第十四章:なくすもの ―如月・中旬― 其の弐十七
困るよ……という声は、自然と掠れてしまっていた。
視界に入った“それ”が、声の出るのを邪魔をした、のだ。
「……健康診断でいくつか引っ掛かっちゃってさ。お医者さんにも言われてんだよね、甘いもの控えなさいって……」
「……へえ……そう、なんだ」
桐谷の“言い訳”に、それは残念だったね、と。心のこもっていない台詞だけは、すらすらと舌を滑っていく。
「この歳でそれ言われるってなかなか無いことみたいだし。さすがの俺もお医者さんの言うこと聞いて……」
「そっか、そっかぁ。うん、体のことだもんね、お医者さんの言うことだもんね、仕方ないよね!」
そう口にしながら。たしか、誰かが言っていたっけ、と。静音は思い起こしていた。
怒りが炎となり、どれだけ猛々しく燃え盛ろうとも、悲しみが雪となり、どれだけ激しく吹き荒ぼうとも。一つ、微笑み浮かべれば。たちまち炎は鎮まって、雪はいつの間にか溶けて無くなると。
要するに……何が起ころうとも。破顔一笑それこそが、怒りも悲しみも乗り越えていくために必要なことなのだと。
誰が言っていたのだかわからない言葉を、今、思い出すなんて不思議だなぁと心の中で呟きながら。
にこり、微笑んでみる。
そして、すぐさま理解する。
「……嘘だよ、そんなの」
怒りにも似た、ぐつぐつと煮えたぎるこの感情は。
悲しみにも似た、しんしんと降り積もるこの感情は。
笑顔一つで消すことなど、到底出来はしなかったのだ。
「小夜子からは受け取ったくせに」
小声でぼそり、言葉を落として。部屋の一角を指差せば、桐谷の瞬きが数回、増える。
「一緒にラッピングしたんだもん、すぐにわかるよ。小夜子のだって」
桐谷の鞄の隙間から、ラッピング袋がひょこりと顔を出していた。とは言ってもほんの少し、小指の爪くらいのものだが。そこに在るのは紛れもなく――誤魔化しようもない、小夜子のマフィンだ。
「なんで私からは受け取れないのさー!」
面白くない、とばかりに唇を尖らせて。桐谷の左腕を掴む。上目がちに見つめるも、褐色の眼に己の姿が映ることはない。
交わらない視線。それどころか幾度かの瞬きの後、彼は眼を瞼で覆い始めた……まるで、何かを諦めたみたいに。
溜め息と、同時に。彼の重たい口が開く。
「……違う、から」
「違う……って、何が? あ、あれか。中身が違うからか! パンプキンマフィンの方が好きだったからかー!」
「そうじゃなくて」
またも言葉を遮られたのは静音の方だった。
あくまで、ゆっくりと。独りごちるように。
「……違う、でしょ。さよさよとは。込めた想いが、違うでしょ……」
だからそれは、受け取れないんだよ、と。
付け加えた瞬間だった。
先程まではたしかにあったはずの静音の表情の、笑みが、顔の、朱色が、挙動の――全てが、失せたのは。
彼女の様子に、そしてその変化に気付かない桐谷ではなかった。が、もう放ってしまった言葉が返ってくることはない。それ故に続ける。彼女の顔色が青ざめていくのを、横目で知っていながら。
「だからもう……いいから。俺を想わなくても、いいから……」
その台詞を言い終えて間もなくのことだった。徐に踵を返して。静音は小屋を後にした。
振り返ることは、できなかった。
扉を閉め、足を一歩踏み出せば――冷たい風が一気に体を包み込む。ふと目線を上向ければ、ぼたり、ぼたりと音を立てるようにして舞い落ちていく、白い牡丹。
「……あれ。雪が降るなんて予報出てたっけ」
誰にも、小屋の中の桐谷にも聞こえないくらいの声量でそう呟いてみる。
「いやいや、たしか何も言ってなかったよなぁ」
ぽつり呟く、自問自答。鞄の中を探るも、目当ての物は見つからない。
「傘置いてきちゃったかぁ。仕方ない。濡れて帰る、しか……」
その時、だった。
頬に、ひやりと雪が触れ。先程まで熱を帯びていたはずのそこが、急速に冷えていくのを感じたのは。
頬が、指先が、体が、心が、冷えていく。
唯一熱いところがあるとするならば――きっとそれは、己の目頭だけだ。
「……う……」
急ぎ、掌で口元を覆う。息を漏らしてはいけない。声を出してはいけない。この掌を、放してはいけない。
でなければきっと、泣き叫んでしまう――。
「ふ……うぅ……っ!」
嗚咽混じりの声を掻き消さんと、静音は駆け出した。虎落笛が耳を掠め、全身の鳥肌を誘っていく。
走れば走るほどに焼ける喉。こみ上げてくるそれはどこか、吐き気にも似ていた。
何故、どうして? いつから。
兄は己の気持ちに気づいていたのだろうか?
