第四章:こわいひと ―長月― 其の五
* * *
机上の数多の書類の整理を終え、橘はふうと息を吐いて肩を回す。
仕事は器用に的確に迅速にこなす彼だが、今日は夏風邪だとかで休んだ同僚の分、仕事が回されてしまったのだった。
時計を見れば既に夜中の十時。蛍光灯の灯りが点いているにもかかわらず、夜空の深みのせいか手元が薄暗く感じる。
役所にはもう、自分以外に人はいないのかもしれないな。
そんなことを思いつつ、眼鏡を外し目頭を抑える。書面にしろパソコンの画面にしろ、文字を追い続けるのはかなり目の負担だ。
……ふと。たまたま視界の端に映った封筒のせいだろうか、あの店に残してきた茶封筒の存在を──彼のことを思い出してしまう。
「…………」
あの店にはこれまで、十回以上も足を運んだ。無事に、そしてできることならば穏便に立ち退いてほしかったから。自分の力不足で、誰かに傷ついてほしくはなかったから。
だが──奏一郎は、それを拒んだ。
「……俺のしたことは……全て無駄だったわけか」
そう独りごちた。広いオフィスに、声は虚しくも反響する。
その時。携帯電話から流れる着信音。
「……今、一番見たくない名前だな」
携帯電話を開くと、ディスプレイに表示されたのは『薮沢』という名前。県知事である佐々木 上松の、秘書に当る男だ。
こんな時間に何の用だろう、と訝しげな表情で通話のボタンを押す。
「……はい、橘です」
《おお、橘くん、久しぶりだな。佐々木だ。今、周りに誰もいないな?》
瞬間、心臓が大きく脈打った。
何度か会ったことはあった。が、それもせいぜい三、四回だ。と言うのも、なるべく橘は会いたくなかったのだ。何度か食事に誘われることがあってもうまく断り続けた。悪党の話を聞きながら酒を飲むことは、酒に失礼だとすら思ったからだ。
結果、誘われることもほとんど無くなってきていた。以来、彼との連絡はいつも薮沢を介して行われていたのに──本人が直接、電話をかけてくるとは。
──……業を煮やしたか。
橘は心の中で小さく舌打ちをした。
《報告が何も無いということは、まだ『心屋』とやらの主人は立ち退いとらんのか?》
佐々木の不機嫌な声。少し酒も入っているようだ。ああ、酒が可哀相だ。
とは思っているような素振りを一切見せず、冷静な声を返す。
「……はい。どうやら、その気がさらさら無いようでして。交渉は、滞っているところです」
《ふん、手強いらしいなぁ、今回の相手は。薮沢に金を余計に持たせたのに、門前払いをくらったくらいだからな》
「は……?」
──……そんなことをしてたのか、こいつは。断ったのか、あいつ。
佐々木の言葉に、何故か──少し安堵した自分がいる。
けれど佐々木の不機嫌な声色は続く。橘は彼の声が好きではなかった。
彼はメディアで映されるのとはまるで真逆……。乱暴で、横柄で、粗野な人間だ。
《……もう、奥の手を使うしかないか》
電話の相手が小さく呟いた。橘は聞き逃さない。
「奥の手? 佐々木さん、いったい何を……!」
ブチッと、通信が一方的に切られた。どうやら橘の声は、あちらには届かなかったようである。橘の耳に、電話が切れたことを告げる音だけが不気味に響く。
──嫌な予感がする。
役所の窓を開け、橘は久々に顔を上げた。
闇夜は暗雲によって隠され、地面との間に漂う空気は、不快な湿り気を帯びていた。
「……明日は、雨か?」
橘は溜め息を吐いて、書類の角をきちんと揃えた。それでも、胸騒ぎは収まらない。
〈第四章:こわいひと〉 終
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第五章:こわすひと
壊し壊され、脅し脅され。