第十五章:なつくもの ―如月・中旬― 其の壱
「遂に、産まれた」
その報せを彼が受けたのは、十歳になって間もない頃のことだった。
当時雇われていた数人の家政婦が、わっと花を咲かせたように口々にその話題を至る所でするものだから、幼い彼の耳にも自然と入ってくる。
「男の子だった? 女の子だった?」
抑揚の無い声で彼が問うと、一瞬だけ家政婦たちは頬を引きつらせ――それでも一応は膝を折り、視線を合わせ、答えをくれる。
「やっぱり、女の子だったんですって。坊っちゃんにとっては……そうね。妹……になりますかしら」
「いもうと……」
妹。妹。
その慣れない単語を、何度か口にしつつ家政婦の前を通り過ぎる。背中は声を、拾う。
不憫ね。
いえいえ女の子だっただけまだましよ。
そうね、トラブルになりにくいし。
それにおめでたいことですもの。
ただ、ねぇ。
奥様はたぶん喜ぶだろうけどねぇ。
旦那様は残念がるかもねぇ……。
小声で話しているつもり、だろうか。声が、口元が、目尻が、「ああ愉しい」と歪んでいるのを、彼女たちは知らないのだろうか。
絨毯の敷き詰められた廊下をとぼとぼ歩きながら、思う。
ああ、会社泊まりが多く帰宅することのほとんどない「父」と。
冷淡で、声をかけてくることも目を合わせてくれることもない「母」に。
喧嘩の絶えない夫婦、それすらも笑いの種にしてしまえる家政婦たち。
怒号と罵声と嘲笑が飛び交う、愛の無い、温もりも無い、あるのは金だけ。
そんな家の元へ来てしまった、幼い命──「妹」。
──ああ、かわいそうに。こんな家に生まれちゃって。
どうせなら、別の家に生まれていればもっと「しあわせ」だったかもしれないのに。
そこまで考えて、あれ、そういえば、と。彼は眉を顰める。
──「しあわせ」って、何だったっけ。
ふっと瞼を閉じてみるも……思い出せる記憶は、答えは、そこには無かった。
* * *
バレンタインデーの浮き足立ったような空気を一新させてくれたのは、やはり翌日から始まる学期末テストだった。
一年間の総復習というわけで、春に習った英文法や歴史の出来事や数学の公式のオンパレード。試験の真っ最中にも関わらず、「やばい、ここ忘れた……」「たしかここは……」など、掠れた小さな独り言は絶えない。もちろん試験監督に注意はされるけれども。
小声が時折飛び交う一方で、小夜子は黙々と問題を解いていた。授業を真面目に聞いていれば解けない問題なんて無いと言って良い、というのが持論である。彼女の場合、ドジさえ踏まなければ、という条件を絶対に付加しなければならないが。
昨日の時点で数学、英語、家庭科の試験が終了。さて本日、二日目は保健体育、古典、世界史というラインナップだ。世界史の最後の答案まで埋め尽くしたところでやっと、小夜子の口からもふう、と息が漏れた。
チャイムが鳴る頃には、数十人分の安堵の溜め息と不安げな声、そして嘆きが交錯する。
「あー……、二日目終わったぁ」
肩をうんと伸ばせば、試験最終日の明日へ意識は向けられる。音楽、現代文、生物。芸術と文系、理系科目の入り乱れる一日。明日の私の脳味噌はフル回転だなぁ、と小夜子は一人、薄く笑った。
「萩尾さん」
帰宅の準備を始めた頃だった、そう声をかけられたのは。自分をそう呼ぶクラスメイトは多かれど、ここまで凛とした声の持ち主は彼女しかいない。
「楠木さん、一緒に帰ろう?」
「うん」
素直に頷く彼女。初めて会ったばかりの頃にも同じように誘って、断られたっけ。そう思うと、当時と比べると彼女との関係も格段に進歩したのだなあとしみじみ感じてしまう小夜子。
けれど、喜んでばかりはいられなかった。何故なら、当の本人の顔色がいまいち優れないからだ。きっとそれは、己も同じであろうと。原因も恐らくは同じであろう。
「帰りながら話そう」
ああ、やはり。小夜子は思わず目を伏せた。きっと話とは、静音のことだ。
廊下を先行く芽衣の背中を、小夜子は慌てて追いかけた。
降って間もない雪は、既に道路の端に追いやられていた。除雪車の出番もほとんど無しに、車道、歩道ともにアスファルトは乾いている。おかげで足を滑らせる心配も無さそうだ。
小夜子にとっての心配事なんて今は、たった一つだけ──。
二月の十五日から。試験が始まって以来、一度も。静音は登校していない。
