第十四章:なくすもの ―如月・中旬― 其の弐十参
なぜ静音は事前に言っておかなかったのだろう。日直で遅くなることくらい事前にわかっていただろうに。
もしかしたら桐谷が、先に帰ってしまうかもしれないのに、だ。
けれど、とも思う。いつだって渡せる相手なのだから、今日渡さなければならない理由も無いといえばそうだ。兄妹なんて、それこそ親友以上に気の置けない仲なのだろうから。
一人っ子の小夜子には、永遠にわからない感覚なのだけれど。
けれど、ひょっとして。
そうではなくて。もしかしたら。
「驚かせたかったのかも……ですね?」
だとしたらちょっと、いや、かなり静音に悪いことをしてしまった。
迸る焦燥感。それにストップをかけたのは桐谷だ。
「……いや、単純に忘れてただけかもしんないし。俺も驚く演技しとくから、そこは安心して」
「え、演技、なんてできるんですか?」
「善処します」
へらっと微笑む桐谷。過度な期待はしない方が良さそうだ。
「ところでさ……。きょーやにはまだ届けに行ってないよね?」
「え!?」
急に話の方向性が変わった。なぜ、どうしてここで橘の名前が出てくるのだ。
思っていたことは、思い切り顔に書いてあったらしい。
「だってさ、自分に告白まがいみたいなことをしてきた相手とバレンタインデーに会うってさ。どんな気持ちで会えばいいのかわからなくない?」
きっとさよさよのことだから気が重たくなって、そういうのずるずる引きずって。結果……後回しになるだろうな思って、と。
淡々と紡がれた台詞は、刃となって心を突き刺す。すべて図星だ。その通りだ。
「……桐谷先輩は探偵か何かなんですか?」
「うんにゃ。立場が少しだけ、似てるからね。俺とさよさよは」
それはどういう意味か、と訊ねることは叶わなかった。言い終わるのと同時に胸ポケットから取り出された携帯電話。少ない動作の後、耳に押し当て――
「あ、もしもーし。お疲れ様……まだ仕事中?」
誰かに電話をかけ始めた。どうやら電話の相手とはかなり親しい間柄のようだ。桐谷の口吻が、かなり和らいでいるので。
「そっか、そっか。よかったー、ちょうどいいや……。あと十分くらいで着くからさ。入り口で待っててよ。そう、あの……ぐるっとした方の入り口」
もしかして恋人だろうか、こんな日に会おうというのだから。思わず、電話をしている彼を凝視してしまう。
「バレンタインデーのお菓子を届けに行こうかと。……え、もう充分? そっかー、今年もモテモテだったんだね……。まあ、いいじゃない。せっかく作ったんだし……」
……どうやら、小夜子の見立ては間違いだったらしい。九分九厘、電話の相手は男である。
それも、もしかしたら。恐らく、たぶん、きっと。
「うん、そう言ってくれると思った。また後で~……」
ピッという高い音が小夜子の耳にも伝わってきた。どうやら通話は終わった、らしい。
小夜子に向き直ると、桐谷はぽつり。
「というわけで、さよさよ。俺が届けてもいいけどどうする? それとも自分で、きょーやに届けに行く?」
「途中から、そうじゃないかと思ってましたよ……!」
桐谷のことだ、気遣ってくれたのだろう一連の行動。恐らくは小夜子のためというよりも、橘のための行動なのだろうけれど。
現に、
「きょーや、喜ぶと思うよ」
なんて台詞をぽそっと付け加えるくらいだから。
狡い人だ、と小夜子は思う。「どうする?」なんて言っておきながら。選択肢なんて、最初から用意してくれてはいないのだ。
* * *
吹き荒ぶ北風が、容赦なく体を包み込む。その度にぶるりと体は震えども、バスの通る気配はまったく無い。
寒さも相俟って、これから会いに行く人物のことを考えると気が遠くなりそうだ。
「……桐谷先輩は、橘さんを喜ばせるために私を向かわせるんですか?」
傍らの彼は風に髪を自由に躍らせて、まるで楽しんでいるよう。凍えているようには到底見えなかった。
「うん……? そっか、そうだね、そうなるね」
文字通り、飾りっけのない彼の返答。
