第十三章:のぞむこと ―睦月― 其の弐十五
桐谷の声は瞬く間に波紋となって、広がりを見せていく。
〈俺は……きょーやにいつも助けられてきたから。だから、きょーやが大事。とても大事〉
幼い言い方だった。否、まるで幼い子供に言い聞かせるような言い方を、桐谷がしているのだ。
〈だから、きょーやには幸せに……誰よりも幸せになってほしいって。心から、そう思うよ〉
桐谷の後ろでは、きっと賑やかな宴が繰り広げられていることだろう。それだろうに橘の耳には、桐谷の声しか響かない。それがどうしてかなんて、明白だった。いつもの、のんびりとした調子ではないから、だ。
〈俺はきょーやに寄っかかってばかりだから……これは、我侭なんだろうけれど。きょーやに寄り添ってくれるような人が現れてほしいって。早く……一刻も早く現れてほしいって、思うんだよ〉
言葉を紡ぐにつれ、滲み出てきた焦燥の色。この友人は相変わらず、えらく自分を大切に想ってくれているな、とどこか他人事のように、思わず呆れたように笑ってしまう。それもどこか、力の抜けたような笑みにはなってしまったが。
「何でお前が焦るんだよ」
〈きょーやがいつも、他人を優先するからだよ〉
間髪を容れずにそう言い返してきた。橘はここで、おや、と思う。
ひょっとしてこの友人は今、立腹しているのか、と。
〈ねえ、きょーや。さよさよだって、心屋さんだって、他人だよ。他人なんだよ、自分じゃないんだよ。いつも他人の気持ちを最優先にして、人の気持ちばかり汲み取って……ずっと、そんな神様みたいな生き方してて、きょーやは……いつになったら幸せになれるの……〉
だんだんと弱まる語調。ああそうか、と橘は理解した。桐谷は腹を立てているのではない、悲しんでいるのだ、と。
同時に、懐かしい響きを耳が拾う。「神様みたいな生き方」と。
桐谷は初めて会って暫くした頃から、橘をそう評するようになったのだった。「きょーやの優しさは、神様みたい」や、「人間離れした優しさの持ち主」だなどと。賞賛の響きを持っていたはずのその言葉たち。十年も経った今となっては、非難とも言えるそれに変わってしまった。年明け早々に思うことではないかもしれないが、歳は取りたくないものだ。
「……別に、あの子とじゃなきゃ幸せになれない、なんて話でもないだろ。本気になる前に諦めが付くんなら、むしろ幸運だったとも言えるんじゃないか?」
我ながら屁理屈だ。橘はそう思った。きっと相手もそう思ったのだろう、電話越しの溜息は暗く、長い。
長い溜息の後、それからは長い沈黙が続く。それでも、桐谷が何かを口にしようとしているのが橘にはわかる。だから待つ。友人の、次の言葉を。
そうすればやがて友人は語りかけてくる。いつものように、ねえ、きょーや、と。
〈今日、神社で何をお祈りしてきたの?〉
唐突にして他愛の無いその問いかけは、まるでラジオのチャンネルを急速に切り替えたような気分にさせた。だからこそ、面食らった。まるで、自分の心が見透かされているようで。
「何だっていいだろ、そんなこと……」
〈ふーん。きょーやのことだからてっきり、‟さよさよの病気が良くなりますように”とかじゃないかなと思ったんだけど〉
「……!」
驚いて、あまりにも驚いて。言葉にならない。やはり、どうしてこの男は、変なところで鋭いのだろうと。そうしてそれだけに留まらず――また、言うのだ。
〈それって、もうさ、本気ってことなんじゃないの……?〉
ずけずけと、無遠慮に人の心に足を踏み入れて――暴いていく、のだ。
止めていた足が、ひとりでに歩き出す。ゆっくりと、ゆっくりと、だけれども。
「……笑えない、な」
諦めたように伏し目がちに笑って――そう、橘は、笑んだのだった。
認めるしかなくなってしまった。
ああ、認めよう、認めようじゃないか。本気だと。
本気で好きになって、しまったのだと。
