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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第五章:こわすひと ―長月― 其の壱

《注意事項》いじめを思わせる描写があります。

 窓を叩く、音。

「うわ。雨ですよ、奏一郎さん」

 太陽によって長い間熱せられてきた地面を冷まそうとするかのように、今日は朝から雨が降っていた。

 雨が地面に降り立つ音が、さらさらと聞こえてくる。


 顔を顰める小夜子とは裏腹に、奏一郎は微笑んで、

「おかげで今朝は涼しいなあ」

 とのんきに言う。一方の小夜子は、慌ただしく二階への階段を駆け上る。

「どうした?」

「傘が二階に置きっぱなしで……。あと、念のため替えの靴下も用意しないといけないので」

「さよは雨、嫌いなのか?」

「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」

 好きなわけでもないけれど。


 奏一郎は、どんな天気でも気分を害したりしないのだろう。晴れの日には晴れの日の、雨の日には雨の日の、快適な過ごし方を知っているのかもしれない。

 傘を二階から持ってきた小夜子はローファーを履いて、玄関まで見送ってくれる彼に振り返る。


「今日は休み明けのテストなので、お昼時には帰ってこれると思います」

「そうか……。あ、じゃあ鍵を渡しておこう」

 懐から鍵を取り出すと、小夜子に手渡す。受け取った彼女は、キーケースにそれを仕舞った。

「奏一郎さん、出かけるんですか?」

「ああ。昼食は作っておくから、それを食べるといい」

「は、はい。なんか……何から何まですみません」

 結局、小夜子はこの店に来てから一度しか料理をしていない。それも濃すぎる味付けをしてしまうという大失態を犯してしまった。

 こんな、料理だけでなく段ボール箱の片づけまでさせるなんて。申し訳ない上に、何もできない自分が情けない上に恥ずかしい。


 ところが、当の奏一郎はくすくすと笑う。

「こういう時は、『すみません』よりも『ありがとう』の方が嬉しいなぁ」

「え! あ、ありがとうございます! そうですよね、すみません……っ」

 反射的に謝ってしまう――が、奏一郎は気分を害したわけではないらしかった。その表情は、実に穏やかなもので。親鳥が雛を餌付けしているような。慈愛に満ちている、ように感じた。

「どういたしまして。さ、気をつけて行ってらっしゃい」

「は、はい。行ってきます!」

 オレンジ色の傘を見送って、奏一郎は玄関の戸を閉めようとした。


* * *


「旦那、なに考えてんだ?」

 幼い声。

 とーすいがいつの間にか、仁王立ちでこちらを睨んでいる。閉じかけていた玄関の戸を、再び開く。

「別に……? ただ、面白いことが起きそうだなぁと思っただけだ」

「けっ、よく言うぜ」

 とーすいの苦言などお構い無しに、奏一郎は灰色の雨雲を見上げて微笑んでいた。


「旦那の言う『面白いこと』はいつも、誰かが苦しむことに繋がってるじゃねえか」

「……怒ってる?」

 とーすいは胸を張る。が、彼は水筒なので張れる胸は無い。

「別に。ただ、旦那のそういう性格に問題があることを、教えてやってるだけだ」

「……性格に、問題……」

 奏一郎は失笑した。

「困ったなぁ。僕の唯一“人間らしい”ところが否定されてしまった」

 言葉とは裏腹に、それほど困った様子は無いのだが――。


「あ、そうそう、とーすいくん? 僕はちょっと散歩に出かけてくるから、お留守番よろしくな?」

「な、おい、旦那ぁ!」

 番傘を片手に、奏一郎は店を出た。

 小豆色の傘を広げた彼は、小夜子が先ほど店先に出しておいた、段ボール箱の山を見て微笑みを浮かべ――どこへやら、去っていく。


* * *


「たーちばーなさんっ」


 ――……またか。


 昼時。

 机に弁当を乗せると、隣から響く甲高い声。顔を上げればやはり……あの女性が眼前にいた。

 こげ茶の長い髪はいつもどおりくるくると巻かれていた。くりくりとした大きな瞳は、こちらを興味津々げに覗いている。小柄で華奢な体躯のせいか、その姿はすばしっこい栗鼠を思わせた。

「えっと……」

 咄嗟に名前が思い出せず、橘は眉を顰めた。

「やだなあ、忘れちゃったんですかぁ? 瀬能ですよ、せ・の・う!」

「ああ……そうだったな、失礼」

 唇を尖らせながら、瀬能は橘の隣の席に座る。


 苗字を聞いて自然、下の名を思い出した。

 瀬能 桃だ。今年の四月から同じ部署に配属された、たしか、自分より三つ下の二十四歳だったと記憶している。

 橘は瀬能が苦手だった。何が苦手って、声が苦手なのだ。女性特有の高い声が、昔から好きではなかったためだ。それに、年相応の落ち着きの無い人間自体、そんなに好きではない。だからなるべく関わり合いにならないように接してきたのだが、何故か瀬能は自分に執着してくる。昼時のみならず、たとえ仕事中でも何かにつけ話しかけてくるのだ。


