第十三章:のぞむこと ―睦月― 其の弐十弐
きっと今の自分は、先の純のように――まるで雪が溶けたみたいに――解れきった表情をしているのだろう。
――あたたかい、なぁ。
そう心の中で呟いたのと時を同じくして、ほんの少しだけ、瞳に潤いを覚える。喉の奥に痛みが生じる。奏一郎にも橘にも、悟られたくなかった。こんなことで泣きそうになっているだなんて、知られたくなかった。
だって、今日はせっかくのお正月なのだ。初笑いならばまだしも初泣きには、あまりにも早いのだろうから。
カウンターの奥から人の気配。渋い香りがメニュー越しにも鼻腔をくすぐる。きっと、橘のブレンドコーヒーが出来上がったのだろう。
いい加減に自分もそろそろ注文をしなくてはいけない。至近距離での、メニュー表との睨めっこ。しかし、小夜子にはわかっていた。その行為は何ら意味を持たないのだと。何を頼むかなんて、もう決まっているようなものだったのだから。
「えっと、注文が遅れてごめんなさい。……私も、その、ミルクティをお願いします……」
メニュー越しのその声は、きっとくぐもっていただろう。
注文し終えた後もメニュー表を閉じないで、顔を見せないようにしている――この奇異な行動に、それぞれがどんな反応を示しているのかなんてわからなかった。橘は依然黙りこくったままだし、藤も小さく「少々お待ちを」とぶっきらぼうに返すだけだったから。
けれど、奏一郎はきっと。何てこと無いとでも言わんばかりに優雅にミルクティを口にして、碧い目を優しく細めているのだろう、と。小夜子にはそう思えてしまった。そしてきっと、この読みは当たっているんだろうとも。
暫くして、ようやく顔の火照りが冷め始める頃、ミルクティを運んでくる藤と目が合った。
「……熱いから、気を付けて」
「は、はい!」
初めて声をかけられたのに驚いて、思わず上擦った声を出してしまう。目つきは相変わらず究極に悪い、けれども。真っ直ぐにこちらに向けてきた言葉とその響きは至極真剣なもので。火傷をしないよう、本当に心から心配してくれているのが小夜子にはわかった。
運ばれてきた紅茶にミルクをかける。二つの色は混じり合い、透き通った赤は濁った胡桃色に変わってしまった。それでも立ち上る湯気が鼻先を掠めれば、ああ、久しく口にしていなかったなあと思わず笑んでしまう。何度か息を吹きかけ――やがてその唇は、温かな潤いに触れていった。
ほんのりと甘いミルクの風味が舌を撫でていく。喉に一口分だけ、流れていく。そして喉元を通り過ぎた後、どこからか漂うほんの少しの香ばしさに、やっと改めて思い知らされるのだ。自分が口にしているのがミルクではなく、紅茶なのだったということに。
当たり前の、はずだった。
紅茶を飲む、ただそれだけの行為のはずなのに。
どうしてこんなに、あたたかいのだろう。
「……すごく、美味しい」
誰に寄せた感想というわけでもなかった。独白に近い小さなそれは、どうやらカウンターの奥にも届いてしまったようだ。どういうわけだか、藤の耳に朱が生じている。
その反応に小夜子が小首を傾げると、奏一郎が解説役を申し出てくれた。小声でそっと耳打ちをされる。横目に見る彼の表情はまるでいたずらっ子のようで、実に楽しげだ。
「実は彼ね、ああ見えてとーってもシャイなんだよ?」
「シャ、シャイ?」
あまりにも予想外の言葉に、思わず聞き返してしまう。
「ちょっと褒められたりすると、嬉し恥ずかしですぐ赤くなっちゃうんだよ。『優しい』って言われると照れて恥ずかしくなっちゃう、たちのきくんと一緒だねっ!」
「何で俺の時だけ声を大にするんだ」
奏一郎のふんわりとしたボケに、橘の鋭い突っ込みに、せっかくの美味しいミルクティを噴き出してしまいそうになる。
未だに赤く染まった顔をこちらに見せようともしない藤も、見ているだけで不思議と笑いが込み上げてしまう。先程まで彼を「怖い」と思っていた自分を、笑い飛ばしてしまいたくなるくらいに。
心を落ち着かせて、やっと二口目を口に含んだ時だった。ほんの少しの時間を置いて、先程の奏一郎の言葉が頭にふっと舞い降りてきた。
――「見た目だけ、だよ。さよ」――
ああ、そうか、と。
すんなりと、その言葉が胸の内に浸透してくる。
常にこの髪の色は、好奇の対象だった。時として、蔑視の対象だった。
人は見た目で判断されるものなのだと、小夜子は思ってきた。自分が、そうやって判断されてきたからだ。
けれど、違った。本当は、そうじゃないのだ。
見た目で判断するような人が、自分の周りには多かった――ただ、それだけのことだったのだ。




