第十四章:なくすもの ―如月・中旬― 其の十七
今の発言に、嘘偽りは含めていなかった。小夜子はただ純粋に、お礼の気持ちとしてマフィンを桐谷に届けたいだけなのだ。それなのに、そう説明しているのに。静音の眼は先ほどから泳ぎっぱなしだ。まるで――どこか焦っている、ような?
小夜子にしては珍しく、それは的を射た見解と言えた。が、
「……そ、そっか! そういうことなら私も奏一郎さんにガトーショコラあげよっかな~! 何度かお世話になってるし、お礼としてね!?」
「えぇ!?」
……思いもよらぬ発言に、今度は小夜子が目を泳がせることになる。
いくら相手が親友の静音とはいえ、自分以外の女の子が奏一郎に。いくら日頃のお礼だとしても贈り物をする、だなんて。しかもバレンタインデーに、だ。
小夜子にとっては面白くない。面白くはない。本当に、面白くない。
けれども、自らに問う。
奏一郎の恋人でもない自分に、静音を止める権利が果たしてあろうかと。
解は一つ。否、だ。
「い、いいよ……? 別に……」
「よーし、言ったなー!?」
「ちょっと待って。お互いに何の牽制をしているの?」
意味がわからない、とばかりに口元を歪める芽衣。本人たちですらなぜこのような展開になったのか知れないのだから無理もない。
互いに望んだわけでもないのに、だ。何故こんなことになったのだろう?
乙女心とは実に、複雑怪奇である。
* * *
昼から夜になるまで、集中して試験勉強に臨んでいました――そういう設定である。香澄が帰宅した頃には、すっかり綺麗になったキッチン周り。汚れた皿も抜かりなく、ピカピカに磨き上げられている。甘い香りを払拭せんと、この極寒とも言える季節に空気の入れ換えまでしたのだ。香澄に悟られることも当然なく、
「集中して偉いじゃない!」
とシュークリームを景気良く振る舞われる始末。正直、甘いものは今日だけでたくさん口にしているし、人の好い香澄を騙している罪悪感も相俟って、胃が苦しくなりそうだ。失礼な上に怪しまれるかも……と思うと、断るわけにもいかなかったが。
「……私、しばらく甘いものは控えることにする……」
夜道の帰りしな、お腹を押さえてそう宣言したのは芽衣だ。真似をしているわけでもないが、小夜子もお腹を押さえなくては歩けそうにない。
「そう、だね。私もそうする……」
夕飯なんてとても食べきれそうにない。今ごろはもう、奏一郎が夕食を作り終えているところだろうか。今更ながら、心屋に電話機が無いのが悔やまれる。
たしか明日は、雪が降る可能性があると天気予報で言っていた。その前兆とばかりに、今宵は吹き荒ぶ風が容赦なく前髪をさらい額を撫でていく。
前回静音の家を訪れた時と今とでの違いは、大きくはこの突風の有無と。傍らに芽衣がいることくらいか。
「あの……さ。萩尾さん」
徐に、少しだけ。芽衣の声の調子が上がる。と同時に、小夜子は理解した。彼女がこの声色で話し始めた時は、何か言いづらいことを口にする時だということを。
「うん、なぁに?」
それからもう一つ、小夜子は理解していた。微笑みながらの問いかけは、彼女が言の葉を空に放つのを容易にさせるということを。
「えっと……萩尾さんは、純のことを『純くん』って呼ぶよね」
「え、うん」
たしか初対面でそう呼んだ時、彼は少しだけ目を丸くしていたっけ。名前で呼ばれるのが嫌なのか、と当時は思ったものだが、やはりそうだったのか。
しかし、
「……原のことは、『静音ちゃん』って呼ぶね」
純の話題を掘り下げることなく、今度は静音の話だ。
「うん。初めて会った時、『小夜子って呼んでいい?』って聞かれたんだ。私は呼び捨てが苦手だから、未だに『ちゃん』付けなんだけど……」
「そう……」
それきり黙りこくる芽衣。長い前髪は風に煽られ、彼女の表情を隠している。さて、一体どうしたものか。この状態になってしまった彼女から心情を聞き出すのは至難の業だ。
何か伝えたいことがあるのだろうことはわかるが、本人の口から聞かないのでは意味がない。
あえて、小夜子はきりりと口を結ぶ。芽衣に言わせたい。促すのではなく、それよりも前に。芽衣が自分に伝えたいことがあるならば、それを言わせてみたいのだ。
「……えっと……」
たとえ闇夜でも、その琥珀の瞳が縦横無尽に遊泳していることがわかる。その揺らぎようは忙しない。どうやら、相当に緊張しているようだ。
いつもは「大人っぽくて綺麗だな」と思う彼女を、今は「可愛いなぁ」としみじみ思ってしまう。
長い睫毛が何度も繰り返す瞬きも、朱にほんのり染められた頬も。
風向きがほんの少し変わったから見えたのだ、その頬の色は。
