第十四章:なくすもの ―睦月・下旬― 其の六
けれど、どうしてだろう。どうしても小夜子の目には、静音の恋心は輝いて見える。色で言うならば真っ白、純白、だろうか。朝日を浴びた雪原のように、きらきらと眩しく輝く色。
一方で、自分の奏一郎への気持ちは純白とは程遠い――眩しいとも、輝いているとも言い難い。鈍色のように、感じてしまうのは何故なのか。
「……そろそろ戻ろっか、楠木が機嫌悪くしちゃうかも! ……ていうか、もう悪くなってるかも!?」
「そ、そだね。戻ろっか!」
「小夜子もさ。早く気づけるといいね、自分の気持ちにさ」
響きすらも眩しい。眩しいはずの、その台詞に。
小夜子は、何かが変わってしまうような。終わってしまうような。失われてしまう、ような。……そんな、妙な心地がした。
きっとこれは俗に言う、嫌な予感、というものなのだろう。振り切るようにして、首をぶんぶんと左右に振るも、頭にへばりついたまま。簡単には離れてくれそうもない。
「し、静音ちゃんも! バレンタイン、喜んでくれるといいね……。相手の……人……」
話を転換しようと、口を開いてそう言いながら。小夜子は、はたと気付いた。やっと気付いた。しかし気付くのが遅かった。あまりにも、残酷なほどに。
「そうだね! ほんと……喜んでくれたら、嬉しいなあ……!」
この今、目の前の素敵な笑顔。恋する乙女の想い人は――橘では、なかったか?
事故なのかもよくわからないが己の額にキスをして。
愛の告白にも似た台詞を自分に言い放った、彼ではなかったか、と。
「あ……あれ?」
そう気付いた次の瞬間には、背中にたらりと冷や汗が伝う。
静音の恋を応援したいと思う。本気で、そう思う。しかしながら、いざ冷静に立ち返ってみれば――もちろん、橘が本気で小夜子を好きならば、の話だが――静音の恋にとって一番の弊害は、もしかしなくても自分なのではないか、と。気付いてしまった。
それからは、もはや勉強どころではなくなってしまった。集中などできるはずもなかった。
合間合間に芽衣の作ったチョコレートを頬張るも、静音が作ってくれた生チョコと、無事に完成したガトーショコラを口にするも、舌に残るのは甘い感覚、などではなく。焦げているわけでもないのに、感じるのは不思議とほろ苦い味で。一口飲み込むごとに、喉が石ころを通っていくような心地だった。
静音のガトーショコラを食べる資格も。彼女の隣に座って、談笑する資格も。机を挟んで、共に試験勉強をする資格も。
友達でいる資格も――全て、自分には無いような。失われたような気が、してしまったのだ。
* * *
「それじゃ二人とも、気を付けて帰ってね! 近頃、不審者が出るって噂だから」
「あ、ありがとう! お邪魔しましたっ」
二人が静音の家を後にしたのは、日が暮れてから間もなくのことだった。
先ほどまで小さな温もりを与えてくれていたはずの太陽も、今やとうに地平線の彼方。その代わりとばかりに目一杯吹き荒ぶ虎落笛が、鳥肌を誘う。
「萩尾さん……送ろうか? 原もああ言ってたし、女の子が夜道に一人は危ない」
北風に煽られる黒髪が心配そうに、そんな素敵なことを問いかけてきた、けれども。小夜子はぶんぶん、と首を左右に振る。
「ううん、お家、逆方向だし……夜道が危ないのは楠木さんだって同じだよ?」
――楠木さんって、美人だから変な人に狙われちゃいそうだし……。
とは、思っても言わないけれども。
何となくだが、彼女は自分の容姿をあまり好ましく思ってはいなさそうなので。
「それに今日、寒いし。試験前に風邪なんか引かれたら、責任感じちゃうよ」
「……そう……? じゃ、萩尾さんも風邪とか……色々、気を付けてね」
「う、うん!」
簡単な挨拶を済ませ、背を向けた二人。
背後の彼女の言う「色々」には恐らく、様々な意味が込められているのだろう。変質者に遭わないように、だったり。交通事故に遭わないように、だったり。帰り道に迷わないように、だったり。
どうやら、「萩尾 小夜子=どじっ子」という方程式は芽衣の中にもしっかり根付いているようなので。
「……私だって、普通に帰れるもん」
