第十三章:のぞむこと ―睦月― 其の弐十四
少し言いにくそうにしながらも、橘が口を開く。
「それにしても君は何というか……危なっかしい子だな。少し目を離せばすぐに何かしらのトラブルに巻き込まれる」
恐らく、昼間の純に連れていかれそうになった時のことを指して言っているのだろう。同時に、そういえば、と小夜子は思い出す。
純に手を引っ張られた時と、橘に体を引き寄せられた今、この時と。当たり前なのかもしれないが、橘の方がとても力強かったな、と。ああ、この人は自分とは違う、純とも違う――大人の男性なのだ、と改めて思い知らされる。引き寄せられた左腕が今、さらに熱を覚え始めた。
「学校や下宿先でもこんな感じなのか?」
「ひ、否定できかねます」
「笑えないな……」
ほとんど呆れたようにして、溜息交じりにそう零す橘。反論できないため、小夜子もバツが悪く押し黙ることしかできない。
だからこそ、だった。
「……そんな君だから、見守っていけたらと思ったんだけどな……」
こんな静かな夜だったから、一言一句漏らさずに小夜子の耳には届いてしまうのだった。諦観の色に満ち満ちた、彼の声が。
店から漏れた仄かな灯りが、彼の表情を知らせる。伏せられた瞼に、ほんの少しだけ上がった口角。
その言葉と表情の意味するところを、わかってしまったような。けれどやっぱりわからないような。どうしてこの人は、こんなにも簡単に人の頭の中を混乱させてしまえるのだろう。
「……大丈夫なようなら、そろそろ起きてくれるか?」
「は、はいっ。ごめんなさい!」
互いに上体を起こし、付着した雪を叩いて落としていく。幸い泥も混じっていないため、服が汚れた心配もせずに済みそうだ。
「そ、そういえば、さっきの聞きたいことって一体何だったんですか?」
「ん? あぁ……あれか。いや、大したことでもないんだが」
ずれた眼鏡を直しつつ、橘は途切れてしまった話の続きを舌に乗せた。
「今日のお節。あれは、奏一郎と君で作ったのか?」
「え? あ、はい、そうなんです!」
クリスマス以降、冬休みに突入した直後から、奏一郎とお節の用意を着々と進めてきた。
時々焦がしたり零したり沸騰させたりといった失敗を繰り返しながらも、
「二人に美味しいって思ってもらえるように、一緒にがんばろうね」
と、励まされつつ。そしてやっと今日、無事にこの日を迎えたのだった。
「でも橘さん、よくわかりましたね、私も一緒に作ったって」
「さっき奏一郎が、『僕もさよもお節を提供したんだから』って言ってただろ。……美味しかった、から。俺もご馳走様って、君に伝えなきゃと思ってな」
ありがとう。
その掠れた小さな声を耳が拾っている隙、だった。徐に、髪に手を伸ばされる。そう気づいた時には、もう遅くて。彼の大きな手が、小夜子の頭をふわりと包んでいた。同時に、まるで撫でられるように触れられて――……気のせいだ。心臓が一度だけ大きく揺れたのはきっと、気のせいだ。
何故なら彼は、頭を撫でてきたのではなくて。ただ、髪に付いた雪を払ってくれただけだったのだから。変に意識する方が、おかしいのだ。
「……ああ。それと、それ以外にも言いたいことがあった、かな」
「な、何ですか?」
変に声が上擦る。どうしてこの人と話す時には、落ち着いて話すことができなくなってしまうのだろう。そう疑問に思ってしまうけれど、どうやらそれは橘も同じらしかった。いつも冷静で、落ち着いた態度でいるはずの彼が、何故か今この時だけは口ごもっているのだから。
「深い意味は無い……し、今となっては言う必要も無いかもしれないんだが」
そう、前置きしてから彼は続けた。
「そりゃあ、生まれつきとは思えないくらい明るいが……俺は、君の髪の色を変だと思ったことはないし。むしろ、綺麗な色だとすら思う。……二番煎じなのはわかっているが、それでも言うけどな。ええっと、だな」
橘が言わんとしていることが何なのか気になって、小夜子はじっと橘を見つめてみた。……これも気のせい、だろうか。心なしか、橘の耳が赤くなっているような。
「その、だな。あいつだけじゃなくて……俺も。俺も、ミ」
チリンチリンチリン……と。高らかに鳴り響く風鈴は、無情にも橘の声を掻き消した。店の扉が唐突に開かれたのだ。中から現れたのは、にこやかな表情のままの奏一郎。
「ああ、二人とも外にいたんだ?」
扉が閉まるのと同時に、踏みしめられた雪の音が徐々に近づいてくる。
「話の途中だったみたいだな。どうぞ、続けて?」
そう言って目を細める奏一郎に、橘の表情が引きつった。やはり、気のせいだったのだろうか? 橘の耳は赤くなってなどいなかった。
「……いや、いい。ちょうど済んだところだ」
「おや、そうか?」
小夜子からしたら、話の途中であったことは明らかなのだが……橘が口を閉ざしてしまった今となっては、もはや続きを聞くことも叶わないだろう。
「それじゃ、俺は帰る。今日は色々と、世話になったな」
雪の積もった段差を登り、橘は独り、歩を進め始めた。
「こちらこそ、お夕食ご馳走様。また心屋に将棋しに来てくれ、たちのきくん」
「あのなぁ……俺以外に将棋を指せる友達作れよ……」
立ち止まり振り返るその表情は、やはりどこか引きつった笑みだ。珍しいことに、言葉の調子もほとんど投げやりだ。
