第四章:こわいひと ―長月― 其の参
橘は俯きながら更に続けた。
「彼を説得しに行くたび虚しくなる。……人のためになろうと思って公務員になったのに、なぜ俺は人から住む場所を奪う手伝いをしているんだろう……って」
肩を落とし、項垂れる彼。彼の抱えている問題は、小夜子にとっても難解すぎるものだった。何も言えない。自分の無力さに呆れる──だがそれは、傍らの彼も同じ気持ちなのかもしれなかった。
すると橘は、はっとしたように体を起こす。
「失礼しました。敬語……」
どうやらいつの間にか、敬語を外して話している自分に気づいたようだ。
「そ、そんなの使わなくていいですよ。こんな子どもに敬語なんて」
橘はいやいやと首を振る。
「子どもとか大人とか、そういうのじゃないです。年齢なんかで使い分けるわけにはいかないので」
その言葉に、小夜子は瞬く。
──良い人だなぁ……。
奏一郎が何度も彼を『優しい』と評したのもよくわかる気がする。一見冷たい雰囲気をも漂わせる彼だが、それは外見だけでなく真面目な性格も災いしているのだろう。眼鏡の奥にきらりと光る、彼の瞳は真っ直ぐだ。
「いいですよ、本当に敬語なんて。奏一郎さんに対しても使わなくていいんじゃないですか? たぶん気にしないんじゃないですかね」
──それにあっちも敬語使わないし……。
「……ああ、そう、だな」
奏一郎の名を口にした途端に、だろうか。橘はそれだけ返すと黙りこくってしまった。突然黙られると、小夜子もどうしていいかわからない。
「あの、橘さん?」
「……彼と一緒にいて……何も、君は感じないのか」
「え?」
こちらを見据える黒の瞳は、至って真剣だ。
「何と表現すればいいのかわからないが……時折、怖くなる。彼と話していると。とてつもなく怖く感じる時がある。……まるで、“人間じゃない何か”と話しているような気がして」
背後の大樹は、二人を照りつける太陽から守ってくれていた。清々しい風は、どこか冷たさをはらんで体中にまとわりつく。
橘の言葉に、思わず息を呑む。言葉の意味が小夜子にはよくわかったからだ。
奏一郎は、たしかに“ただの人間”ではないだろう。前回の一件でそれに気づいてはいた。しかし、共に生活する上で困ったことは何も無かったから──だから、何も考えないでいたのだ。奏一郎の正体について。
続く沈黙。それを破ったのは橘だった。
「……まあこれから先、奴との間で問題が起こったり、心配なことができたりしたらここに連絡をくれ。できることなら力を貸そう」
慣れた手付きで手渡されたそれを、ついまじまじと見つめてしまう。
「名刺、ですか」
「そうだが……それがなにか?」
「いえ、名刺なんて貰うの初めてなので。ちょっとどきどきしますね」
「……俺も仕事以外で名刺を渡すのは初めてだ」
橘は名刺入れを仕舞うと、
「変に愚痴を言ってしまってすまなかった」
そう言って立ち上がり、歩き出した。
「あ、あの。橘さん」
呼び止めると、橘はゆっくりと振り返る。
「わ、私。奏一郎さんが何であろうとあそこから、『心屋』から出て行きたくないんです! まだ、特に何の思い出も無いですけど……あの人は、初めて私を認めてくれた人……ですから」
「…………」
橘はそのまま何も言わず、公園から出て行った。小夜子も一つ、大きな溜め息を吐く。
──……ああ、自己嫌悪。余計なことを言ってしまったかも。あの人に、余計な荷物を背負わせちゃったかも。疲れているみたいなのに。
でも言わずにはいられなかった。奏一郎の住処を守るためには、橘に頼るしかないのではないか……そう思ったから。
「……また、失敗しちゃったかな、私」
名刺を空に掲げ、太陽に透かす。『橘 恭也』の名が、より色濃く目に焼き付いた気がした。
* * *
九月に入っても終わるのは“夏休み”であって、夏それ自体はまだ終わらない。
肌がじりじりと焼かれているような、不愉快な暑さ。蝉ももう鳴き止んでもいい頃だろうに、自らの存在を未だ主張し続けている。
ずれてしまった眼鏡の位置を直すと、色鮮やかな空が見えた。が、すぐに伏し目がちになってしまう。
橘はわからなくなっていた。
──……本当に、自分は何をしているんだろう。何がしたい? 何がしたくて、ここにいる。……何のために、歩いているのだか。
