第十四章:なくすもの ー睦月・下旬ー 其の十四
割れた破片を、二枚重ねたビニール袋の中へと集めていく。掌サイズではあれど塵取りと箒があって助かった。橘により危険物が順調に取り除かれていく一方で、ごく安全な紙の束を集めるのに、桐谷はゆっくりまったりもたもたと。
「この書類いつのだっけ……あ、去年のだ」
「あれ……もうこれって必要ないんだっけ……?」
と独り言を呟きながら一枚一枚確認しているものだから、作業が進まないのも無理は無いが。
「……昨日の夜、親父に急に言われたんだよね。『会え』って」
と、独り言に身の上話が混ざり始めた。作業の手を止めることは、橘はしない。割れたガラスはまだ、拾い終えていないのだから。
「まだ会ったこともない女と、お互いの気持ちも有耶無耶なまま、空気読むように強要されて……それであれよあれよと結婚って……思うと」
俺の人生って、何なんだろうって思って。
ぽつり、ぽつりと紡がれる言葉はあまりにも陰鬱で、静かだった。ビニール袋の掠れる音で、掻き消されてしまいそうなほど。
「……うん、まあ、でもね。会社の発展のため、だし。ここはもう、腹括るしかないのかとも思うんだー……」
けれど、が心中では続くのだろうと、橘は思った。頭の中が「仕方ない」「けれど」「やっぱり嫌だ」で溢れて、ぐるぐると渦を巻いて。そして、そこから。我慢ができなくなって、しまうのだ。
その結果が目の前の、このガラスの破片であり、散らばった紙の束なのだ。
自分の息子がこんな葛藤をしていること、桐谷の父親は果たして知っているのだろうか。知ったところで、理解してくれるかどうか。
「……相手は、どんな人なんだろうな」
せめて相手に好印象を抱いていれば。橘はそう思って問いかけたのだが、
「会ったことない。写真で見る限り、もろお嬢様~って感じ。大事~に育てられてきましたって感じ。箱に詰められてそうな感じ」
「『箱入り娘』な? ……せめて趣味の合う人ならいいが」
残念ながら相手への印象は、少なくとも良くはなさそうだ。
「アニメ鑑賞。読書は漫画が当たり前。ゲームは一日三時間。休日はヒーローショー巡りが趣味の俺と合うお嬢様なんている……?」
「それ本番で言うつもりか? 言うなよ、絶対に言うなよ?」
「……結婚なんてしたら漫画は捨てられゲームは一日一時間。心身ともに健全で健康な生活になっちゃう……」
「良いことじゃないか……」
まとめるとすると。
相手は創業以来の取引先のご令嬢。立場は向こうが上だ。そして紹介依頼も向こうから。会わないなんて選択肢は端から用意されていない。会ったとして、こちらから断るなんてもっての他。
そして何より、ここが肝心。
今後の会社のことを考えると、相手に嫌われてはいけない。
かといって桐谷は、結婚もしたくないので相手に好かれたくない。
つまり桐谷の希望としては、相手の女性に嫌われずに、かといって特別に好かれることもなく後腐れなく振られたい、のだ。
……そんな都合の良い話があるだろうか、と橘は溜め息を漏らす。
「……まあ、どんなに抵抗しようと会うしかないんだろうが。たしかに、向こうからお前を振ってくれるのが一番良いな」
言いながら、気休めだと。それも難しい話だと陰で思う。
桐谷は誰もが目を引くような容姿をしている、というわけではない。背だってそこまで高くない。歳だって今より十は若く――否、幼く見える。故に頼りない印象を抱かれることも多い。
しかし学生の頃から、桐谷のような甘ったるい雰囲気を持つ男に魅せられる女性も少なくなかった。
橘が生徒会長を務めていた頃の副会長も、剛健と恐れられていた女子柔道部の部長も。それにたしか、男子に人気のあった保健医まで。素行不良の桐谷に対し意外や意外、かなり甘かった。
何かしら「力」のある女ほど、桐谷のような危なっかしい男を甘やかしたくなるのかもしれない。
故に橘は密かに危惧していた。
桐谷がご令嬢からかなり好かれてしまった場合のことを。
「やーっと片付いた~……」
橘の思案をよそに、呑気な声を上げる路考茶の彼。
四方八方に散らばっていた紙片を集め、ゴミ袋に仕舞った桐谷。同時に橘も、カチャカチャと音を立てるゴミ袋を小屋の外へ。同時に、コンビニで買ってきたジュースを傍らの彼に手渡す。
ぶどうジュースに頬を綻ばせる親友。小屋に入った頃よりは、ずっと顔色も良くなっている。吐くだけ吐いて、すっきりしたのか。
「手伝ってくれて、話を聞いてくれてありがとう、きょーや……。嫌われないように、でも会社に悪影響が出ない程度に嫌われるように、俺がんばるからね……」
かなり無茶を言っているような気がしたが、きっと気のせいじゃない。
「まあ……まだ時間も一月くらいはある。俺にも出来ることがあるなら協力はしてやるから。あまり思い詰めるな」
「うん……うん」
こくこく、と頷く親友。