風は自由だ。黒髪に波を立たせ、朱の色が広がって耳にまで浸透していく様さえも、容易に見せつけていくのだから。
「その……ごめん。やっぱり、何でもないから」
「そ、そう?」
「うん」
それきり、沈黙。漂う静寂。止んだ風は春の訪れというよりも、まるで芽衣を促しているようだ。こんなに静かになったよ、邪魔なんてしないよ、と。
「何でもない」と、そう言ったか。しかし小夜子だって十六年は女性として生きてきたのだ、女性の言う「何でもない」が、「本当に何でもない」例は数少ないのだということは心得ている。
口にしたくないということであるならば、もちろん詮索はしないけれど。
芽衣はその後、母から頼まれていた買い物があると言って、スーパーの自動扉の奥へと進んでいった。
「それじゃ……萩尾さん、また明日。気を付けてね」
「楠木さんもねっ」
小夜子は笑顔でその背中を見送る、けれども。やはりどこかすっきりしない。それも疑問という名の小さな火種が、心の中でちりちりと、しつこく燻っているからかもしれなかった。
* * *
視界の遠くに、ぽつり。心屋の灯りは、今日も変わらずぼんやりとしたオレンジだった。
先程通りかかったスーパーの看板のように、存在を誇示しない。主張しない。
いざ店先まで辿り着いても、シャッターは開ききっているのに、漏れる灯りはそれほど強くない。ぼうっと歩いていては、ここが店であることなんて誰も気がついてはくれないだろう。繁盛しないわけだ。
「ただいまです、奏一郎さん」
まだ夕食を作っていてもおかしくない時頃だ。にもかかわらず、居間の灯りは点いていない。足音を立てないように意識してしまう。彼はもう、眠ってしまったのだろうかと。
商品たちを通り過ぎ、靴を脱ぎ揃える。障子の扉を開いてみれば、縁側に腰かける奏一郎がいた。
ゆらり、振り返ると。
「おかえりなさい、さよ」
群青に染められた眼に、己の姿が映る。
「奏一郎さん、何してるんですか?」
「うん、少し考え事をね」
考え事にしたって、わざわざこの寒空の下に身を委ねずとも良いのでは、と小夜子は苦笑する。辺りは闇だ。彼にこの表情を悟られることもないだろう――。
「ここじゃなきゃ、考えられないことだったんだ」
「あ……。そ、そうだったんですか?」
夜空色の目は、至って真剣だ。
辺りは闇……とはいえ、月明かりはほんのりと奏一郎の肌を、眼を照らしている。それはきっと、小夜子のそれも同じことだったのだ。
「ご……ごめんなさい、馬鹿にしたわけじゃないんです」
「ふふ、大丈夫。怒ったわけじゃないんだよ」
ふわり、細められた夜空色。どうやら本当に怒っているわけではなさそうだ。ほっと胸を撫で下ろす。
「今日はお夕飯はどうする? 何か食べたいものはある?」
「あ、いえ。今夜は実はお腹いっぱいで……」
「そう? じゃ、今日はご飯を作るのはお休みだね」
本当は、自分のマフィンなんかじゃなくて。奏一郎の作るごはんで満たされたかった。
きゅっと口を噤む。きっとそんなことを言うのは、わがままになってしまうだろうから。
だから探さなくては。代わりを。代わりの言葉を。
「そういえば……さっきまで楠木さんと一緒にいたのですけど。ちょっといつもと様子が違ってたんです」
「へえ?」
『楠木さん』と聞いて、奏一郎がほんの少し首を傾げる。視線は依然、空に向けられたまま。
「私が純くんのことを『純くん』、静音ちゃんのことを『静音ちゃん』って呼ぶのを、あまり面白く思っていなさそうで……。何か言いたげなのに顔を赤くして、でも何も言ってくれなくて。いつもだったら、もっとはっきり……」
「はははっ」
話の途中だというのに奏一郎はからからと、それはさも可笑しそうに笑った。
「ふふ、『面白く思っていなさそう』かぁ。うーん、惜しい。実に惜しいね」
紡がれた台詞は、芽衣の心中を見切った、と言わんばかりだ。そればかりか――、
「可愛いところもあるんだね、彼女」
……そんな、小夜子にとってはそれこそ面白くないことまで口にしてしまうものだから、心がざわつく。
「そ、奏一郎さんは楠木さんが何を考えているのか、わかったんですか?」
雲の奥へと隠れた月は、小夜子の表情も隠してくれた。
「わかるよ」
奏一郎の表情もまた、見えなくなる。けれども、わかる。目に見えずとも、わかる。
「さよ。名前というのはね、とても大事なものなんだよ。相手の名前を呼ぶということは、つまり……」
伏せられた瞼。それは微笑みか、諦観かのどちらか。どちら、なのだろうか。
「……相手の存在を認める、ということだからね」




