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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十三章:のぞむこと ―睦月― 其の弐十

 ざくり、と乾いた不規則な音が列をなしては、耳を掠めていく。勾配の急な長い長い階段を下って、やっと雪原に降り立った頃。既に西の空は、オレンジと紫のグラデーションを作り始めていた。ややもすれば、真っ白なこの足元も街灯の色に染まるのだろう。


「うー……ん、一日があっという間だったねぇ」

 のんびりと腕を伸ばすようにして、奏一郎はそう語りかけてくる。ほんとですね、と応える小夜子の声には、安堵の色を帯びていた。挙動から察するに、どうやら本当に奏一郎には何の不調も起こっていなさそうだ。


「ええっと、これからどうしましょうか。食材の買い出ししていきましょうか?」

 日の入りも近い。そうすると自然、そろそろ夕食のことも考えなければいけなくなる。出かける前にお節はほとんど食べ尽くしてしまったのだから。

「うーん」

 顎に手を当て、空を見上げる奏一郎。考え事をするときの彼の癖だ。橘もその癖に気付いているのだろう、奏一郎の言を待っている様子だ。

 ぱっと空から目を離し、碧眼がこちらに向けられる。かと思えばその口から、驚きの言葉が飛び出してきた。


「たまには外食にしようか?」

「え!? が、外食、ですか?」

 まさか奏一郎の口から聞かされることになろうとは思わなかった、「外食」という言葉。思えば小夜子は心屋へ来て以来、外での食事なんてしていなかった。

「ど、どこで何を食べるんですか……?」

「榎本さんの息子さんがやっている喫茶店で、僕も何度か行ったことのある所なんだけど、どうかなぁ。今日もやっているらしいんだ」

「そ、奏一郎さんが、喫茶店で食事を……」


 喫茶店、というと、出されるのは洋食なのだろうか。パスタやらハンバーグやらがメニューに載っているのだろうか。奏一郎がそれを食すというのだろうか。

 つい最近、一緒にカレーを作って当然ながら共に味わったわけだけれども。和装の奏一郎がスプーンでカレーを平らげている、その絵面だけでも中々におかしくてシュールなものだったのに。今回はナイフとフォークを握るつもりなのか。そもそもそれらの使い方が奏一郎にわかるのだろうか。

 辺りのほの暗さに救われた。膨らんだ妄想によって吊り上がった小夜子の口角を、見事二人から隠してくれている。


「たちのきくんも夕飯、ご一緒しないか?」

 きらきらと眩しいまでの笑顔の誘いに、橘は首を横に振る。

「……いや、俺はいい」

 そう応える彼の声色は暗かった。眼鏡に加え、首にはマフラーを巻いているから、どんな表情を浮かべているのか、どのような感情からそれが滲み出ているのかは小夜子にはわからなかった、けれど。奏一郎はそれに気づいているのかいないのか、

「えー、いいじゃないか。僕もさよもお節を提供したんだから、今度は君がご馳走してくれる番でしょう、たちのきくん?」

 語尾にハートマークでも付きそうな語調で、目を細めた。橘がこういう頼み方をされるのに弱いということを心得ているのかもしれない、と小夜子は感じた。現に観念したかのように、橘は「そうだったな」と溜息を吐いたのだから。


 息は、まるで雪のように白かった、けれども。じわじわと、街灯の色に滲んでいった。


* * *


 奏一郎によると、『榎本さんの息子』が経営しているという店は、歩いてそう時間のかかるような距離にはないらしい。楠木神社からせいぜい徒歩で数分とのことだ。

 で、あったとしても。日の入り近くにもなれば風の冷たさも増して、全身を包み込まれてしまえば鳥肌も(いざな)われるというもの。自然と足早になってしまうものの、それではまるで空腹を我慢できない子供のように映ってしまう。ぐっと腹に力を込めて、なるべく緩慢に足を運ぶように小夜子は意識して歩を進めた。


 やがて、「着いたぞ」と奏一郎が振り返るので、彼が足を止めたのと同時に小夜子も橘も静止する。


 そこには、まるでつい最近オープンしました、と言わんばかりの真新しい色合いの看板が立てかけられていた。店名は「藤」と漢字一文字だけ。渋い店の名前からして和風喫茶なのだろうかと思いきや、建物それ自体はカントリー調。雪にも負けぬ真っ白な木目は、避暑地の別荘を思わせる佇まいだ。半開きの門扉を開くと、やや雪の積もった段差。それを下れば、砂利同士の擦れ合う音が微かに聞こえる。