きっと想い続けていても辿り着くのは、本気の失恋なのだろうけれど。
「……桐谷。さっきな、彼女に言えなかったことがあったんだ」
〈うん〉
「……俺だって、ミルクティは好きだ」
〈うん、うん〉
こんな独白を聞かされたところで、訳がわからないだろうに。それでも問い返すことも無く、電話の向こうでただただ、桐谷が頷いてくれているのがわかった。
白い吐息は頬をなぞって、耳元を通り抜け――闇夜に溶けて、消えていく。簡単に失せてしまえるそれが、羨ましい。ほんの刹那の間だけ。
* * *
街灯の色に容易く染められるその髪。それを追うようにして、小夜子は帰路に就いていた。振り返りつつ、奏一郎が訊ねる。
「良い所だったでしょう?」
「はい、良い所を紹介していただきました。ご飯も美味しかったですしそれに……そういえば煙草の匂い、全然しませんでしたね」
聞けば、喫茶『藤』は全席禁煙なのだそうだ。個人経営の喫茶店でそれは珍しいことなのではないか、とも小夜子は思うのだが。
「藤さんは煙草の煙、苦手だから。それに小さい姪っ子さんもよく来るみたいだし、ね。あの店なら、静音ちゃんとか……昼間の芽衣ちゃんも、誘いやすいんじゃないか」
「そ、そうですね」
すんなり、さらりと芽衣の名を口にしてしまえる辺り、こういうところが実に彼らしい。
結局どういう遣り取りが彼らの間で取り交わされたのかを、小夜子は知らない。きっと問い質したところで、奏一郎も芽衣も逸らし誤魔化して、本当のことを教えてはくれないだろうこともわかっている。
「藤さんのためにも、いっぱい宣伝しておいてあげてくれ」
「はい」
思い悩んでいることなど露知らず、呑気な台詞ばかり吐いてくれることを少しだけ恨めしさを覚える。けれど、それに素直に応じてしまっている自分がいるのもまた、事実だった。
「もし奏一郎が良からぬものであった場合は、排除する」という純の言葉。今でも小夜子の胸に、それはぐるぐると渦巻いている。けれど、現に彼は目の前にいる。いつものように穏やかな笑顔で。緩慢な口調で。それが、どんなに幸福なことか。
もしも、だ。芽衣や純のように、奏一郎を人間でないと一目で判断できるような者が他にもいたとして。さらにはその者が奏一郎を恐れ、拒絶してしまったとしたら。
もしかしたら本当に、今度こそ……奏一郎は消されてしまうのではないだろうか。
瞬時に浮かんだ嫌な予感を振り切るようにして、小夜子は首を左右に振った。そんなものは杞憂であってほしい。現実になどなってほしくない。
雪を踏む音。衣擦れの音。ほんの微かな息遣い。穏やかな声。
ほんの少しの風にも容易く揺れる細い髪。小夜子の歩幅に合わせてくれる、優しい歩み。
失いたくない。全てを。この人の、たった一部でさえも。
誰にも傷付けられることのないように、大切に、大切に仕舞ってしまいたい。
唐突に生まれ芽吹いたその言葉は、歩を進めるにつれてぐんぐんと蔦を伸ばしていった。心臓を包んで、締め付けて。血管を這うようにして、全身を侵食して。やがては体の自由さえも、奪えるほどまでに。
自分の意思で、などではないはずだ。そんな大それたことが、できるわけがないのだから。
右手が独りでに、空を彷徨ったのだ――そうに決まっている。やがて前を行く奏一郎の、風に煽られたその袖を掴むことなど、自分にはできるはずがない。
それはきっと、ひどく勇気の要る行為なのだろうから。
袖の先を見て、奏一郎がおや、と足を止めた。小夜子もそれに従う。振り返られてしまえば自然、碧い目に映るのは己の姿。
小夜子には、わからない。彼の目には、自分がどんな風に映るのか。なぜ、自分がこのような行為をしてしまったのかも。
「どうしたの、さよ?」
そう問われることも、少し考えればわかることだろうに。上手い言い訳なんて、思いつきもしないくせに。
「奏一郎、さん」
名を、呼ぶ。
