第四章:こわいひと ―長月― 其の四
──……本気で、言っているのか?
信じられないという目で奏一郎を見ても、もう彼の表情は見えない。彼はあんずの方に顔を、橘の方に背を向けていたから。
──こいつはどうなる? あの県知事に逆らうことがどういうことなのか、さっき教えたはずだ。……もう見たくないのに。もう、“俺のせい”で苦しむ人を増やしたくは……。
橘は、力強く右の拳を握り締める。
一方の奏一郎は、そのまま静かに言葉を続けた。
「君は自分の仕事をすればいい。……たとえ何が起きようと、最終的に対処するのは僕だろうから」
──『もう、自分のことは放っとけ』ということか。……人の気も知らないで。
「……そうですか。勝手にしてください」
そう言って、なるべく彼らを視界に入れないよう、振り切るようにして足早に歩を進めた。
今は、何も考えたくない。考えたくなどなかった。
奏一郎の言う『自分の仕事』──それは、橘の望むものではないから。それだけはわかっているのに。自分が何をしたいのかは、わからないのだ──。
「うりゃー」
猫じゃらしであんずと戯れる彼の声は、遠く離れてもなかなか橘の耳から離れなかった。
* * *
朝のHRの時間だというのに、がやがやとした教室。その声にどきどきと心臓を震わせながら、小夜子は廊下に立ち、担任──杉田という──が己を呼ぶのを待った。
「はーい、静かにー。静かにしないと、転校生の紹介できないよー?」
教室から聞こえる杉田の声に、小夜子はぶるっと肩を震わせる。
──いや、うるさい方が緊張しないから、先生! 黙らせないでよ~!
小夜子の願いとは裏腹に、徐々に沈静化していく教室。一気に小夜子の緊張は高まる。
「はい、じゃ、入っていいですよー」
──……うわあ、ついに、ついにこの時が……!
「先生」
小夜子が教室に入ろうと扉に手をかけると、女生徒らしい凛とした声が教室から響いた。聞こえてくる応酬に、思わず耳を傾ける。
「どうした、楠木?」
「体調が優れないので、保健室に行ってきます」
杉田の返事の前に、椅子が床を引っ掻く音が響く。
「はいはい、行ってらっしゃい。早退するときは言うんだよ」
手をかけていた目の前の扉がゆっくりと開く。現れたのは、どうやら先ほどの声の主のようだ。
柔らかく波打つ黒髪。廊下の窓から射す光が、卵のような白い肌を照らしている。前髪の隙間からのぞく、右の目尻の小さなほくろが印象的な女の子だ。頭一つ分身長の離れた彼女の、あまりの顔の小ささに目を見開いてしまう。
小夜子と一瞬だけ目を合わせると、すぐに琥珀色の目を逸らして廊下の奥に消えていった彼女。背はすらりと高く、大人っぽい雰囲気だ。小夜子はいつの間にか、その後ろ姿を目で追ってしまっていた。腰まで伸びた美しい黒髪は、長い手足の動きに合わせて踊っている。
──……き、綺麗な人だったなぁ。私みたいな一般人とは違う……女優さんみたいな人。
ぽーっと見惚れる小夜子を、杉田の声が現実に引き戻す。
「萩尾さーん、入っていいよー?」
「あ。は、はい!」
勢いで教室に入り込むと、教室中の視線が一斉に小夜子に注がれた。そんなに見ないでほしい、と強く思う。心臓が太鼓のようにドンドコと響くのが、全身に伝わっていく。周囲に聞こえてしまうのではないかと思うほどの。
「はい、自己紹介」
促され、小夜子は「はい」と震えた声で返す。クラスメイトに体を向けるも、どこに目線を送ればいいのかわからない。
「は、萩尾 小夜子です。と、隣の県から、来ました。よろしくお願いします!」
──……噛まないように、必死に練習したのに!