誰に言うでもなく、そんな強がりを口にしてみせたところで小夜子は歩き出した。独白に答えるように、風は鳴いている。
奏一郎も、静音も、果ては芽衣までも。少し自分を心配しすぎだ、と彼女は思う。小学生でもあるまいし、一度通った道くらいは覚えられる。人通りの多い道を早足で歩けば変質者に狙われることもあまりないだろうし、車通りの少ない道を選べば事故に遭う確率だって格段に低くなるのだから。
間もなく学年も一つ上がる。進路のことも真剣に考えなくてはならない。否が応にもしっかり者にならなくてはならない時期だ。ドジなど踏んではいられないし、いつまでも周りに心配されてばかりでもいられないのだ。
すたすたと両の足を交互に動かす。住宅街の割には、今のところ周囲に人気は無い。が、あと数分もすれば大通りに出ることだろう。
どきどきと高鳴る心臓が、ほうと息を吐いた――その時だった。
「おい」
「はひ!?」
人気は無かった、はず。それなのに、背後から響いたのは低い声。紛れもなく男のものであるそれは、一瞬にして小夜子の足を呼び止める。一際大きく跳ねた心臓は、鼓膜にまで達して音を立てた。
どくん、どくん、と血がざわめく。
同時に頭の中で木霊する、静音の台詞。
――近頃、不審者が出るって噂だし……――
ただのナンパならば、まだいい。誘拐犯か、露出狂か。通り魔だったらどうしよう。振り返らずに逃げようか。逃げられるのか、自分の足で。
思考は駆け巡って、入り組んで。次第に身動きのできないようにと、足を地面に縫い付ける。
そして同時に、容易にしてしまっていた。
「……おい、こっち見ろって」
声の主に、肩を掴まれることを。
「――――……っ」
悲鳴を、上げたかった。が、それは敵わなかった。口から漏れ出たのはただの吐息。声に、ならない、のだ。いかな住宅街と言えど、これでは助けを呼ぶことなど――。
やがて目の前には、小夜子を追い越した男の影。その両の目と、視線がかち合う。
「ああ……やっぱり君だったか」
闇夜に溶け込む、黒い髪。低い声は優しく耳元を掠めると、胸元にすとんと落ちていく。
「どうしたんだ? こんな時間、こんな所に一人で……」
安心しきったように紡がれる台詞の数々。
不審者などと、とんでもない。それとはあまりに程遠い人物像の、橘がそこにいた。
「……った……ちばなさん?」
が、小夜子の理解は遅かった。
遅かった、けれども。先ほどの声の主も。肩を掴んだ男の正体も。彼であったと気付いた、瞬間。
「…………!」
再び、声にならない。声にならない代わりに、褐色の両目からは涙がぼろぼろと零れ落ちていく。これにはさすがの橘も、驚きを隠せない。
「な……何、泣いてるんだ? 何かあったのか!?」
「ち、ちぎゃ……ちが、違います――――……!」
安心して飛び出た涙が止まったのは、心臓が落ち着きを取り戻してから、もう暫く経ってからのことであった。
* * *
「ぎゃ、逆……!?」
「そう。君が歩いていたのは隣町に続く道。『心屋』とは真逆だ」
落ち着いて話を聞いてみれば。
橘曰く、とうに日も暮れているというのに、小夜子らしき人物が『心屋』とはかけ離れた道を歩いていくのを見かけ、どうにも気になり慌てて後を追いかけたらしい。もし彼が小夜子に気付かなかったら彼女は、隣町どころか他県まで延々行脚していたかもしれない。
左手首を見る橘。どうやら時間を気にしているようだ。
「……まだ時間もあるから、『心屋』まで送っていこう」
「だ、だ、大丈夫ですよ! ひょっとしなくてもこれから用事があるのでしょうし、目印になるものさえ教えていただければ……!」
「夜道に君が一人では危ないだろ」
それに目印になりそうなものはこの近くには無いぞ、と。
ぴしゃり。二の句を継がせぬ言い方だ。
本音を言うならば、静音のこともあるので、小夜子は橘と距離を置いてしまいたい。なるべくなら関わらない方がいいのだろうと思っているのだが。
「……よろしく、お願いいたします……」
小夜子には不思議だった。同じ事を言われているはずなのに。芽衣の時にはすんなりと断れたのに、だ。どうして橘にこと関しては、断ることができないのだろう、と。




