第十四章:なくすもの ―如月・中旬― 其の十六
卵や薄力粉、砂糖など、まだ材料が余っていたことが不幸中の幸いだった。
茹でた南瓜をペースト状にしていく小夜子。
静音はマフィンの新たな型を探して家中を東奔西走。
そして芽衣までもが、小夜子に協力しようとボウルの中身を懸命にかき混ぜている。
香澄が帰ってくるであろう時間まで、残り一時間を切ろうとしていた。迫るタイムリミット。出来上がりは遠い。
「小夜子、かき混ぜたらボウル持ってきてー!」
ふるいにかけておいた薄力粉を混ぜ、静音の元へ一直線。
「小さい型しか無かったけど、これで充分行けるからね!」
整然と並べられた一口大のマフィン型に液体を注ぎ入れ。芽衣が予め余熱で温めたオーブンレンジを開く。
「170℃で35分……と」
再びオレンジの灯りに照らされたマフィンたち。
「今度こそ。今度こそ、うまくいきますように……!」
まるで、三人で初詣にでも来たみたいだ。三人並んで手のひらを合わせ、まったく同じことを願うなんて。
二人には申し訳ないなと思う小夜子だったが、「すみません」や「ごめんね」がその口から漏れることはなかった。
「二人とも……手伝ってくれてありがとう」
心からの言葉は、自然とぽろっと落っこちて。拾った二人も、笑みをこぼした。
もちろんその後の証拠隠滅――もといボウルやヘラなどの洗い物の片付け、所々にこぼれた材料の拾い集めは、抜かりなしに。
* * *
三人の願いが通じたのかもしれなかった。焼き上がりをオーブンが知らせると、楕円状にふっくらとしたマフィンがお目見えだ。そもそもマフィンを円錐状に作る方が遥かに難しかったかもしれないが。
とにかく、無事に完成したのだ。
「小夜子、これすっごく美味しいよ! 」
「チョコチップマフィンより、こっちの方が美味しいと思う……」
味見と同時にそれぞれ感想を述べてくれる二人。
小夜子も試しに、一口ぱくりと。
粗熱が取れて間もないせいか。ふわりとした感触、南瓜の甘味がじんわり口の中に広がっていく。咀嚼し、飲み込む毎に柔らかな香りに包まれて思うことは――ああ、なんだか、とても幸せだなぁ、と。
甘いものを口にしているから、だけではないのだろう。静音も芽衣も、きっと自分を想って手伝ってくれたのだろうから。その末に出来上がったマフィンだから。だから余計に幸福感を覚えるのだ、きっと。
それに、出来上がったマフィンの優しいオレンジの色味が――似ているのだ。
街灯もない、暗闇の中。歩き続けてぽつりと見つかる、心屋の小さな灯りに。
「それにしても小夜子、たーくさん出来上がったね。奏一郎さんにはいくつあげる?」
「うーん。三つくらい、かなぁ。あとの残りはどうしよう……」
静音が分けてくれたマフィン型が小さかったために、本来想定していた数よりも倍近くの量のマフィンが完成してしまったのだ。
「楠木さん。純くんってマフィン好きかな?」
ぱっと思い付いたのは、正月に初めて会ったきりの純だった。
「甘いもの好きだから、たぶん好きだと思うけど。……まさか、純に?」
「うん。私はそんなに食べられないし。静音ちゃんも楠木さんも食べてくれたから、もし良かったら……」
話の途中ながら、会話に入ってきたのは静音だ。
「え? なに、楠木って弟いんの?」
「うん。中三」
中学三年生にしては背丈が自分と変わらなかったような、と小夜子は思い出していた。これから伸びるのだろうか、と少し心配にもなる。
「……萩尾さんからって言えば、喜ぶと思う。萩尾さんのこと、気に入っていたから」
「へ、へえ、そうなんだ?」
本人からも言われていたっけ。「俺ね、あんたのこと結構好きだよ」と。……中学三年生にしては、ずいぶんと大人びた発言と表情で。深い意味は無いにしても、「好き」なんてストレートな言葉がよくもあれだけすんなりと出てくるものだ。
「へぇ、楠木に弟ねぇ。あ、それじゃあ私のガトーショコラも……純くん? だっけ? に渡しておいてよ」
余ってるから、と手早くラッピングすると、芽衣に手渡す静音。
芽衣の作ったチョコレートに、小夜子のマフィン、静音のガトーショコラ。
純ならば、何も自分達からでなくても同じ学校の女生徒から大量に貰えそうだが。彼にはマフィン消化の手助けをしてもらうこととしよう。
「あとは……どうしようかな?」
マフィンは残り六つ。父に贈る、なんてことは不可能だ。
と、そこでとんでもないことを言い出すのが静音である。
「恭兄には渡さないの?」
「ええ!?」
鏡こそなくても、小夜子にはわかった。己の目が、真ん丸になっていることに。
「しず……静音ちゃん、いいの? 渡しても!?」
一方の静音はきょとんとしている。どうやら小夜子の反応が意外だったらしい。
「え、いいんじゃないの? 私も渡そうと思ってるし」
「そ、そりゃ静音ちゃんは渡すだろうけどね……!?」
彼女の発言に、小夜子は驚きを隠せずにいた。バレンタインデーに、自分の想い人に贈り物をしても良いだなんて。
自分の好きな人宛に、他の女性からの贈り物が届くだなんて……小夜子だって面白くはない。それなのに静音はあっけらかんと。さもそれが当然とばかりに。
いや、それよりも。
どんな顔で、どんな心持ちでこのマフィンを橘に手渡せば良いのだ、と。
しかし、ここで「渡さない」というのも変だ。きっと静音は、自分を信用してくれた上で発言したのだろうから。
「そ、そうだね。それじゃあ橘さんにも渡すとして……あ。それなら桐谷先輩にも持っていこうかなっ!?」
「ええ!?」
こういうのも、形勢逆転というのだろうか。今度は静音が目を真ん丸にしている。……先ほどの小夜子と同様に、だ。
「え。ごめん、なんで?」
「入院してた頃は毎日のようにお見舞い来てくれたし、お正月にはクレープもご馳走になっちゃって。何かしらお礼しなきゃと思ってたの」




