第十四章:なくすもの ー睦月・下旬ー 其の十壱
夜道を歩くのには、やはりどうしても気を張っていなくてはいけなくて。だから橘が心屋まで送ってくれている間は、知らず知らずのうちに安心していた。心落ち着いていた、はずなのだ。
にもかかわらず今、この瞬間の。弛緩した心地は一体どういうことなのか。
柔らかく、乾いた風が前髪を持ち上げて――額を、ふわりと撫でる。
刹那、小夜子は理解した。
ああ、このシチュエーションは前にもあった、と。
当時と違いがあるとすれば、今日は雪が降っていないことと。橘が熱を出してはいないこと。この二つだけ。
君といると緊張したり、ほっとしたりする、と彼は言ったか。とんでもない。それはこちらだって、同じだ。こちらの台詞だ、と――気がつけば前髪に、額に触れている。
それもまた、当時と同じだ。
「……どうしたら、いいのかな……」
独白が、ほわり、ほわりと。雪の代わりに舞い落ちた。
* * *
出迎えてくれたのはオレンジ色の灯りと、
「おかえりなさい」
雪のように柔らかく、けれどそれよりもずっと温かな笑顔。思わずほっとして、刹那、忘れそうになる。つい先程まで混沌としていた心の内を。
「ただいまです、奏一郎さん」
「もうお夕飯はできてるけど、どうする? 先にお風呂にする?」
仕事をこなしてきたわけでも、働いてきたわけでもないのに、なぜか。小夜子は世に働くサラリーマンにでもなったような気分だ。
と、そんなことより。
「先に作ってくださったんですか……。ありがとうございます。ほんとは一緒に作りたかったのですが……」
また、料理を教えてほしかったのに。もう少し早く、静音の家を出るべきだったか。ふとしたきっかけで湧きあがる後悔に、奏一郎はいやいやと首を横に振った。
「いいんだよ。さよは試験勉強をがんばってきたんだから」
「え……」
たしかに勉強はしてきた。が、果たしてがんばったろうか。集中して勉強なんて、できたろうか。奏一郎の気遣いに後ろめたい気になるのは、集中できていなかった証ではなかろうか。
「う、う――――ん……?」
果たして彼の厚意に甘えていいものか。かと言って、本当のことを言うわけにもいかない。再び、混沌の渦へ。
「何を唸っているのか知らないが、大事な時期なんだから。先にお風呂にするといい。ほら、ほっぺもこんなに冷たい」
「ひっ!?」
ひんやりとした感覚に、左右の頬が包まれる。水仕事を終えた後だからだろう、彼の掌は小夜子の頬と同じくらいに冷たかった。
目と目が合う。顔を上向きにされて、至近距離。彼の吐息が、近い。
「あ、真っ赤だね」
くすくすと悪戯っぽく笑いながら、そう指摘する彼に。顔色の変化だけじゃない、きっと己の頬も、とうに冷たさなど失せている。
「ご飯の用意は任せて、ゆっくりお風呂に入っておいで?」
するり、頬から離れていく掌。何事もなかったかのように暖簾をくぐり、彼は台所へと姿を消した。
ほんの少し、小夜子はいつもよりも急いで階段を駆け上がる。心の内に広がったそれを、忘れようとして駆け上がる。
切ない。
ただ頬を両手で包まれた、それだけ。彼にとってはあの行為には深い意味など無い。「それだけ」に一喜一憂してしまうのはきっと、常に自分の方だけなのだと思うと。
* * *
風呂から上がり脱衣場を出た瞬間に、空腹を誘う香りが鼻腔を擽る。ほんのり甘く、ちょっぴり塩見がかった独特の香り。
脱衣場の扉から隙間を作り覗き混むと、台所からちょうど奏一郎がでてきたところのようだ。茶の間に運んでいたのは、二人分にしては少し大きな土鍋だった。
「奏一郎さん、お手伝いします」
冷えた脱衣場から、不思議なほどに暖かな茶の間へと。そして台所へと、足を運ぶ。
「うん、それじゃあお箸と取り皿だけ運んでくれ」