「好きな人が向こうから会いに来てくれるって、たとえ片想いでも嬉しいものだと思うから。きょーやもたぶん、きっと喜ぶ。……俺はきょーやが一番大事だからね」
「そ、そうですか……」
こうも正直に返されてしまっては、こちらの心の準備を無視されていたとしても反論ができなくなってしまう。つくづく、自分のペースに巻き込むのが上手い人だ。
「えっと。一番大事なのは橘さんとして……それじゃあ桐谷先輩にとっての二番目って、誰なんですか?」
単なる興味本位からの問い。いつものようにのんびりと、返答してくれると思っての問いだった。
が、意外なことに黙りこくったまま。自らの白い吐息が消え去っていくのを、いくつか見送って。
「……さよさよ。日本で一番高い山って何だと思う?」
十数秒経過してからだった。彼が再び口を開いたのは。返ってきたのは質問の答えではなかったが、解を知っている以上は答えてしまいたくなる。
「え。富士山、ですよね……?」
「せいかーい。そんじゃ、二番目に高い山は?」
「え」
途端、何も言えなくなる。これまでの十余年を振り返ってみるも、小夜子の脳内に解は見当たらない。
「えー、えと。えっと……ちょっと待ってくださいっ?」
「正解は北岳なんだけどね……」
「待ってくださいって言ったのに……!」
桐谷のことをマイペースな人だと、小夜子は思っていた。が、違った。
より正確に言うならば――自分のペースでしか生きられないのだ、この人は。
珍しく饒舌に、件の彼は続ける。
「日本で二番目に面積の大きな都道府県は? アルコール消費量が多いのは? 外国人居住者が多いのは? ……一番は答えられても二番目を答えられる人ってそんなにいないと思う……し、みんな興味も持たないと思う」
「は……はぁ。言われてみればそうですね。たしかにあまり、興味は湧かないかもしれません……」
「俺が言いたいのはね……一番と二番には、それだけ大きな違いがあるってことなの」
俺には今、無いの。
二番目を気にしていられる余裕は無いの……、と。
バスの導いた轟音に、静かな台詞は重なって。そのせい、だろうか。彼の声を小さく感じたのは。バスの明かりのせいだろうか、顔色が悪く見えたのは――。
バスから降りる人影は無い。扉が小夜子を迎え入れれば、仄かに温い空気が冷えた頬を誘う。
車内へ一歩、足を踏み入れたところで。
「ね、さよさよの一番大事なのは誰?」
興味本位、なのだろうか。桐谷は小夜子を見上げると、そんなことを問う。
「わ……私は、大事な人に順番なんて付けたりできません……」
目を逸らしながら。我ながら優等生な、“良い子ちゃん”な返答だと小夜子は思う。けれど、こう答える以外にどうしたらいいのだ。
何故なら彼の問い――その答えは、自らの想い人をさらけ出すのに等しい。
「……そうじゃないでしょ、さよさよ」
厳しい口調ではなかった。まるで諭すように。幼い子供に、言い聞かせるかのように。
「一番はいるんだよ、誰にでもね。それが誰なのか自分でちゃんとわかっていないと、駄目なんだよ。……そうじゃなきゃ、誰のことも大事にしていないのと、変わらないんだから」
早く気付かないと、一番大事なものまで失ってしまうよ……。
そう付け加えて。
「……じゃ、きょーやによろしくね」
彼の台詞を合図にか、扉が閉まる。
「発車しまーす」
覇気の無い運転手の声を耳が捉えれば、徐々に桐谷が小さな、小さな人影へと変わっていく。
平生であれば心身ともに落ち着くはずのバスの中。……それなのに、心臓はうるさい。
「……一番、大事……」
独り、呟く。けれどもどうして、この言葉がこんなにもピンと来ないのだろう。まるで異国の言葉みたいに。
――……なんでだろう。今は何も考えたくない、な。どうしてだろう。
両目を瞼で覆ってしまう。このまま眠りに就いてしまいたい。橘の元へ辿り着くのに、そう時間はかからないだろうに。
自分は一体、何から目を背けようとしているのか――小夜子にはまだ、わからない。