悟られないようにしていた。物心ついたころからの気持ち。兄にだけは、否、世界中の誰にも気付かれてはならない気持ちだった。
何故って、それは――誰からも認められない、認められることもない、気持ちだったのだから。
それなのに。
「なん、で……なんで……!」
答えてくれる者はいない。
疑問符をいくら並べても。寒空の下を駆け抜けても。雪に濡れても。涙を流しても。泣き叫ぼうとも。
答えてくれる者は、静音にはいない。
走って、走って。走り続けて。どこまでも走り抜けていきたい、そう強く思った。それでもやがて、体力の限界は訪れて――歩調はとぼ、とぼ、と暗い音へ変わっていく。
垂れそうになる鼻水を押さえて、乱れた息も落ち着きを取り戻すと、沸騰していたかのような頭の中も、雪のせいか徐々に沈静化し始めた。頭が冴えてきた、のだ。
それは同時に、現実を受け入れなければならない時が来たということを意味していた。
思わず、静音は背後を振り返ってしまう。
長い、長い片想いだった。「両想いになるだろう」なんて、そんな呑気なことを思ったことはなかった。「両想いになりたい」だなんて、思っていても願うことすら許されなかった。
彼に想いを告げるつもりも、なかった。
告げずとも、いい。想い続けてさえいられれば、それで。
側にいられる時間が、少しでも長くあればそれで――。
そう、思っていたのに。
「……『もう想わなくてもいい』……かぁ……」
言いながら、じわり。涙が視界に滲む。
小夜子からは受け取っておきながら、自分からは受け取れない、と言ったのは……彼女と自分とでは、込めた想いが違うからだ、と。彼はそう言った。
妹からの――妹としての、ではない――好意に……いつからかは知らないが、彼は気付いていたのだろう、と。
ずっと前から気付いていながら、気付かない振りをしてくれていたのか。あるいは薄々勘づいていたのが、ある日確信に変わったのか。
「……どちらにせよお兄ちゃんらしい、なぁ。鈍感に見えて鋭いところ、あるし……」
そういうところも好きだったなぁ、と。心の片隅で、誰かがそう呟く。
それはとても小さな声だったけれど――静音の胸中に、やけに大きく響いて。
胸は、未だ、苦しみを忘れずにいた。
ふと気付けば、家の前だ。窓から見る限りでは、明かりは点いていない。どうやら香澄はまだ帰宅してはいないらしい。
好都合だ、と静音は思った。さっさとお風呂に入って、その後は部屋で眠ってしまえばいい。
冷えた体を温めて、目が腫れないようにどうにか工夫をして――そうだ、明日は学期末試験があるじゃないか。やらなくてはならないことはたくさんあるじゃないか。
そう自らを鼓舞して、玄関の鍵を開ける。真っ暗な上、やはり人の気配もなかった。
暗闇の中、灯りのスイッチを手で探ってみる。ぱっと明るくなったところで、静音は傍らの鏡台に目を奪われてしまった。
垂れた髪の毛が頬に、額にへばりついている。溶けた雪によるものなのか、それとも己の涙なのか。鼻の頭が赤いのは、泣いたからか、それとも外があまりに寒かったからなのか。
静音にはもう、鏡を見てもわからなくなっていた。
ただ一つ、目が充血しているのは誰の目から見ても明らかだ。瞼が重さを増していく。
――明日、こんなんで学校行けるのかな。
数秒間、鏡を見つめながらそんなことを考えていた時だった。
リビングの扉が開き、もそりと動き出す黒い影。
「……あーれ、おかえりぃ」
のんびりとした声が、静音の肩を震わせる。
「やだー、なーに、そんなに濡れて」
雪が降ったのを知らないのだろうか、香澄がふらふらとした足取りでこちらに向かってくる。広がったボサボサの髪の毛、眠たげに半分に閉じられた眼。香澄が顔を覗きこんだ瞬間、ツンとした匂いが鼻を通り抜けた。
「また、お酒飲んできたの……?」
鼻を押さえるふりをして、顔を背けることには成功した。成功こそしたものの、しまったとも思う。まだ、声に涙が滲んでしまっていたのだ。
「そうなのよー。職場で嫌なことあってさぁ。ちょっと聞いてよー。……って、何、あんた。もしかして泣いてんの? 失恋?」
「香澄ちゃんには関係ないでしょ!」




