第十四章:なくすもの ―如月・中旬― 其の弐十
振り返れば、先程とは何ら変わらぬ朗らかな笑み。そしてその表情のままに、彼は問うた。
「君は今、幸せ?」
どうしてそんなことを訊くのだろうか、と。疑問は頭を掠めるけれど、静音は不思議と口にする気にはなれなかった。
「教えてほしいのさ。恋をしていて、君は幸せなのかどうか。たとえそれが、想いを告げられない相手でも。叶わない恋だとしても。それでも君は、君の恋を幸せと言える?」
教えて、と請われ、頭を抱える静音。彼にそんなことを問われるだなんて、夢にも思わなかったのだ。
ここでひとまず、前置き。
「……ええっと、うん。少なくとも。私は、なんですけど!」
脳味噌を絞りきったような感覚に襲われたのは何故なのか。こんなことを口にするのは、初めてだからだろうか。
「恋なんて、100%の幸せにはなり得ませんよ、浸れませんよ。100%幸せな恋なんて、ありませんよ。必ずどこかで、不安があったり不満があったりして。……でもたぶん、ううん、きっと。それって私だけじゃなくて、どんな人だってそのはずですよ。……ただ私の場合は……」
真一文字に結ばれた、奏一郎の唇。続きを話しても良い、ということなのだろう。静音は続けた。
「たまたま、片想いにしかならない人に恋をしてしまっただけ。想いを告げられない相手に、恋をしてしまっただけ。それがイコール不幸、だなんて私は思いません」
この言葉に奏一郎は何を思ったか。静音には知る由もない。ただ、この青空に似た目の色がぱちぱちと、瞼で隠されたのを見届けただけ。
「一緒にいられるだけでも、私は幸せですから。……知って、ますから。一緒にいられる時間には、限りがあるってこと」
誰に言われずとも、彼女は知っていた。時間は有限なのだということを。
桐谷と共にいられる時間も。想っていられる、時間も。
「……だからきっと今の私は、最高に幸せなんだと思いますよ!」
そう言って、静音は笑う。その温かな表情は、厳冬の夜を越えた朝日のようだ。
「じゃ! そろそろ本格的に怒られちゃうんで、私はこれでっ! それ、今日中にでも食べちゃってくださいねー!」
それ、というのはきっと奏一郎の左手にある、ガトーショコラを指すのだ。走り去る静音の背中を見つめる。蟻のよう、そして蟻よりもさらに小さくなっていく彼女の背中。
「……『知っている』、ねぇ」
ぽつり、独り言をこぼす奏一郎。……否、正確には『心屋』にいるのは一人ではないのだが。
「旦那よう」
旦那、と。奏一郎をそう呼んだのは銀色の水筒だ。雑多に並べられた商品の傍ら、なんと立派な仁王立ち。
「おや、とーすいくん。なんだかお久しぶりだね」
「……まあ、な」
歯切れの悪い返答に加え、なかなか奏一郎と目を合わせようとしないとーすい。そんな彼の様子を気にかける素振りも見せず、世間話に花を咲かせる碧眼。
「なかなか姿を見せないから、どうしたのかと思っていたよ」
「まあ、“お客様”のご来店だからな。俺様だって仮にも商品である以上、張り切らないわけにもいかねぇだろ?」
「そういうものかい?」
それは知らなかった、と言わんばかりに奏一郎はおかしそうに笑った。一方で、とーすいの表情は固い。
「……旦那、それ」
「ああ、静音ちゃんがね。ガトーショコラというお菓子だそうだ」
ゆっくりと、横に振られる銀色の頭。
「いやいや、そういうことじゃなくてだな」
「ふふ、わかっているよ。……以前よりも今の方がずっと……ずっと、膨らんでしまっているからね」
手渡された瞬間に、彼には流れ込むように伝わってしまったのだった。
甘くて、どろどろとしていて。ほんの少しだけ、ほろりと苦い。
そんな心。
込められた想いは――平たく言えば、嫉妬心か。
……いや、より適切で、曖昧な言葉があるとすれば。
「難しいものだね、女心というものは」
* * *
甘い香りと、表情と。今やこの教室はそれらで満たされていた。……いや、それどころではない。溢れきっていた。
「一人につき二つずつだからねー」
手作りのお菓子を全員に振る舞う女子もいれば、
「え、なにこれ? めっちゃ美味しいんだけど!」
まだ一限だというのに既に頬を張らせる者も。
「俺も作ってきたから食え」
「美味しそー!」
男だ女だ関係ないとでも言おうか。分け隔てなくクラス全員に手作りのお菓子を配る男子もいる。
学期末試験を前日に控えているとは到底思えない自習時間。
色めき立つ教室とは裏腹に、小夜子はひたすらテキストとにらめっこ。試験の範囲をもう最後にもう一度確認して、マーカーを引いていく。と同時に、漏れるため息。
単調な作業のはずなのにどうしても集中できないのは、周囲の喧騒のせいだけではあるまい。
――……今日、とうとう、ついに。奏一郎さんにマフィンを渡す……。
味は申し分ない。舌の肥えた静音に、お世辞をほとんど言わない芽衣すらも「美味しい」と言ってくれたのだから。
そう言い聞かせても心臓は、そんなことは知らぬとばかりに早鐘を打つ。今朝からずっとだ。
今朝、奏一郎と顔を見合わせた時からだ。
渡してしまおうか。いや、朝に渡すのは変だろう。自分から渡されたら困らないか。いやいや、彼はそんな人じゃないだろう。
そんな自問自答を重ねに重ね、そうしているうちにあっという間に登校時間。几帳面に包まれたマフィンは今、机のフックにかけられたまま。
ふと教科書から目を離し、辺りを見回してみる。
お菓子の受け渡しを交わしているクラスメイト。当然かもしれないが、皆が一様に笑顔を浮かべている。
「……みんな、浮かれてるなぁ……」
小さな独り言は、誰の耳にも届きはしないだろう。教室中が、いやもしかしたら学校中が。ふわふわと宙に浮かされているようだから。
目の前の席に静音がいたなら、話は違ったかもしれないが。
「ただいま、小夜子!」
「わ!?」
視界の右端から中心へ、突如として登場した件の彼女。うっすら上気した頬は、マラソンでもしてきたのかと疑ってしまうほどの朱の色。
「二限に間に合って良かったー! 杉田ちゃんは誤魔化しようがないからさぁ」
どうやら読み通り、どこからか走って帰ってきたらしい。
「おかえりなさい……。というか、どこに行ってたの?」
「ちょっとした宅配みたいなものかな!」
恐らく静音は、自習時間を利用してチョコレートを届けに行ったのだろうな、と小夜子にはわかった。一つの大きな仕事をやり遂げたかの如く、満足げな表情を浮かべているから。背景の教室に、静音の笑みが混じる。
誰に届けに行ったのかは小夜子には検討もつかないのだが。なにせ静音は顔が広い。




