第十四章:なくすもの ―睦月・下旬― 其の弐
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返事の代わりに、二、三度瞬きを繰り返す。だって、よく言うだろうに。「愛着が湧いてしまうから、名前を付けないように」と。「別れる時に寂しくなってしまうから」と。
いつも通りと言ってしまえばそれまでなのだが、奏一郎の言葉の真意は読み取れない。
表情からそれを読み取ったのだろう、ただ穏やかににこりと笑みを返す碧眼。
「ただの独り言だから、気にしないでいいよ」
「そ、そうですか……?」
そう言われても、やはり気になってしまうのだが。彼のこういう何気なく零された一言が、「何の意味も成さない独り言」であった例があっただろうか、と。そう勘繰ってしまえるくらいには、小夜子も奏一郎との生活にすっかり慣れ切ってしまったということだ。
「ほら、静音ちゃんとの約束があるんだろう? 行かなきゃ、ね?」
さらに細められた目で見つめられる。ほとんど瞼に閉じ込められた空の色は、陰がかって深みを増していった。それでもなお、朝焼けの時間帯には、あまりに眩しい。
「……では、行ってきますね」
右手にはテキストブックやノートが数冊入ったハンドバッグ。左手には南瓜を包んだ風呂敷。ずしりと感じるのは主に左手。けれども、きっと喜んでくれるだろうから、とどうにか耐える。
小夜子が一歩、足を踏み入れたところで、
「さよ」
名を呼ばれる。素直に振り返れば、視界はピンクとイエローのチェック模様で視界が一杯になる。……一瞬だけ、夢に出てきた格子扉を思い出してしまった、けれど。
あの夢と違うのは、肌にふわりと触れる温もり。
いつも小夜子が首に巻いているマフラー。首筋にかけられたかと思えば、鎖骨の前で交差されて後ろへ流される。一瞬のことで、理解が追いつかない。
「ちゃんと首元も温めないと、ね」
右手も、左手も塞がれていたから気を遣ってくれたのだろう、そうなのだろうけれど。事前に一言、言ってくれればいいのに。言ってくれれば、心の準備も出来たのに。首筋を、指先で触れられるのを覚悟できたのに――。
「こ、今度こそ行ってきますね……!」
「ああ、行ってらっしゃい」
逃げるように、交互に動く両の足。心屋の商品たちを通り過ぎて、シャッターを潜り抜けて。小夜子は駆けていった。
冷たい空気にチクチク、と頬を刺される。否、刺されているはずだった。けれども、首筋に覚えている指の感触が、生まれた熱が、正確な情報を伝えてくれない。
――今更かも、だけど。
私……奏一郎さんと仲直りできて、本っ当に良かったなぁ……!
外の空気を冷たいだなんて、思えなかった。頬は、胸は、体は、心は、温もりを孕んでいた。
* * *
静音の家に向かうのは、実は今回が初めてだった。
初めてだったけれども、まだここら一帯の土地に明るくない小夜子のために、静音は自宅への地図を書いてくれたので迷うことなく辿り着けた。特に迷っていたわけでもないのに、表札の「原」という字に心底安心感を覚えてしまう。
そこまで築年数の経過していなさそうな一軒家。罅一つない真っ新な風体。鴬色に染められた屋根は、さながらドールハウスだ。せっかくの広めの庭に、何も花が植えられていないのが残念だ、草花でも飾れば、より華やかさも増すだろうに。
呼び鈴を押せば、待ってましたとばかりに玄関の扉が間を置かずに開かれた。そこには、いつもに増して笑顔の静音。
「いらっしゃい、小夜子! さ、中に入って入って!」
忙しい手招き。それに従って玄関に入れば、自然と目に入るのは‟もう一人”の物であろうロングブーツ。
「楠木さん、もう来てるんだね?」
「うん、と言ってもほんの数分前だけどね!」
* * *
手を洗わせてもらい、リビングの中に通される。橙色の灯りで照らされたその空間は、色調の効果も相俟って、だろうか。足を踏み入れた瞬間に全身を温もりが包んでいった。床暖房でも取り入れているのか、爪先の冷えもあっという間に去ってしまえるほど。
既にそこには芽衣が落ち着いた風で椅子に腰かけていた。暖房がよく効いているおかげもあろう、彼女にしてはずいぶんと寛いだ気分でいるようだ。
「楠木さん、おはよう。早かったんだね」
「うん……まあね」
返事に覇気が無い。寛いでいる、ように先ほど見えたのはどうやら、睡魔に襲われてしまっているから、というだけのようだ。よく見てみれば珍しいことに、目の下に大きな隈までできている。期末試験が近いこともあって、徹夜の勉強が続いているのだろうか。
