第十四章:なくすもの ー睦月・下旬ー 其の十
聞けば相手は、桐谷建設の取引先の社長のお嬢さん、なのだそうだ。正月明け、桐谷の父とその取引先の社長が飲み会を開いたところ、流れでお互いの子供の話になったらしい。
「娘がいつまで経っても結婚はおろか恋人を作る気配すら無いから、お宅の息子さんとちょっと会わせてみないか? と。先方の方が乗り気だったらしい」
「……それって……なかなか断れない、んじゃ?」
「まあ、そうなるかもな。昔から付き合いのある相手らしいし、向こうの方が立場が上ともなると。……桐谷も、将来的には会社を継ぐ身だからな」
「そう、ですよね……」
一歩、一歩。交互に動く両の足。けれど意識は、頭の中。いつものあの、マイペースな無表情と。橘について語る時のあの柔らかな微笑。桐谷が一見何も考えていないようでいて、実はとても思いやりの深い人物であることを、小夜子は知っていた。入院した時だって、毎日のように見舞いに来てくれていたのだから。家族でも友達でも、ましてや恋人でもないのに、だ。
そういえば、まだ知り合って間もない頃、奏一郎と桐谷とで夕食を囲んで語り合っていたっけ。「親からの勧めで結婚させられるかもしれない」とも、言っていたか。
あの時の彼の表情は――とても嫌がっては、いなかったろうか。
「橘さんはこれから、その……相談に乗りに行くってことですか?」
「ああ。事前に会って話を聞いておこうと思ってな。電話口では、相当嫌がっていたから」
ああ、やはり。
何も考えていないようで、実はたくさんの物事を考えている彼の人は――今、どんな気持ちでいるのだろう。
親に持ちかけられた縁談話。それも事情が事情だ、無理と言って断ることも難しい。結婚相手を、生涯の伴侶を、無理矢理決めつけられるに等しい。それはきっと、とても心細いことなのだろうと思うから。
桐谷に特定の相手がいるようには見えないけれども。そういう問題ではないのではないか、と小夜子は思う。
「橘さん、一刻も早く桐谷先輩の所へ行ってあげてくださいね……っ! きっと心細いでしょうから……!」
「ん? あ、ああ」
気迫のこもった発言に、瞬きを数度繰り返してから了承する橘。
「……まあ、もう着いたからそうするつもりだがな」
文字通りの、目前。オレンジ色の明かりを漏らす、木造の小さなお店。紛うことなき心屋だ。
「あ……あれ? もうそんなに歩いてきました?」
「……俺ももう少し歩くものと思っていたんだが」
店の奥からは人の気配。よく耳を澄ませてようやく感知できるそれが、奏一郎の居場所を知らせる。
「どうにも調子を狂わせられてばかりだな、『心屋』には。まあ、『不思議な店』だから仕方ないが」
「そう……ですかね……?」
心なしか小声の橘に、小夜子もつられる。どうやら奏一郎に挨拶をしていくつもりはないらしい。小夜子としても、桐谷の元へ早くに駆けつけてほしいのだが。
「えっと、送ってくださりありがとうございましたっ」
深々と、頭を下げれば、
「いや、俺が好きでやったことだ。気にしないでいい」
なにげなく、さりげなく放たれた言葉。
「好き」。
彼はそういう意味で言ったわけではもちろん、ないのだろうけれど。彼の口から聞くと、むず痒いような、心臓が揺れるような――ぎゅっと、掴まれたような。不思議な、心地になってしまう。
「それじゃ、また」
そう言って軽くコートを翻し、元来た道へと引き返していく彼。きっととんだ遠回りだったに違いない。冷たい風は容赦なく、あっという間に全身を覆い包んでいく。けれど、柔らかなオレンジに照らされた彼が、闇と同化していくまで。気付けばその背を、見届けていた。
――……あ。
弛緩していく両の手指。瞬きを思い出した、両の瞼。
「私、緊張してたんだ……?」