黙る両者。静寂を邪魔するものは、ここには無い。
「……ああ、そういうことか」
凪いだ空気が、奏一郎の言葉を拾う。何に納得したのだろうか、と小夜子が顔を上げた瞬間――右手を、取られる。
奏一郎の大きな左手に、自分の右手がすっぽりと収まってしまっている。右、左と動き出した足。彼が自分の手を引いてくれている。手を、繋いでくれている。それに気づくのには、もう三、四歩分の猶予が必要だった。
「え……手……? 手!?」
閑散としていたはずの空気を、動揺した声が次々に打ち破っていく。それがおかしくてか、奏一郎はくすくすと笑い始めた。
「転ぶのが怖いのならそう言えばいいんだよ、さよ」
そう言って、目を細める彼。
違う、そうじゃない。
そう言葉にするのにも、躊躇いを覚えてしまう。強く繋がれたその手を、振り払うことになってしまうような気がして――結局は口を閉ざしてしまった。体の中の蔦もいつの間にやら、毒気を抜かれたみたいに草臥れてしまったらしい。
ああそういえば、自分は毛糸の手袋をはめていたのだった。勿体ない、ような気がしてしまう。奏一郎の体温がわからない。掌の感触が、わからない。それがひどく、勿体ないことのように感じてしまう。
けれど、とも思う。きっと、素手のままの彼は寒い思いをしているだろうから。だから、ほんの少しでも自分が温めてあげることができたら、それはとても喜ばしいことだ。嬉しいことだ。幸せなことだ。
ほんの少しでも、何かを与えることができたらいい。例えばそれが、たかが手袋越しの温もりだとしても。
そんな殊勝なことを考えている一方で、頭の片隅を横切るのは邪な気持ち。
願わくば――自分たち以外には誰もいないかのようなこの時間が、ずっと続けばいいのに、だなんて。
「……さよ」
「は、はい」
悟られたような気がして、思わず肩を震わせる。けれどそれは、それこそ杞憂だったらしい。
「さよの手、ちっちゃいね。手袋していてもすごくちっちゃい」
「そ……そう、ですか?」
「うん。……女の子の手だね」
悟られるよりも。嫌われるよりも。
この、何の恥ずかしげも無く平然と放たれる台詞に対して警戒するべきだったのだ。
こんなとき、どんな反応を返せばいいのだろう。どんな顔をすればいい。どれが正解なのだろう。ぐるぐると頭の中でたくさんの言葉を、表情を組み立てるも、それらは次々に崩れる積み木に等しい。
ああ、でも、橘は言っていたっけ。「どんな反応をするのかに、正解なんて無いと思う」と。そうあれはたしか、昼間、神社での参拝が終わった後だった、ような。
「……あ、あれ? 奏一郎さん」
「ん?」
「してない、です? 奏一郎さんだけお参り、してないです!」
ほんの束の間、丸まった碧い目。次に漏れ出た台詞は、ああ、そういえばそうだね、だった。
「せ、せっかく並んでたのに、ぴゅーっとどこかに行っちゃうからですよっ」
「あははは。まぁ、いいじゃないかそんなに怒らなくても」
事も無げに笑う彼。小夜子が頬を膨らませたのが、そんなに愉快なのか。
「ずいぶん前に言ったでしょう、自分の願いを叶えるのはいつの時代であっても、どこの世界にいても、自分でなければねって。だから僕は神頼みだなんて意味の無いことはしないよ」
「それはたしかに、そう言っていましたけど」
奏一郎は自分の願いを、自分で叶えられるということなのだろうか。たしかに何でも出来そうだけれども。彼にかかれば不可能なことなど、何も無さそうだけれども。
そう思うのに、どうしてだろう。今日は、今日だけはこの人を言い負かしたくなる。
「でも、ど――しても自分じゃどうにも出来ないことって、さすがの奏一郎さんでもあるんじゃないですか?」
一瞬だけ。小夜子の言葉に、碧眼が揺れた。少なくとも小夜子の目には、そう映った。
「……そうだね。“義務と願望は必ずしも一致しない”らしいから、ね」