 ――他の男のところに行けばちやほやされるだろうに、意味がわからない。


 張りつけたような彼女の笑みを、なるべく視界に入れないよう努めた。

「この前、この近くで美味しいお鍋の専門店を見つけたんですよ~」

「……はあ、それで?」

 弁当の玉子焼きを口に入れる。


 ――…うん、塩が少し多かったな。


「それでー……橘さんに、今度連れてってもらいたいなー、なんて……」

 瀬能の話を遮るかのように、役所の電話が鳴る。これ幸いとばかりに、急いで玉子焼きを飲み込んだ橘は受話器を取った。


「はい、こちら木下市役所……」

《きょーやー……?》

 自分の名を呼ぶ、惰性的で緩慢な声。橘には聞き覚えがあった。むしろ聞き覚えがありすぎた。

「……桐谷? 桐谷なのか?」


 久方ぶりに聞いたその声に、橘の表情は明るくなるばかりか、徐々に暗さを増していく。何故ならその声が紡ぐ言葉はあまりにも――予想外で、そして橘にとって最悪の展開を告げていたからだ。

「……そうか。今、向かっているんだな? わかった、俺もすぐにそちらに行く」

 電話を切るや否や、彼は食べかけの弁当を包んで鞄に入れると、猛虎のような勢いで走り出す――が、それを止める瀬能。

「どこ行くんですかぁ~!?」

「ちょ……離せ!」

 彼女は走り出さんとする橘のスーツの裾を、両手で掴んでいた。前に進めない。彼女は見た目にそぐわぬ途轍もない力の持ち主だった。


「今、抱えている案件で出かけるんです……!」

「今度お食事に行く話はどうするんですかぁ~!?」


 ――『食事』? んなもん……どう、でも、いい!


 心の中でそう叫ぶも、生来心優しい彼は口にはしない。


「……わ、かりました、わかりましたから! 今度、どこか行きましょう、一緒に!」

「本当ですかぁ!?」

 喜ぶ瀬能が手を離す。急に手を離され転びそうになったものの、なんとか踏ん張った橘は急いで外へと続く扉に向かう。


 ――急がなければ。早く、『心屋』に行かなければ……!


* * *


 テスト終了を告げるチャイムと同時に、安堵の吐息と話し声が生徒達から漏れ出す。

「はい、一番後ろの人、回収ー。名前書いてあるかも確認して、前に持ってきて」

 今まで眠っていたであろう後列の男子が、気だるそうに解答用紙を回収する。

「……どーだった、小夜子? 自信あり?」

 後ろの静音が不安そうに問うので、小夜子もなんだか不安になってしまう。

「うーん……、あまり自信無いかな…」


 ――……一問だけ抜かしちゃったけど……。ちゃんと空欄ずらして書いたよね、私……? ああ、三年前の中間テストの失敗を思い出す……。


「だよね!? 何で課題の範囲外のとこをテストに出すかね!?」

 半分、涙目でまくし立てる静音。相当、自信が無いらしい。

「原、うるさーい。帰りのHR始めるよ」

 杉田が解答用紙を揃え終わったところで、HRが始まった。


 明日から通常の授業が始まること、初回の体育はガイダンスなので、体育着を持ってこなくていい、など。小夜子は聞き漏らさないようメモ帳に記す。

 そんな彼女を見て、静音が後ろから「几帳面だねぇ」と感心している。だが、メモを取っておかないと小夜子は忘れてしまうのだ。

 ――……あとは、このメモ帳を失くさなければ完璧……!


 店の手伝いにしろ、夕食の準備にしろ、自分は失敗してしまうかもしれない――。

 奏一郎のために何かをしたいなら、まずは自分が少しずつしっかり者になるようにしなければ。後ろ向きなようで、前向きな考え方を抱くようにしていた。



 HRが終わり、小夜子が下駄箱に向かうと、雨空をぼーっと見つめる芽衣の姿があった。儚げな彼女の雰囲気に、雨音というのがやたらと似合う。

 少し胸をどきどきさせつつも、口を開いた。

「く、楠木さん? 傘、無いの?」

 ぱっと振り返る彼女は、一瞬だけ目を丸くして小夜子を見た。そして、涼やかな声で返す。

「……うん。教室に置いておいたはずなんだけど……盗られた」

「え!?」

 ――な、なんで?

「よく、物盗られるんだよ私。筆箱とか、教科書とか」

 あっさりと、まるで何事もないかのように無表情でそんなことを言う彼女。しかし、小夜子は納得いかない。

「せ、先生に言った方がいいんじゃ…?」

「いいよ、めんどくさいし」

 小夜子の提案をきっぱりと断る芽衣。自分のことにすら無頓着なところが、やはり奏一郎を彷彿とさせた。


 だが――そんな彼女を見て、小夜子は悲しくなった。

 小夜子も小学生のとき、自分の靴を誰かに隠されたことがあったのだ。それも体育の授業で、ある同級生に怪我をさせてしまった翌日のことだった。靴を盗まれ、後に他のクラスのゴミ箱から見つかったときのことは、鮮明に覚えている。

 あまりにも、ショックだったから。

 そういう類のことはその一度きりで済んだけれど、もしあの出来事が日常化してしまっているなら――こんな悲しいことはない。


「……あの……よかったら、なんだけど。一緒に帰らない?」

 小夜子が笑顔でそう言うと、芽衣は緩く口角を上げて首を左右に振る。今の表情は、笑った、と言えるのだろうか。

「ここから家、近いんだ。だから大丈夫」

 小夜子が止める間も無く、芽衣は雨の降り立つ地に足を踏み入れていた。雨に濡れるのをいとわず、立ち止まった芽衣はこちらを振り返る。

「萩尾さん……林檎」

「え?」

「林檎……買ったほうが、いいかもしれない」

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