何かの病気か、大丈夫だろうか、そう思って携帯電話に連絡をしてみるも電話に出ることはない。メールに返信も無い。
音沙汰が無いというのは、こういうことを指すのだろう、きっと。
「楠木さん……ちなみにこの学校って、学期末試験を受けられなかったらどうなるの……?」
「追試はあるよ、勿論ね。ただ……本試験と比べると、やっぱり赤点の条件は厳しくなる」
「ど、どれくらい?」
「普段、赤点は平均点の半分以下のとき。だけど追試は、全教科50点以上は取らないと赤点になる」
「え……。赤点を取ると、どうなっちゃうの?」
「たしか親を交えて先生と面談する、だったかな。一年間の成績の平均を割り出して、あまりに成績が悪かったら……」
芽衣が続きを言わないので。冷や汗が背中を伝う。空気の冷たさに体が縮こまり、歩幅が小さくなってしまう。
「……一緒に進級したいのに」
着信も、新着のメールも無い携帯電話のディスプレイ。なぜ、なぜ何の反応もしてくれないのだろうか。
「やっぱり家まで行ってみるべきかな? 杉田先生もお家にはかけてるみたいだし、気を遣わせちゃうかなって、昨日は遠慮しちゃったけど」
「いや、その……萩尾さん。引き続き、遠慮しておこう?」
灰色のマフラーの下、珍しく焦ったような表情の芽衣がいる。まるで何か、事情を知っているかのような。
「楠木さん……何か知ってるの?」
小首を傾げてそう問うと、思っていたよりはあっさりと──芽衣が口を割った。
「えっと……ほら。原がさ、ガトーショコラ余ったからって純の分もくれたじゃない」
ああ、たしかそんなこともあったな、と小夜子は思い出す。小夜子も余ったマフィンを彼に渡すよう、芽衣に手渡したのだから容易に思い出せる。
「純がね。萩尾さんのマフィンを食べた後に……あ、美味しいって言ってたから。お世辞とかではなく、ちゃんと本気で言ってたから。そこは安心してほしい」
「う、うん。ありがとう……!?」
妙な気の遣われ方に引っ掛かってしまうけれど、今は話を聞くのが先だ。
「マフィンを食べた後に、原のガトーショコラを食べて。独り言みたいに純が言ったんだ。『あ、失恋の味がする』って」
小夜子は褐色の眼を丸くせずにはいられなかった。失恋の味とは何だ? そもそも何故、そんなことを純は言ったのだ?
小夜子の心の中を読み取れたのか、芽衣は重い口を開く。
「私と純は同じ力を持っているけれど……全て同じ、ってわけじゃない。正確には、少し違うの。お互いに同じくらい“見る”ことはできるけれど、祓う力は私が強い。遠くまで霊的な存在を感知できたり、物の思念や人の思考を深く読み取ったりする力は純の方がずっと鋭い」
「うーん、と。純くんの方が能力的には広くて繊細? ってこと?」
「わかりやすく言うとそうなるのかな。……私の能力が粗暴と思われたくはないんだけど」
「あはは。思ってない、思ってない」
笑顔でそう否定する一方で。そうか、霊感があるというのは、そういう一面もあるのか……と一人納得する小夜子。つまり純は静音のガトーショコラを口にした瞬間に、「失恋した」ことを察してしまえたのだ──誰がって、もちろん静音が。
彼女の試験欠席の理由は、体調不良ではないのだ。なるほど、家に行こうとするのを芽衣が止めるわけだ。
けれど。
「……告白する気は無いって、言ってたのに……」
恋愛運が上がるという、赤いリボンのラッピング。告白する気も無いくせにこういうことだけはしちゃうんだよね、と彼女は自嘲していた、はず。
「告白する前にフラれた、とかじゃない?」
そう口にしたのは芽衣だ。
「例えば彼女が出来たとか。相手、歳上なんだっけ? もしくは結婚するって言われたとか」
「……あ」
そうだ。桐谷はお見合いをするのだ。静音が桐谷に想いを寄せている──この事実があまりにショッキングすぎて、すっかり抜け落ちてしまっていたが。
けれど、仮に「お見合いをする」ことを桐谷が話したとして。それで登校してこない、なんてことが果たして静音に限ってあり得るのかどうか。
「まぁここでどんなに推測しようが、事態は変わらないし。どんな事情があるにせよ、進級もかかってるし。次に登校してきた時には……」
「そう、だね。また一緒に勉強会しよっか!」
──ああ、何だかんだ言っても、楠木さんも静音ちゃんが心配なんだな……。