 どんなメニューがあるのか気になって、入口に立てかけられたブラックボードに目を見やる。が、何か書かれていたことは確かなのだが、屋根に積もった雪解け水が垂れ、洗い流されてしまったらしい。識別できる字の方が少ない有様だ。


「……この綺麗な足跡を見るに、今日もお客さんは少なそうだ」

 入口から門扉までを振り返り、奏一郎は微笑む。彼に(なら)って振り返ってみれば、まっさらな雪原に足跡は三人分だけ、だった。今日は正月だから、もしかしたら仕方ないのかもしれない。ここが喫茶店だとすぐにわかる者の方が圧倒的に少ないのかもしれない。それを差し引いても、だ。こんなにもあからさまに閑古鳥が鳴いていそうな店を心の底から応援したくなってしまうのが小夜子だった。それも他人事に思えないから、かもしれないが。


 奏一郎が扉を開けるとともに、高らかに風鈴の音が鳴った。思いがけない季節を思わせる涼やかな音に、ほんの少しだけ面食らう。

「藤さん、明けましておめでとうございます」

「おういらっしゃい、おめでとさん。今年もご贔屓に」

「ああ、心屋(うち)もよろしくな」

 商売人同士の簡単な挨拶を済ませると、慣れた手つきで奏一郎は小夜子と橘をカウンター席へと誘った。


 外とは打って変わって温かな空気の漂う店内に、ほっと思わず息が漏れる。が、そんな安穏とした気分でいられるのも束の間のことだった。


 腰かけると、先ほど「藤さん」と呼ばれていた男性が眼前に立ちはだかった。長身の彼で視界はいっぱいになる。目尻がぐんと吊り上がっているせいもあろうか、彼はとかく目つきがきついように感じられた。顎に短いながら無精髭を生やしている様からも、つい先ほど起床されたんでしょうか? と問うてしまいそうだ。年齢は奏一郎や橘よりやや上くらいで、まだ「若者」と言える部類であろう。が、入店してから現在に至るまで常に眉間に皺を寄せているために、「昔はワルでした」と言われても「ああそうでしょうね」と納得できてしまう出で立ちだ。


 ごくり、と息を飲む。なるほど、この店に客が入らないのも少し頷けてしまう。マスターのおかげでここは、とんでもなく落ち着けない空間になってしまっているのだろう。

 小夜子にとってせめてもの救いは、彼が腰に巻いているエプロンが柔らかなクリーム色をしていて、さらにワンポイントにひよこのマークが付いていることくらいだった。それだけが、今にもキレて暴れだしそうな雰囲気の彼を中和させる、一種の清涼剤と言えた。


 小夜子の冷や冷やした心地を少しでも(ほぐ)してくれるのは、奏一郎ののんびりとした声だった。

「さよとたちのきくん、どうする? ご飯の前に何か飲むでしょう?」

 薄いメニューを手渡され、促されるままに中を開く。


 ブレンドコーヒー、カフェオレ、カフェラテ、ココア……。キャラメルラテ、抹茶ラテ、なんていかにも女子の好みそうなものまで意外にも名を連ねている。あとは、緑茶、なんて喫茶店にしては珍しいものまで。

「藤さん、僕はいつもので」

 奏一郎がにこやかに注文するのを横目に、ああ、本当に通い慣れているんだなあ、と小夜子は思った。藤もそう注文されるとわかっていたようで、短く目配せするだけだ。

 にこやかにカウンターに腕を置きつつ、藤の所作を見つめるその目には、落ち着いた空の色が凪いでいた。


「……意外だな、お前が喫茶店に通っているなんて」

 小夜子の右隣、橘もメニューを一通り見ながら奏一郎に声をかける。

「意外、かな? 夕飯の食材の買い出しの前後は、時々ここでお茶するようにしているんだよ」

 さよが学校に行っている間だね、と微笑む奏一郎。

「僕にだって行きつけのお店はあるし……話し相手になってくれる人たちだっているんだよ、たちのきくん」

 それは、橘へ向けられた言葉だった、はずだ。

 だが、どうしてだろう、小夜子はまるで、その言葉が自分に向けて放たれたような気がしてならなかった。もしかしたら、先ほどまでの純とのやり取りを聞かれてしまっていたんじゃないか、と。


