第十四章:なくすもの ―如月・中旬― 其の弐十六
日直の仕事を終えて、電光石火の如く学校を飛び出した時。ふと振り返ってみれば灯りはもはや点いておらず。もしや自分しか学校に残っていなかったのではないか、と。逸る心臓の鼓動を抑えながら、そんなことを頭の片隅で思う。
すっかり遅くなってしまったのは、クラスメイトの進路調査表を集めるのに苦労してしまったせいだ。今日までの締め切りのはずが未提出者が多く、いつまでに提出するのかを静音が聞き回る羽目になったのだ。とは言っても、もちろん携帯電話を使って、だが。文明の利器というのは時として、便利だからこそ人に不便な思いをさせる。
「お兄ちゃん、もう帰っちゃってるかな……!?」
不安な気持ちは独り言となってこぼれ落ちる。
腕時計を見てみれば、とっくのとうに彼が帰宅していてもおかしくない時間だ。夕食を食べ終えて、ゆっくり風呂に浸かっていても不思議ではない、そんな時頃。
先の「文明の利器」を握りしめ、これには頼らんぞ、とばかりに鞄の奥底に仕舞い。間を置かずに走り出す。
もし桐谷が本当に帰宅しているか、または帰宅途中であったなら――余計な気を遣わせたくない。
――別に、いい。今日渡せなくなったって。恋人同士でもないんだし。そんな間柄じゃない、んだし。
……ただの兄妹、なんだし。
もちろん、今夜渡してしまいたいというのが本音だ。……けれど、それが叶わなかったとして誰が困るのだ。
解は単純、自分だけだ。
桐谷は別に、自分から貰わなくたって苦労も悲しみもしないのだ。ただの妹からの施しなんて――あっても無くても、そんなに変わりはしないのだ。
頭ではそうわかってはいても、両の足が一生懸命に駆けるのは。
――きっと、早く、永く、傍にいたいからだ。
駅の停留所には着いたものの如何せん、憎むべきは田舎のアクセスの悪さだ。時間帯も災いしてか、あと数十分はバス待たなければならない。
「あー、もう! 時刻表見とくんだったー! 私のバカ……!」
心臓が「もう限界」とばかりに早鐘を打つ。白い吐息が頬を包む。額にじわり、玉の汗。
けれど、それすらも振り切って――ただ、走る。駆ける。もしかしたら、北風よりも速く。
電柱の数だって空で言えるかもしれない。それくらい見慣れた道を、あらゆる目印を通りすぎ。何度も何度もそれを繰り返して――やがて、目当ての建物が見えてくる。先ほどの校舎同様、全ての灯りがとうに消えてしまっているように見える。が、幸いなことに門扉に鍵はかけられていない。
まだ誰かしらはいるのだ。あとはそれが、どうか兄であることを祈るだけだ。
近付いてみると、建物の全ての灯りはやはり消えていて。人の気配もそこにはない。それなのに門扉が施錠されていない、ということは――向かう場所は、ただ一つに絞られてくる。
どくどくと音を立てる心臓を宥めながら、今度はゆっくりと歩を進めていく。
次第に視界に入ってくるのはこぢんまりとした小屋。仄かに漏れる暖色の光が、周囲のコンクリートを照らしている。近づいてみればみるほど、テレビの音らしいそれが徐々に大きくなっていく。
いくつかの線となった汗を拭い、大きく跳ねる左胸を擦り。 暴れる息を整えるべく、深呼吸。
扉の前に、柔らかな拳を作って。
トン、トン、トン。
周囲が静かだからか、やたら耳にへばりつくノックの音。それを引き継ぐかのように心臓が再びざわざわと騒ぎ始めた。
それを鎮める術も暇もなく、扉はゆっくりと開かれた。
出迎えてくれたのは――眠たげに垂れた眼に、ところどころくるりと跳ねる路考茶の髪。
「こ、こんばんは! ごめんね、遅くに!」
「いや。……入る?」
「うん! お邪魔しまーすっ」
彼だ。彼に、会えた。久々だ。
緊張して、安堵して。視界が落ち着かない。
「テレビ新調したんだね! なに、まーた壊しちゃったの?」
ソファに腰掛け、たまたま視界に飛び込んできたそれ。電源を落としたのだろう、今はそこには何も映されてはいないが。
「一人だからってやらしいのとか観てたんじゃないでしょーね!」
「別に……観てないけど」
「じゃあ点けちゃおっと!」
放送されていたのはバラエティーの特番だ。ガヤガヤとした笑い声、芸人の叫び声が狭い小屋の中を包んでいく。
「お茶飲む……?」
「飲む!」
我ながら素早い切り返しだなと。……少し、素早いにも程があったかもしれない。
