第十四章:なくすもの ―睦月・下旬― 其の参
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腰に巻いたのは、鞄の奥底に忍ばせておいたエプロン。以前の学校の家庭科の授業で手作りしたものだ。長らく使っていなかったはずなのに、お菓子作りを頑張ろう、と強く思わせてくれるのだから不思議な代物である。
「小夜子は何作るか決めたー?」
同じくエプロンを巻いた静音が問いかける。彼女から事前に学校で手渡されていた数々のレシピ。その中から小夜子が選んだのは、マフィンだ。
「えっとね。チョコチップマフィンにしようかなって……初心者の私にも作れるんじゃないかなって思って。も、もちろん失敗することも視野に入れて考えてきたし、いっぱいイメージトレーニングもしてきたし……! オ、オーブン壊したりしないように気を付けるので……ご指導のほどよろしくお願いします……っ!」
「おう、この真冬にオーブンレンジ壊されたらたまんないからね!」
意外、と言うと失礼に当たるのだろうか。小夜子もつい最近になって知ったのだが、静音はお菓子作りが得意らしい。
あまり甘いものは得意でないと言っていたはずなのに、だ。作るのと食べるのとは、また別なのだろうか。
小夜子のそんな小さな疑問をよそに、今度は芽衣に向き直る静音。
「で、楠木は?」
「え、普通にチョコレート溶かして固めるやつ」
「やる気無いなこいつ……!」
「家族にしかあげないのに、やる気も何も」
無表情のままにそう言い放ち、やる気の無さを隠そうともしない。言葉だけでなく態度まで正直なのだ、芽衣は。小夜子からしてみたら、勿体ないような気さえするほどに。
静音はガトーショコラを作るとのことなので、作業の工程はそれぞれバラバラだ。一つしかないキッチンを三人が同時に使用するのには無理がある。そういった意味では、芽衣が簡単なレシピを選択してくれたのには助けられた。チョコレートを刻んで湯煎に溶かし、型に流すだけならキッチンでなくても出来るのだから。
黙々と、キッチン横のダイニングテーブルでチョコレートを刻む芽衣。ちらりと覗いてみれば……俎板の上、お鍋に入れる白菜に近い間隔で切断されているチョコレート。
「楠木、漬物切ってるんじゃないんだからもう少し細く切らないと!」
「……原、細かい」
「お菓子作りは細かく慎重にやんないとだーめーなーの!」
どうやら芽衣も、お菓子作りには慣れていない様子だ。仲間を見つけて思わずふふ、と笑みもこぼれる。
静音の指導の下、小夜子もバターと砂糖を混ぜていく。お菓子作りなんてしたことはほとんど無い小夜子。腕に余計な力が入ってしまう。明日には肩を痛めているかもしれない……明日の我が身が脳内を過ぎるが、目の前のこの作業にとかく熱中してしまう。
一方の静音は流石というべきか、作業中でも会話をするだけの余裕があるようだ。
「楠木はさー、好きな男子いないのー?」
「いないね」
言葉少なな応酬。芽衣の受け答えを聞いて、やはり勿体ないなと小夜子は思ってしまう。
容姿端麗、なんて安易な言葉では言い表せられないほどのその美貌。切れ長の琥珀の瞳。彫刻にも似たすっきりとした鼻筋。剥きたてのゆで卵のような白い肌。すらりと伸びた手足。星々に照らされたかのごとく艶めく黒髪。
それらのすべてが神様から贈られた、人々から愛されるようにと与えられたプレゼントだと思うのに。どんなに手を伸ばそうとも、誰しもが手に入るものではないのだから。
「うーん、なんだか勿体ないなぁ。あんたに憧れてる男子だっていっぱいいるのにー」
うんうん、と首肯する小夜子。しかし、件の芽衣は溜息を吐いた。それは呆れ、ではなかった。どちらかと言えば、そうじゃないでしょう、と言い聞かせる前の――仕方ない、とでも言いたげなそれだ。
「よく言うよ。モテるのは原の方でしょ。この間、日下に告白されたんでしょ?」
「え……ええ!?」
咄嗟に静音に目を向けると、なんと頬を少しだけ赤らめている。どうやら、芽衣の言ったことは本当のようだ。
日下、というのは小夜子らと同じクラスの男子だ。文化祭の劇の脚本を書いたのも、クラスメイト全員の演技指導にあたっていたのも彼。文化祭実行委員の静音とは、話す機会も多かったことだろう。見た目は少し頼りないが、いざという時には度胸のある人、という印象でしかなかった。少なくとも、小夜子にとっては。
「そ、そうなの、静音ちゃん!?」
手元のボウルの存在を完全に忘れてしまった小夜子。必然的に作業の手も止まる。
「い、いや。そうだけど、さ。な、なんで知ってんの!?」
動揺しているのは静音も同じようだ。つい先程までてきぱきと動いていたはずの手が止まっている。今、この場で涼しい顔をしているのは、問いかけられた芽衣だけだ。
「クラスで噂になってたのを耳にした。イヴの……あの文化祭の打ち上げの後にフラれたって」
「ま、まじでか……!」
誰にも言わない奴だと思ってたのになぁと呟きつつ、のろのろと作業を再開する静音。振るわれた茶と白の粉が綺麗に混ざっていく……けれども、ボウルからは少しはみ出てしまっていた。
日下が言いふらしたのか、それとも告白の現場を誰かが目撃していたのか……それは定かではないが。
「まあ、人の口に戸は建てられないって言うから、仕方ないと思うけど。……やっぱり原の方がモテるよ」
お世辞を言うタイプでもない、心からそう思って言っているのだろう。それがわかっているからこそ、静音も首をぶんぶんと全力で横に振っている。
「いやいや、皆さ、私なら断らないだろうとか思うんじゃない!? ほら、ノリで『いいよー』とか言いそうだなーみたいな!」
そう言いながら、生クリームを火にかける静音。あまりにも自らを卑下したその言い方。謙遜しているわけでもなさそうだ。本気で、そう思っているのだ。本音、なのだ。
けれど、小夜子の口から、
「たぶん……違うんじゃないかなぁ」
ぽろりと落ちてきたのも、“本音”だった。
日下のことは何一つ知らない、と言って良いだろう。が、静音の傍には誰よりも長くいる小夜子だからこそ、わかることだってある。
「静音ちゃんは、いつも元気いっぱいで。色んな仕事をたくさん引き受けても、誰よりもにこにこ笑って、誰よりも悩んで、それでもクラスを引っ張ってきたから。だから皆、静音ちゃんを頼りにしてる。……日下くんもきっと、静音ちゃんのそういうところに惹かれたんじゃないかなぁ…… 」
小夜子は思うのだ。
悩んでいても容易には人に見せなかったり、誰にも心配をかけまいと人一倍努力したり。
自らを、研磨する。
そういう人はきっと、輝くのだ、と。
現に、静音は出会った時からずっと輝いているのだから。
そのあまりの眩しさに、直視が躊躇われるほどに。太陽のような人だ、と。
「きっと、日下くん以外にもいるんだろうね。静音ちゃんのこと、だいすきな人」