「君が思っているよりは、僕もそこまで孤独なんかじゃないってことさ」


 奏一郎を、孤独な人なのではないかと。小夜子はそう思ってしまっていたから。それを、やんわりと否定されたような気分になる。

 でも、実際はそうじゃないのだと。少なくとも本人はそう述べている。けれど小夜子にはわからなかった。その言葉を聞いてほっと胸を撫で下ろすことなど、できない、その訳が。


 奏一郎の、彼の孤独は。誰か話し相手がいることで相殺し得るような、そんな生易しいものではないような気がしてしまうのだ、どうしても。


 しかし、彼の言葉の真意を追究することは、不可能に近かった。

 細められた目。誰かを安心させるように浮かべられたかに見えるその笑みは、穏やかなようでいて、これ以上問うことを拒絶するような笑みだったからだ。


 既視感。同時に、嫌な予感が全身を駆け巡る。


 初めて心屋に足を踏み入れた時も、彼はこんな笑みを浮かべてはいなかったか――?


 もしかして、奏一郎は。小夜子が心屋へ下宿生として訪れたその時よりも、もっとずっと前から、現在に至るまで、何一つ、変わっていないのではないだろうか――?


 店内は暖房が効いていて、温かなはずだった。それなのに、だ。背中に冷や汗が伝う。笑顔一つでここまで人の心を乱してくれる存在なんて、小夜子は未だかつて出会ったことが無かった。そしてこれから先も現れることは無いだろうと、思わせられてしまうほどの。


「お待ちどうさん」

 この場にいる誰よりも低い声が、小夜子の思考にストップをかける。カタカタと小刻みに揺らしながらも、奏一郎の前にティーカップを置いたのは藤だ。繊細な印象を抱かせる真っ白なティーカップに、ごつい腕というのが何ともアンバランスに感じられたのは、きっと気のせいではあるまい。

「あ、俺はブレンドで」

 タイミングを見計らってか、橘も注文を済ませている。一方で、思案していた小夜子は視界をメニューに預けただけ、何を注文するかは一切考えていなかった。

「え、えっと、私は……」

 ページ数の少ないメニュー表をパラパラとめくるも、焦ってしまっていては頭にすんなりとは入ってこない。


 その時だった。ふわりと立ち上る湯気と共に、久しく感じられる香りが鼻腔をくすぐったのは。


 見れば、奏一郎のティーカップには濃い色合いの紅茶が注がれていた。そして傍らのソーサーには、ミルクまで添えられている。

「ミルクティ……ですか?」

 目を丸くした小夜子に気付いてか、悪戯っぽく奏一郎は微笑んだ。

「うん。……おかしいかな?」

「あ、いえ。そうではなくて……」


 視線を再び、メニューに戻す。心の内を悟られたくなかった。恥ずかしい勘違いを、してしまうところだった。胡桃色の髪を、思わず耳にかけてしまう。

「奏一郎さんのことですから、緑茶でも頼むんじゃないかなって思っていたので、これまた意外だなぁって思っただけなんです」

 いつも心屋で飲んでいるのは緑茶じゃないですか、と。まるで自分に言い聞かせるみたいに小夜子は続けた。


「緑茶ももちろん美味しいよね、のんびりした気分になるし」

 言葉の響き通りのんびりとした表情で応える彼に、意図せずしてほんの少しだけ笑みを返してしまう。


「……でもね、さよ。紅茶も緑茶も、元は同じ茶葉なんだよ?」

「え……そうなんですか?」

 確認の意味も込めて振り返り、橘へ視線を送る。

「たしか違いは製造過程……茶葉の発酵具合、だったと思うぞ」

 短く、簡潔な返答。橘が言うくらいだ、きっと本当なのだろう。

「へえ~、そうなんですね……。見た目も味も全然違うのに、なんだか不思議ですね……」

 思ったままを口にしただけ、なのだけれど。

「本当にそう思う?」

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