「はい、拍手ー。あ、席は真ん中の列の後ろから二番目ね」
「は、はい」
拍手の音に迎えられながら、自分の席にいそいそと向かう。その間、何度も周りに会釈をしつつ。
「はい、じゃあ始業式は十五分後に始まるからねー。それぞれ遅れないように体育館に来ること、ちゃんと体育館用のシューズに履き替えること、校長の話が長くても居眠りしないこと。以上!」
杉田が忙しげに教室を出て行くのとほぼ同時に、クラスは賑やかになった。
緊張を吐息で抜くのと同時に、とんとん、と肩を軽く叩かれる。
振り返ると、後ろの席で女の子が笑みを浮かべていた。少しだけ焼けた健康的な肌。くりくりとした大きな黒の瞳はまっすぐにこちらを見つめている。肩にふわりと触れる短い黒髪の艶が、より彼女の清潔感を高めていた。
「『小夜子ちゃん』だっけ?」
張りのある、濁りの無い。聞いていて心地の良い声だ。
「あたし、静音っていうの。原 静音だよ。うるさい奴だけど、まあよろしくね!」
「よ、よろしくっ」
「他にもえーと、同じクラスに陽菜やら恵麻やらいるから……後で紹介するね。あ、ていうか『小夜子』って呼んでいい? 『ちゃん』付け、めんどいからさ~」
「う、うんうん! 全然、嬉しいよ!」
──わあ、なんか……はっきり喋る子だなあ。羨ましい。
「じゃあ、あの……さっきの、教室から出てった子は、何ていう子なの?」
「ああ、楠木のこと? 楠木 芽衣っていうの。独りでいること多いんだよね。変わり者っていうのかな。話しかけても素っ気なかったりするし。独りが好きなんかねー?」
「そう、なんだ……」
独りが好き、か。たしかに、彼女の雰囲気はどこか拒絶的だったように小夜子は思う。近寄りがたい、というよりも。どこか遠ざけられている、ような。
「なに、楠木のこと、気になった?」
「うん、ちょっとだけね」
──……なんとなく、ね、奏一郎さんに似ている気がして。
* * *
夕食の席。
茄子と南瓜の天ぷらに、お蕎麦が卓袱台に並べられている。この蕎麦は彼が打ったらしいのだが、それよりも何よりも、その美味しさに小夜子は驚いた。
蕎麦をすすると丁度よく、心地良い冷たさが体中に伝わる。夏がもうすぐで終わってしまうのが惜しく感じられるくらいだ。
「さよ、学校はどうだった?」
「はい。静音ちゃんという子が話しかけてくれて……自分の友達を紹介してくれました。みんな明るくて良い子そうで、優しい子たちばかりでした」
「そうか、それはよかった」
奏一郎の浮かべるにっこりとした表情に、思わず釘付けになってしまう。彼が本当に、穏やかに笑うから。
すると、しみじみと感慨深げに奏一郎は言葉をこぼす。
「『友達』か……。良いものだな」
「……奏一郎さん、お友達は?」
「うーん」
そう言って天井を見上げる彼。すると、意外な答えが返ってきた。
「よくわからないなあ、そういうの」
小夜子が何を意外に思ったかといえば、他でもない彼の口から『わからない』という言葉が出てきたことである。彼に何かを尋ね、そのように返されたのは初めてだった。
「あ。でも、一緒にいて話をしたり、悩みができたら相談したり、時には喧嘩をしたり。そういうのが『友達』なんじゃないか、とは思うぞ?」
小夜子は頷く。同じ見解だからだ。
「ただ、僕にはそういう相手がいない。『わからない』とは、そういうことだ」
淡々と説明する奏一郎。彼は孤独に慣れているのだろうか。
思えば彼の家族や生い立ちなど、小夜子は何も知らない。敢えて訊かなかったのだ。『他人』が勝手に踏み越えてはならない一線が、人にはあることを、小夜子は誰より知っていたからだ。
──……でも少し、寂しい気もするなぁ、そういうの。一緒に住んでいるのに何も知らない、なんて。
箸の動きが遅くなった彼女に気づいて、奏一郎は口を開く。
「さよは、いい友達をたくさん作るといい。人を想う“心”は、何よりも素晴らしいものだ。それだけは、僕にもわかるから」
「……はい」
静かな口吻のはずなのに、力強く聴こえてしまうのは何故だろう。それだけは、小夜子にはずっと不思議だ。
彼女はだいぶ前から、己が奏一郎をずいぶん信用し始めていることに気づいていた。
見てくれも発言も不思議。尚且つ正体さえも不明瞭な彼のことを、何故ここまで信用できるのか……小夜子自身、よくわからないのだが。
「……あ、奏一郎さん」
「ん?」
奏一郎の、「ん?」という応答が、どうしてだか小夜子は好ましく思う。
「私の部屋の引越し用の段ボール箱、今夜中には片付きそうなんですけど……どこに置いておけばいいですか?」
「ああ……。店の前に出しておいてくれれば、朝にでも僕が資源ごみとして出しておくぞ。活用できる分だけ取っておくけどね」
──……何に使うんだろう、いったい。
「えっと、すみません、ありがとうございます」
「それにしても、ここへ来て三週間ほど経つのに、やけに片付けるのに時間がかかったな……」
言ってからしばらくして、奏一郎はある出来事を思い出して笑い始めた。
「あっはは……。そういえば、部屋の家具を全部ドミノ倒しにしたんだもんな。そりゃあ、時間もかかるよな……」
腹を抱える彼。屈託なく笑ってくれるのは嬉しいのだけど、恥ずかしい気もする。
「はは……いつものドジです……」
それでもやっぱり、嬉しいのだけれど。