グラスではなく、ペットボトルでの乾杯。ビールからジュースへ。
壊された物の片付け。塵取りと箒。
そして十年前とほとんど変わらない顔立ちが、傍らにある。
決して良いこと尽くめではない。それはわかっているけれど。
なんだか十年前にタイムスリップしたみたいだと。
そう感じたのは、甘いオレンジが舌に乗った瞬間のこと。
* * *
立春を迎えども、頬を刺す冷たい空気は春を遠いと思わせる。そんな折だ。
バレンタインデーを翌日に控えた乙女三人。彼女らはいそいそと静音の家で、何やら作業をしていた。女三人寄れば姦しなんて言葉を忘れさせるほどに、静かに、慎重に。
ガトーショコラをいち早く完成させた静音は、ラッピングの準備に取りかかっていた。冷蔵庫で一晩寝かせるため、ラッピングは明日の朝にするようだ。
作ったはいいが渡す相手も家族しかいないということで、芽衣は溶かし固めたチョコレートを深めの皿に鎮座させて終わり。ただ眺めているだけとばかりにファッション雑誌をめくっているのに忙しい。
小夜子はといえば、オーブンの中のチョコチップマフィンの焼き上がりを待つばかりである。すこぶる順調である。今のところは。
「雑誌の占いによるとね~、乙女座は、ラッピングには赤いリボンが吉、だったんだ!」
雑誌を広げ、占いのページを芽衣に見せる静音。赤いリボンは既に購入済みらしい。
「占い」と聞いた瞬間に眉を顰めた芽衣だったが、これも譲歩とでも言うのだろうか。雑誌を引き寄せ静音と半分こにして見ている。
「……『乙女座の恋愛運85%! 赤いリボンにあなたの気持ちを込めると効果大!』……原、まさか信じてるわけじゃないよね……?」
「べ、別にいいじゃん!? 赤いリボンなんて王道にしてありふれてるじゃん! そう言う楠木は何座なのさ?」
「双子座」
「OK、楠木の分も私が読んでやんよ!」
いつもに増して張り切っている静音。ガトーショコラの出来上がりが良かったためだろう。オーブンが焼き上がりを教えてくれた頃には、家中に甘い香りがふんわりと広がっていたくらいだ。
バレンタインデーにこれを贈られるのであろうと思うと、小夜子は橘が少し羨ましく思えた。
可愛くて、明るくて、一緒にいるだけで元気になれる。それでいてお菓子作りも上手な静音から、バレンタインデーに手作りのガトーショコラを受け取れるだなんて、なんて幸せな人なのだろうかと。
――私なんて……ごはん食べてそのまま寝入っちゃうし、ついこの間なんてまたしてもお布団に運んでもらっちゃってるような女だし、料理は下手だし……。
己に課する反省点のあまりの多さに、思わずくらりとしてしまう。
「……『双子座の恋愛運50%! 意中の彼に危機が訪れるかも。それを避けるには行動あるのみ。何もしないのが一番よくないよ!』だってさ。ファイト楠木」
「曖昧にして当たり前なことを言うね」
「もー! 可愛げ無いなぁ!」
穏やかでいて決してそうではないような二人のやり取りに、先程の悩みもどこへやら。小夜子はくすくすと笑ってしまっていた。初めて会った時は、こんなやり取りが繰り広げられる日が来るだなんて夢にも思わなかったから、か。
ふと、雑誌から目を離し。静音が小夜子に向き直る。
「小夜子は何座ー?」
「あ、牡羊座ですっ」
「牡羊座ね~」
パラ、パラ、とページをめくる静音。どうやら小夜子の占いも見てくれるらしい。
「春生まれ……なんだね」
興味を無くしたのか、雑誌を静音に明け渡した芽衣。小夜子を捉える大きな琥珀の瞳は、今日も高価な宝石を思わせる。
「うん! 春といっても三月二十四日だから……少し肌寒いくらいだけど」
「へぇ……高校の卒業式と同じ日だ」
「え、そうなの? 日程が決まってるの?」
こくん、と頷く芽衣。
「去年も、今年も三月二十四日が卒業式。他の学校と比べると、少し遅めかもしれないね。来年の私達もそうだよ」
「そうなんだ……!」
小夜子は目を瞬かせた。
ということは、十八を迎えたと同時に自分は高校を卒業することになるのか、と思って。
「……その時は、卒業祝いと。萩尾さんの誕生日パーティもやらなくちゃね」
「お祝いしてくれるの!?」
「もちろん。約束」
褐色の瞳が、ぱぁっと輝く。
芽衣の口から、「パーティ」や「お祝い」といった台詞を聞ける日が来るだなんてそれこそ夢にも思わなかったから。それも素敵な微笑み付きで。
今から楽しみになってしまう。来年の自分の誕生日が。高校卒業の、その日が。
けれど。
――……あれ?
もしも心に口があるならば、小夜子のそれは「ぽかん」と開いていることだろう。
「牡羊座はねー、『恋愛運60%!』だって」
心の内に生じたのは違和感か。
平生からよく通る、静音の声も遠くに聞こえるほどの。
「『意中の彼と大接近!? だけどそれ以外にも』……」
または、焦燥感か。あるいは。
「『忘れていた、大切な何かに気づくでしょう』」
喪失感、か。