でも、いいんだ、と奏一郎は笑う。揺れた碧い目は次第に、大きな瞼に閉じ込められた。
彼は、そのまま続ける。
「僕の願いを、望みを、叶えてくれるモノがいたとしたら。きっとそれは、神様なんかじゃないだろうから」
と。
「きっと、流れ星様だろうから」
と――。
* * *
濡れたタオルを鼻に宛がう。かつて寺子屋として使われていたこの倉は、これまで何人も手を付けてこなかったに違いないと確信しまえるほどに、あまりにも薄暗い埃に塗れていた。黴臭さに息が詰まりそうになる。芽衣はどうにか濡れたタオルで息苦しさを誤魔化しながら、本棚に並んでいた数多の日記を手当たり次第に広げていた。本棚と一口に言っても芽衣よりも背が高い上、メモを差し入れる余裕すら無いほどにぎっちり詰め込まれているのだが。その本棚も一つや二つではなく、壁一面に連なっているのだが。
芽衣が急ぎ探しているのは、もちろん父が言っていた件の日記だ。白髪に碧い目をした男――奏一郎の特徴に当てはまる男――が、遥か遠い昔に楠木神社に来ていたのだと、そう記されていたらしい日記。詳しい内容はわからない。その男を神様だと、霊感のあった曾祖父が評するほどの事柄がそこには記されているに違いないのだ。
もしかしたら、人違いかもしれない……けれども、そうじゃないかもしれない。あの男の正体に近づくためのヒントが、ここにあるかもしれないのだ。
目についた背表紙を掴み、次から次へとパラパラと広げていく。しかし、ここで一つの問題が発生する。
「……読めない……」
これまでに見たことも無いような漢字が使われている、だけでなく。書いたのが大人なのだろう、走り書きがひどい。最早誰にも読ませる気が無いのかもしれないと疑ってしまえるほどに。
――これがもし、寺子屋で教えてたっていう先生の字だったら笑っちゃうな……。
心の声とは裏腹にほんの少しも表情筋を動かすことなく、芽衣はまた別の日記に手を付けた。今度はどうやら筆子の日記のようだ。ああ、やはり先の日記は大人が書いたのだろう。先ほどとは打って変わって、こちらの日記は一文字一文字が丁寧に書かれている。たどたどしさが滲んでいる筆の運び。相当幼い子供だったのだろう。所々に墨の斑点があるのにも、仄かな可愛らしさを覚える。
唯一この日記に難点を上げることがあるとすれば、並ぶ日記の中でもとびっきり古いため、ほんの少しの衝撃でバラバラに崩れてしまえそうなところくらいか。
漢字よりも平仮名が多用されているせいで、ついじっくりと目を通してしまう。
「……『本日は、せいてん、なり』……」
『ちいちやんと、いちろうちやんと、かくれんぼ』
『ちいちやん、さがすのが上手、いちろうちやん、かくれるのが上手』
『本日も まけてしまつた』
思っていた以上に小さい子供だったらしい、この筆子。日記に書かれていたのは誰と、どんな遊びをしたのか、そしてその結果だけ。
『ちいちやんと、いちろうちやんと、おにごつこ』
『ちいちやん、はしるのが上手、いちろうちやん、にげるのが上手』
『本日も まけてしまつた』
頁をいくらめくれどもこの筆子、一度も勝負事に勝てていない。『本日も まけてしまつた』の連続である。何だか不憫な気持ちにすらなってしまうほどだ。
が、残り少ない頁に差し掛かった頃だった。
『やつと かてた』
小さな喜びが、その頁には広がっていた。もういいだろうに、白髪の男とは関係ないだろうに、思わず頁をめくってしまう。
『かくれんぼ とちゆうで しらない だれかを まぜた』
『しろいかみ あおいおめめ おそらみたい』
『おなまえ かんじがむずかしい』
『でも おしえてくれたから』
『だから いつぱい かいて おぼえる』
『あたらしい ともだち』
『白蓮』
〈第十三章:のぞむこと 終〉
次章は
〈第十四章:なくすもの〉
甘い香りに浮かされて。
失くす。失う。いったい何を?




