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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十四章:なくすもの ―睦月・下旬― 其の五

 英語であれば文法を、数学であれば公式を一刻も早く頭に叩き入れなければならない……だろう。本来であれば。


「ちょっとオーブンの様子見てくる」

 度々、そう口にして席を外す静音。もちろん小夜子のマフィンも見てくれているので、ありがたい……ことではあるのだが。


「もう少し焼き目が付いた方がいいな……」

「中までちゃんと火が通ってればいいんだけど……」

 誰に言うでもなくぽろぽろと独り言を空に放ちながら戻ってくる。再び筆を走らせること、数分。席を外す、戻ってくる。そんな一連の流れが何度か繰り返された頃、

「ちょっとオーブンの様子見てくる……!」

「原、チョロチョロ動かないで」

 二の句を継がせぬその言い方。芽衣の手厳しいツッコミが決まったところで、静音はうう、と身を縮ませた。彼女なりの言い分は、あるらしいが。

「だってさ、だってさ、今回のは練習とはいえさ、好きな人の口に自分の作ったものが入るんだよ? 最高(さいっこー)の味に仕上げたいと思うじゃん!?」

 ……それも、小夜子にとってはまかり通って然るべき言い分だった。


 記憶に蘇る失敗料理の数々。あれらをすべて完食してくれた奏一郎の優しさも、申し訳なく思えて今なお燻っている。

「わ、私もオーブン見てこようかな……っ」

「え!? は、萩尾さんまで……!?」


 呆れたような、ショックを受けたかのような視線を背中の肌が感じ取る。けれども振り返りはしなかった。どうしても、オーブンの中身の行く末が気になるのだ。勉強よりも、それよりも。病的なほどに。


 オーブンの中、ぼわっとしたオレンジの光に照らされているマフィン。まだ焦げ目も付いていないのに、中の生地が膨張したのか、チョコチップの散りばめられた表面が押し上げられている。カップケーキ型の身長よりも、遥か上空に。


「し、静音ちゃん大丈夫だよね!? このままオーブンの天井に到達したりしないよね!?」

「ぶはっ」

 吹き出した静音。……また、とんちんかんなことを言ってしまっただろうか、と小夜子は彼女を見上げる。

「だ、大丈夫。さすがにそんな妙ちくりんなことになった人、見たことないから」

 その「妙ちくりん」なことになった人、第一号にならなければいいが。


 先程までの落ち着きの無さとは一転、静音の穏やかな表情を見るに、彼女のガトーショコラも順調な膨らみを見せているようだ。

 ほっとしたのか綻んだ口元。その少し照れくさいような表情は、かつて「好きな人」について聞かされた頃のそれと、自然と重なった。


「静音ちゃんのお家って、オーブンレンジが二つあるんだね」

「ああ、お菓子作り用に買ったんだ、年末に。新品の方がやっぱり機能も多くていいからさ」

 あっけらかん。そんな、何でもないとでも言いたげな調子で紡がれた言葉に、小夜子はあんぐりと口を開けた。

 オーブンレンジを、買ったというのか。アルバイトで稼いだお金で。


 静音が眺めているオーブンは、長年の使い古し、といった貫禄だ。その一方で、マフィンを一生懸命熱してくれている下段のオーブンは、つい最近買いました、とばかりにピカピカに磨かれている。

 まあ、つまり、そういうことだ。

 自らが稼いだお金で購入した新品のオーブンレンジを、静音は小夜子に使わせてくれている、のだ。


「な、なんか……全力で申し訳な……じゃなかった、ありがとうございます……!」

「いやいや、まあそう気にすんな。今日は練習なんだし、時短ってことでさ。本番は一緒に使おうね!」

 そんな素敵な台詞を、きらきらと眩しいスマイル付きでさらりと言い放ってしまうものだから。彼女が男女問わずモテるというのも、心の底から頷けてしまう。

 自分もいつか、こんな風になれたら、なんて思ってしまう。


「それに、私の貸した物でカップルが一組誕生! なんてのも気分良いしね~!」

 歌うような調子で更に紡がれた言葉には、首を傾げてしまったけれど。

「え?」

「奏一郎さんに渡すんでしょ? 告白、するんじゃないの?」


 「好きです」って。


 ……そんなとんでもない台詞を、素敵なスマイル付きで、言い放ってしまうものだから。

「すす……す、すき!?」

 思わずどもってしまう。が、静音はそんなことにはお構いなしだ。

「小夜子ってば全然相談してくれないんだからー。もうさすがに気づいてるんでしょ? 奏一郎さんのこと、好きだって」

「…………」

 黙り込んでしまう。本当に、そうなのだろうかと思って。


 朝起きて、一番に「おはよう」を交わせることが。

 共に朝食を囲えることが。

 「行ってらっしゃい」と、「行ってきます」を交わせることが。

 自分の帰りを、待ってくれている人がいることが。

 「お帰りなさい」と「ただいま」を、交わせることが。

 「おやすみなさい」を、言えることが。


 そしてその相手が、彼であるということが――途轍もなく、幸せなことのように思える。それはきっと、覆しようのない事実だ。

 けれど。


「私は恋をしたことが無いから……好きっていうのが、どういうことなのかよくわからない……」


 小夜子にはわからなかった。

 静音だって好きだ。芽衣のことだって、もちろん好きだ。けれどそれは、友人として、だ。


「きっと、『好き』にもいっぱい種類があって。友情だったり、尊敬だったり……憧れだったり。でもそれが、恋とどう違うのかわからないよ……」


 実は、迷いもあったのだ。そして今も、本当は悩んでいるのだ。バレンタインの、チョコレート。彼に渡そうか、渡すまいかと。


 奏一郎――彼は、「物」を通してならば人の心を手に入れることが出来るのだと、とーすいから聞かされていたから。

 もしかしたら、このマフィンを渡すことで思い知らせてしまうかもしれないのだ。この、白とも黒とも言えない灰色の、宙ぶらりんな気持ちを。


 オーブンの中、マフィンは膨らみ続けている。天井に到達こそしないけれども、型から飛び出してしまいそうなほどに。


「……あくまで私の場合は、だけどさ」

 そう切り出したのは静音だ。彼女もまた、自らのオーブンレンジの中を見つめている。

「その人に彼女が出来た、なんてこと……耳にしただけで、胸の中が空っぽになりそうになる。相手は結構な歳上だから、そんなの当たり前のことなのに」


 黒の瞳が、オレンジ色の光を捉えている……否、違った。ガトーショコラを見つめているのではなかった。

 きっと彼女が見つめているのは、遠くだ。過去の記憶、なのだ。


「祝福なんて、とても出来ないなぁって。『おめでとう』なんて口にしたら、きっと泣いちゃうから。……その人の幸せを、こんなにも悲しいって思えるのって……誰よりも隣にいたいって気持ちが、強いからなんだろうね」


 なんて激しくて。なんて、強い想い。


「この先、おばあちゃんになったって。いくら探したってきっと、その人の代わりなんかいないんだ」


 なんて眩しい、目映い想い。


 小夜子は思う。


 私の気持ちは、そこまでに激しいだろうか。強い、だろうかと。

 眩しく、目映く、輝ける想いだろうかと。

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