そう思うと、頬を刺す冷たいはずの空気も、刹那の間だけ忘れられる。代わりに思い出されるのは、静音のガトーショコラだ。焼きたてのあの甘い香りと、熱々のふわふわとした感触。もちろん冷やした後も、とろけるような柔らかな食感は健在だった。
奏一郎だって、頻りに美味しいと口にしていたし──。
そこまで考えて、ふと思い出す。
小夜子のマフィンを食べ終えて、さて次には静音のガトーショコラ、と。彼が冷蔵庫から取り出した時のことを。
彼は言ったのだ。あり得ないことを、言ったのだった。
「あれ? ……今朝より、膨らんでる」
どうしたんですか? と小夜子はその場で問うた。碧い目を丸くする彼があまりに珍しかったから。けれど彼はたちまち、その口角をふっと吊り上げ、
「さて、いただこうか」
先ほどの呟きも、小夜子の問いかけも。無かったことにしたかのように微笑んだのだった。まるで何かを察したみたいに──。
「あ」
思わず立ち止まる。ああ、そういうことだったのかと納得して。
きっと奏一郎も、“察した”のだ。
首を傾げ、小夜子の顔を覗き見る芽衣。心配そうに揺れる琥珀色の瞳。それに縋ってしまいたくなるけれど、頭の中でいやいや、と頭を振る。
「ごめん、何でもない。帰ろ?」
「……うん」
釈然としない、と言いたげな芽衣。けれど奏一郎に関しての話題を彼女に振るのは憚られる。どういう因果か、相性がどうやら最悪らしいのだ、この二人。
やがて芽衣と別れ、独り。とぼとぼとまだ日の暮れぬ道を歩く。
試験勉強をしている間、誰かと共にいる間は考えなくても済むことが、独りになったその瞬間に頭の中を波打っていく。
奏一郎が、人間じゃないということ。
彼は“巡る存在”で、人の命運を操ることすら可能であるということ。
人の心を持たない彼は、物を通じて人の心を理解するということ。
ここまでは、とーすいから以前に教えてもらっていたことだ。
けれど。
彼は歳を取らないということ。ずっと昔から『心屋』にいて、ずっと独りで生きてきたのだと──今回はまさかの、本人の口から告げられたのだった。
何を訊いてもはぐらかされたり秘密にされたり、が多かったのだ、質問に真っ正直に答えてくれたのはかなりの進歩であると言えるかもしれないが。
「……一緒に……」
一緒に、生きていきたい。
彼が人間ではないとわかってからも、ずっとそう思ってきた。日に日に想いは募る一方で、留まるなんてことを知らなくて。
ずっと側に在り続けられたら。そしてそれを、奏一郎が望んでくれたならどんなに幸せだろうか、とすら思った。
……見当違いな、願いだ。
小夜子は、あと一月余りで十七の誕生日を迎える。来年には十八、再来年には十九。そしてその翌年には二十歳。当たり前のことだ。一年が経てば一つ一つ、歳を重ねていく。
一方の奏一郎は、ずっと昔から──たとえ何年経とうとも──今とまったく同じ姿のまま。きっと何も変わらずにいるのだ。
やがて数十年もの時を重ね、小夜子の目尻に皺が増え、腰が曲がり、膝も弱り、例えば独りでに歩くことすらできなくなったとしても……彼は今と、何ら変わらずに。
そんな彼と、どうやって共に生きていくというのだ?
――例えば仮に、奏一郎さんが私の気持ちを受け入れてくれたとしても。
私はいずれ歳を取って……やがて死んでいく。奏一郎さんを独りにして。
恋に落ちてしまったあの日に、ふと想いを馳せる。
涙を流し尽くし、熱を放つ目蓋と。
夕焼けに染まる笑みの中、彼の放った言葉。
──「さよも三年生になって、いろんな学校を見学して。どこの学校に行くかを決めて、たくさん……たくさん、勉強して。受験して、合格して。たくさんいろんなことをそこで学んで。友達もたくさんできて。いろんなことを経験して……。そうして、そうやって大人になっていくんだね」──
その時感じたのは、焦燥感。そして奏一郎との距離だった。どこか寂しいような。置いていかれるような気がしたのだ──が、それは違った。真逆だった。
それは、置いていく気持ち。
──私は、奏一郎さんを置いていってしまう。私だけじゃない。誰もがそう、置いていく。
誰も奏一郎さんの隣を歩くことはできない。歩調が……歩き方が、スピードが、違うから。
人は、置いていく。
人は、老いていく。
人は──老いて、逝くのだ。