「寝不足? 大丈夫?」
この問いにこくんと頷かれても、まるで説得力がない。が、
「大丈夫……。調べもの、しているだけだから」
欠伸混じりにそう付け加えると、芽衣は眠気を振り払うように大きく伸びをし始めた。長い腕が空をまさぐる。
「コーヒーでも淹れよっか? 眠気覚ましに」
「頼むわ……」
静音が上機嫌にキッチンへ向かう。と、そこで小夜子は左手にしていた例のお土産の存在を思い出した。
予想通りと言うべきか、静音は南瓜を受け取った途端に目を輝かせる。
「ありがとー! 私も香澄ちゃんも好きなんだ! 大事に食べるねー!」
彼女が喜んでくれたのが、小夜子は単純に嬉しかった。その綻んだ表情から察するに、南瓜をどう調理しようか既に頭の中で考えているのだろう。
「‟かすみちゃん”? ……って誰?」
さりげなく静音の口から出てきた言葉に首を傾げる。聞き慣れない名前だ。
「あー、私のお母さん。『お母さん』って呼ばれんのが嫌みたいでさ。ずっと‟ちゃん”付けで呼んでんの」
「へ、へえ……そうなんだ?」
珍しいな、と小夜子は思う。
夫に「お母さん」と呼ばれるようになるのを妻は嫌がる、というのは聞いたことがあったが。子供から母親に向かって「お母さん」と呼ぶのを嫌がるなんて、と。
とは言え、世の中にはたくさんの家族の形があることも、小夜子は理解していた。だから変に口出しはしないけれども。
「この後すぐに出かけるみたいだからさ。気兼ねなくキッチンも使えるよ!」
こそっと、耳打ちする静音。その台詞には思わずハイタッチだ。
そう、今日ここへ訪れたのは、期末試験対策のための勉強会――それだけ、ではないのだ。
廊下から響く、パタパタと落ち着いた足音。こんこん、と軽いノックの後、扉の隙間から知らぬ女性の顔――それなのに妙に親近感の湧く――が覗き込んできた。
「静音ー、私のピアス知らない? 見てなーい?」
声も、だ。初めて聞くはずなのに、その張りのある声には聞き覚えがある。
「脱衣所じゃなーい?」
呼びかけに応えるのもまた、それによく似た声だった。
「……あらやだ、あなたが小夜子ちゃん!?」
「え、あ、はい!」
ピアスを探しているらしい女性は、小夜子の姿を見るや、扉を開けてまっすぐこちらへ向かってくる。
清潔感のある、鎖骨までの艶がかった黒髪。大きな黒の瞳はネコ科の動物を思わせる。きっと彼女が静音の母親・香澄ちゃんなのだろう。顔のパーツから雰囲気、声のトーンに至るまで似通っている。四十代半ばくらいだろうか、口の端に小さな皺が寄っているけれども、薄く塗られたファンデーションは十分に彼女を若々しく輝かせていた。
「静音があなたのこと、優しくて頭が良いんだっていつも言ってるのー」
「い、いえ、そんなことは……」
口の上手い人だ。社交辞令であることはわかっているのに、顔を思わず俯かせてしまう。
「うちの子、いっっつも赤点ギリギリだから、今日はビシバシ鍛えてやってちょうだいね!」
お願いよ、と念を押される。これも社交辞令……そう思いたいが、それにしては掴まれた肩の感触が強い。
「もー、香澄ちゃん、いいから! 早く出かけておいでってたら!」
心なしか、そう叫ぶ静音の頬は赤い。
「わーっかったわよう。ちゃーんと集中してなさいよねー!」
唇を尖らせながら退室する香澄。グレーのワンピースに身を包み、ロングコートを片手に引っさげ、颯爽と廊下を歩いていく。
口調に、雰囲気、その闊達な気性、そしてもちろん見た目も。
「静音ちゃんって、お母さんにそっくりだねー」
「あー……うん、よく言われる……」
当の本人はげんなり、といった様子だ。その一方で、終始黙っていた芽衣が口を開く。
「『原、大人バージョン』って感じだったね」
「えー! やだよ、あんなヒステリックおばさんっ!」
首をぶんぶんと左右に振っている。どうやら本気で嫌そうだ。先ほどまでの朱の頬に、今度は青色が差している。不仲というわけでもなさそうだったのに、どうしてこんな反応になるのかが小夜子には理解できそうにない。
「……っていうか! 今はそんなことよりも、さっさと準備に取り掛かるよ!」
ぱんっと手のひらを叩く静音。
「タイムリミットは香澄ちゃんが帰ってくるまで、なんだから……! いざ!」
そう、時間はまさしく有限である。
「ザ・レッツゴー・オブ・クッキング・バレンタイン・ディ!」
「……原は英語の勉強をしていた方がいいと思う」
芽衣の大人しい突っ込みに、小夜子は思わず吹き出した。