それに気づいているのかいないのかは知らない。もしかしたら、気付いていたところで態度を変えることもないかもしれないけれど――奏一郎は眉を八の字にして、困ったように笑うのだった。
「えー……たちのきくんほど筋が良い人なんて、なかなか見つからないよ。僕を独りにしないでおくれよ」
「お前さっき、『自分はそれほど独りじゃない』って言ってなかったか?」
「まあ、細かいことは気にするな? 待ってるからなー」
今しがた浮かべていた困ったような笑みから一転、花が咲いたように微笑む奏一郎。見た目にそぐわないお方が、ここにも一人。なんて強引なのだろう、と小夜子は思う。と同時に、この言い方では、何だか断るのも悪いような気がしてしまうのではないか、と。
橘もそう思ったのだろう。数秒の間を置いてから、やがて諦めたように、「わかったよ」とだけ小さく呟いたのだった。
一つ、また一つと街灯に照らされる彼を何度か視界の中に捉えながら、その背中を見つめる。心屋に今朝訪れた時と同じ、もしくはそれ以上に。そこから陰鬱な雰囲気が醸し出されているような。そんな気がしてしまった。
* * *
奏一郎と小夜子、二人が自分の姿が見えなくなるまで見送ってくれているのがわかる。
けれども彼らを視界に入れるのが、何故だか憚られて――結局、一度も振り返ることもないまま家路に就こうとしていた。
「……何を、やっているんだろうな俺は」
真冬の夜道には、独り言も哀しく反響する。この寒空だ、人気など無い。踏みつけられた雪の音と、自分の息遣いと。両の耳が捉えてくれるのはその二つだけだった。だからこそ橘の頭の中では、嫌が応にも先ほどの自分の言動が、行動が、今日一日の出来事が巡ってしまうのだ。
純に言われた、あの一言――「間違えないようにね。手を伸ばす、タイミングを」。
その言葉も、先ほどの自分の行動とリンクして思い出され、やがては、
――もしかしたら俺は、既に間違えてしまったのではないか。
そう思ってしまうのだった。
しかし、橘の思考を遮ってくれるものがあった。静寂を破ってくれたのは携帯の着信音。ディスプレイを見れば、そこには「桐谷」の文字。
仕事仲間とまだ飲んでいるのだろうに、なぜ電話がかかってくるのだろうか。
まさか、また酒を飲んで店に迷惑をかけたのか。または社員とトラブルでも起きたのか。
刹那の瞬間に嫌な予感が駆け巡り、急いで電話に出る。
「もしもし、俺だ。どうした? 何かあったのか」
〈あ、きょーや。やっほー……。元気? 俺と別れた後、さよさよとはどうなったのかなと思って……〉
気になって電話してみた、と。
桐谷の声以外にも、賑やかなそれらが背後で飛び交っているのがわかる。どうやら喧嘩が起きているわけでも無さそうだ。一気に耳元がうるさくなったが、ほっと胸を撫で下ろしてしまう。
〈もしかして……勢いで告白して成功しちゃったりした……?〉
珍しいことだ、見当違いにも程がある……思わず、苦笑すら浮かべてしまえる程だ。
「いや……むしろその逆だ。もちろん告白なんてものはしていないが。今日一日だけで三回はフラれたようなもんだったぞ……」
告白すらしていないのに、三回も振られることってあるんだ、と電話口の友人は呑気に笑っている。橘もまさか、そんなことが起こり得るとは今日の今日まで思っていなかったのだが――。
「あの二人は、何と言えばいいか。お互いに『好きだ』と口にしていないだけで、ほとんど両想いみたいなものだ。一日、一緒に過ごしてみただけでもわかるくらいにな」
この言葉に、偽りはない。
奏一郎を悪く言われれば、怒りの表情を見せて。彼が無事とわかるや、その表情を一気に綻ばせて――。初めて会った時よりもずっと、小夜子の表情が、感情表現が豊かになっているような気さえする。きっと日々を積み重ねていけはいくほどに、どんどん奏一郎の存在が小夜子の中で大きくなっているのだろうと橘は思う。
一つ懸念事項があるとすれば、奏一郎が何を考えているかわからないということだ。
「果たさなけれいばいけないこと」があるといった、その内容も。
それに小夜子が関係しているのかを、否定しなかったことも。問い詰めはしたものの、結局は躱されてしまったのだから。
けれど――小夜子を見つめる時の奏一郎の眼差しも。彼女に与える言葉も。それこそ偽りも、一点の曇りもそこには無いのだ。
だから奏一郎の目的が解明しなかったとしても、それはさして問題視するほどのことでもないかもしれない、とも思えるのだ。もっとも正確に言えば他人、第三者、蚊帳の外にいる自分がガヤガヤと横槍を入れるのは――何だかとても、みっともないような気さえしてしまう。
惨めな気持ちになるだけ、だ。
「……彼女が幸せでいてくれれば、俺はもう、それでいいのかもしれない」
ぽつりと零した言葉が、心の内に浸透する。
「思い返してみれば、いつも困った顔をしているか泣いているか、だったからな。あいつの傍にいるのが彼女の幸せなら俺は喜んで身を引くし、もう、それで……」
浸透した言葉は次第に、そうだ、それでいい、と呼応する。……「酸っぱい葡萄」という言葉も、同時にぷかりと浮かんできたのだけれど。
気づけば、賑やかな電話口の声から、桐谷の声だけが聞こえなくなってしまった。まさか寝入ってしまったのだろうか、と一呼吸置いたその時、
〈じゃあ、きょーやはいつになったら幸せになるの……?〉
いつになく真剣な声が、波を立てた。耳に、心に。