もしかしたらテレビの中では、数多の芸人たちがなにか、面白おかしいことを口走っていたかもしれない。司会がなにか、今後の生活に役立ちそうな知識を披露していたかもしれない。
けれど、テレビなんかに集中できるはずもなかった。
「そ……それにしてもさー、さっき、全然驚かなかったね、私が来た時!」
先の奏一郎とまったく同じだ。目を少しも丸くすることなく。まるで来ることが、予めわかっていたみたいに。
「あー……ノックの音」
「ノック?」
「トン、トン、トン、で三回。回数と、音の間隔でわかったから」
「へぇ、そうなんだ……!」
胸の内が、ほわりと音を立てたみたいだ。彼の中に、自分がちゃんといるのだと。存在を許されたみたいで。
思わず、口角が上がってしまう。
けれど。
「……そんなに嬉しそうにしないでよ」
「え」
ぽつり、落とされた言葉のせいか。心の内に、波紋が広がる。
静音の反応を一瞥したかと思えば、すぐさまその目線は逸らされ……やがて湯呑みへと注がれる。
「はい、お茶しかないけど」
「あ、ありがと!」
手渡された瞬間、自然と触れ合う指先。ほんの少し肌を掠めただけ、なのに。こんなにも掌が温かく感じられるのは、きっと湯飲みに注がれた茶のせいではない。
透き通った茶色に染められた自分が、湖面に映る。ゆらゆら揺れて、まるで安定することのない水鏡――それでも、わかった。
八の字に下がった眉に、それでも口元は笑みを絶やしていない。なんて継ぎ接ぎでアンバランスな表情だろう、と思わず苦笑してしまうほどだ。
「……で、何か用があって来たんでしょ? なに?」
「え? あ! うん。ごめん、ごめん!」
笑みを返しながらも……あれ、と違和感が一つ、沸き上がる。
いつもなら急かすことなく、こちらが本題を切り出すまで待ってくれるような男なのに。表にこそ出さないが、もしかしたらまだ仕事中だったのか、と。
「忙しかったかな、ごめんね。また今度出直そっか!?」
「今でいいから」
……テレビの向こうでは、観客席の笑い声が木霊する。
頭の片隅で思うのは、ああ、やはりテレビはこことは違う、箱の中の別世界なのだなぁ、ということだった。
こちらの世界の、この小屋の空気とは――あまりにも乖離しているのだから。
「……観てないなら、もういいよね」
ぽつり、そう呟いて。
徐に立ち上がると、桐谷はテレビのリモコンに手を伸ばし。間を置かずにテレビ画面が真っ暗になった。
人の心の機微に敏感な彼のことだ、きっと気を遣ってくれたのだろうけれど。きちんと聴く、その体勢を整えてくれたのだろう、けれど。
ふと訪れる、無音の世界。
テレビの電源を落とす、ただそれだけでここまでの静寂に包まれるとは静音も思わなかった。厳密には自分の呼吸と、動悸。それらだけが賑やかな音を作り出しているが。
――いや、でも、ただ渡すだけだし。何も緊張することなんてないじゃん……!?
そう己を叱咤すれば、難なく鞄の中に手を滑り込ませることに成功する。
ガサ、というラッピング袋の音がした時点で、ぴくりと動いた桐谷の眉。ああ、きっともう、さすがに察してるよね――どこか高揚した気持ちで、目当てのそれを取り出す。
「今日バレンタインデーだからさ。お兄ちゃんが好きなの作ってきたんだ! だから、その……いつも、なんだかんだ言ってもお世話になってるしねぇ! 受け取ってもらえたら……」
「ごめん」
突然だった。
用意してきた台詞が、前触れもなく遮られる。表情が、崩される。「ごめん」というたった三文字の言葉で。オブラートに包まれた、残酷な、否定の言葉で。
「……え、何が『ごめん』なの」
目を丸くしながらも、まだ静音の口角は上がっていた。対する桐谷はといえば――
「ごめん、それ受け取れないから。だから、『ごめん』」
頑なな無表情。
何かを決心したかのような。揺らぐことなど、まるで無さそうな鉄の表情だ。
「な……なんで!? ちゃんと練習したし……すっごく美味しく出来たんだから! 食べてくれなきゃ怒るよ!?」
「うん、わかった。怒ってもいいから。でも、ごめん。受け取れない」
これではまるで――受け取れない、ではなくて、より正確に言うならば。受け取らない、という固い意思表示だ。
「り、理由くらい言ってよー! 突然そんなこと言われたってさぁ」




