がかかっているイベントだ、見合いに乗り気でないとはいえあまりに不自然。

 不自然なのはそれだけではない、訪ねてより変わらず伏された(まなこ)。そしてその表情も。普段から彼が無表情だから気が付くのに遅れてしまったが、心なしか上の空のようにすら感じられる。


「何か気になることでもできたのか?」

 さらり、短く問う。動かない眉。瞬きの間隔にも変化は見られない。けれど橘は知っていた。桐谷は動揺すればするほど、問うた前と後での変化が小さいのだということを。


「話したくないなら話さなくてもいいが。……その状態では俺としては、安心して見合いに行かせられないな」

「…………」

 無言。これまた珍しい反応だ。ネクタイを畳みつつ、橘は密かに驚きを覚えていた。いつもこの親友は、訊かれたことには誠心誠意答えようとするのだ。わからないなら「わからない」、好きなら「好き」、嫌いなら「嫌い」とはっきり言ってくれる。

 だからきっと今回も、「いやぁ実はさ」と切り出してくるか、「きょーやには秘密」と意味深長な返しをしてくるかのどちらかだと思っていたのだ。

 それが予想に反して、沈黙ときた。


 上手く言葉にできないのか、だから言いあぐねているのか。これまでに無いパターンなだけに、どうしたものか橘にはわからない。


 が、

「……振った」

 桐谷がやっと口を開き、小声でそんなことを呟いた瞬間。それを耳にした彼の目は、大きく大きく丸くなる。

「振った……って、まさか」

「うん。その“まさか”」

 名前を滑らせるところだった、と橘は思わず口を掌で覆う。ここは桐谷邸。玄関の扉を開けたのだって家政婦だ。誰が聞き耳を立てているとも知れない。


「あー、と……桐谷。車の中にまだ荷物があるんだ。取りに行くの手伝ってくれないか?」

「うん」

 車中に誘うその目的を、どうやら桐谷も察したらしい。ほっと胸を撫で下ろす。この分なら、まだ安心だ。


 内に独りで溜め込みすぎると、人はどうなってしまうのかわからない――そんな生き物なのだから。


* * *


 車中に移動し、助手席へ腰かけるよう促す。己も運転席へ乗り込み、扉を閉めた瞬間。先程までの堅かった口はどうしたのか、堰を切ったように桐谷は言葉をつらつらと並べ始めた。


「バレンタインの夜。さよさよの後に静音が俺のところに来たんだー、ガトーショコラ持って。で、要らないって言った」

「……それで?」

「何でって訊かれたから、『健診で引っ掛かったから甘いもの控える』って言った。そしたら……さよさよから貰ったマフィン指差されて、すぐに嘘ってばれた」

「あー……」

 橘は思い切り頭を抱えた。所謂、“修羅場”というやつだ。そこに居合わせていたら、胃がキリキリと悲鳴を上げていたかもしれない。


「……で、何で嘘ついたのか訊かれたから……『さよさよと静音じゃ、込めた想いが違うでしょ』って。『もう、俺のこと想わなくていいから』って……言った」

「告白されてから振ったわけじゃなかったんだな……。ひょっとして、見合いのことも?」

 こくりと頷く助手席の隣、橘はハンドルに身を預ける。


 遅かれ早かれ、こうなっていただろうことはわかる。

 静音は「兄」である桐谷を好きで、血の繋がっていないことを知っている桐谷は、静音を恋愛対象として見ていないのだから。

 そう、どんなタイミングであれ、どんなに言い繕うとも、「静音は桐谷に振られる」。所詮は、そう――実らない恋だったのだ。


 それは静音もわかっていたろう。叶うことの決してない片想い。それでも何年も想い続けてきたのだ。

 こんな幕引きを、きっと彼女は望んでいなかったはずだ。


「いずれこうなるってことは、わかっていたはずだろ……それなら何で、そんなに動揺しているんだ?」


 桐谷は――きっとバレンタインデーの夜からずっと、揺れ動く心をぶら下げている。橘はそう確信していた。


 一方の桐谷は、そんなことは思い付きもしなかったようで。右往左往に泳ぎ始めたのは、彼の瞳だった。


「……二回目だからかも」

 途端、ぽろぽろと。(こぼ)す言葉に滲むのは、虚ろの色。


「静音を傷付けたのが……二回目、だからかも」

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