「……ん?」
足元を見ると、動く橘の影に隠れるようにして、いつの間にか見知らぬ猫がついてきていた。首輪をしていないところを見ると、どうやら野良猫のようである。思わず足を止めると、猫もそれに従った。
褐色の円らな瞳。不規則に混ざった茶と白の毛色。まったく警戒していないのか、穏やかな表情で橘を見上げている。野良の割にはふっくらとした体は、抱き上げればさぞかし柔らかな感触をしているのだろう。
──……触れても、いいんだろうか。
暗かった表情を一気に綻ばせる。そうしてそっと、手を伸ばす。が、一瞬で躊躇ってその手を止める。
──いや、相手は迷惑に思うかもしれない。それに人懐っこく見えて案外と人に慣れていないかもしれない。いくら好きでも……相手の迷惑になるようなことはしてはいけない……。いや、しかし触れたいという気持ちは抑えきれん。どうすれば……。
黙々と考えている間にも、ひたすら猫と見つめ合う。道行く人々に怪訝な顔で盗み見られていることを、気づく暇も無いほどに。
「おや、たちのきくん」
背筋が凍った。振り返るとそこには、番傘を片手にぽつんと佇む奏一郎。今までその存在に気がつかなかったのは、何の気配もしなかったからだ。
「猫、好きなんだなぁ」
奏一郎は目を細めて笑った。
それと言うのも、猫に伸ばされた橘の手を見たからである。橘はすぐさまその手を引いた。
「……別に、普通だ」
──……邪魔された。
悔しさが顔に出ないよう橘は我慢した。心情を察してか否か、奏一郎は猫に歩み寄り、口を開く。
「まったく。知らない人と話をしてはいけないよ、あんず。誘拐でもされたらどうするんだい?」
『あんず』と呼ばれたその猫は、奏一郎に抱き上げられるとその腕の中で、嬉しそうに目を閉じた。完全にリラックスモードである。それを横目に、橘は問う。
「……貴方のペットですか?」
「いいや、彼女だよ」
笑顔で平然と答える奏一郎。曇りなき眼。どうやら本気でそう言っているらしい──橘は頬を引きつらせた。
──こいつ……変態だ……。
刹那、橘は冷静さを取り戻す。自分の職務を思い出したのだ。
「……餌は与えていませんよね?」
「え、何故?」
「野良猫は、無闇に餌を与えるとその場所に住み着いてしまうんです。近隣の方々の迷惑になりますので、そういう行為は止めてください。事によっては、保健所に連れて行かなくてはいけません」
奏一郎は、橘の台詞にショックを受けたように、碧い目を丸くした。自分の“常識”は、彼にとっては“非常識”なのかもしれない。橘はその目を見た瞬間に思った。
儚げに俯く奏一郎は、とても大人には見えなかった。捨て猫を拾い、飼う事を許されなかった子どものようだ。
「彼女、妊娠してるんだ」
「『彼女』……『彼女』……? ああ、猫のことか」
見てみるとたしかに、全体的にふくよかな中でも、あんずの下腹は特にふっくらとしていた。
「餌なんか与えていないよ。餌を与え続ければ、自分で餌を取る能力を失ってしまうからね。それじゃあ、母猫として失格だから」
奏一郎はあんずをゆっくり降ろすと、懐から猫じゃらしを取り出す。そしてそれを目の前で振れば、あんずも目で追い始めた。
「……でも、仮に餌をやっていたとして。それが原因で保健所に連れて行かれることになったとしたら……君は、この子を飼うだろう?」
先ほどまでの哀愁はどこへやら、奏一郎はいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。そればかりか、橘の性質を見抜いている。見透かしている──。
「そんな君だから、僕たちに対してもそうなんじゃないか……って思っていたんだけどね」
「知りませんよ、そんなこと……! 野良猫一匹と人間なんて……命の重みが違いすぎます」
「……本当にそう思う?」
「ええ」
「ふうん?」
あんずとじゃれ合う彼から漏れる、ふふ、という静かな笑い声。なぜだろう、その笑みは──妙に、癪に障った。
「……とにかく! 先ほども申し上げましたが、今週の金曜日までには正式なお返事をください。私は仕事がありますのでこれで失礼します。茶封筒の中に、市役所の電話番号が載っている欄があります。私の名を出していただいて……」
「たちのきくん」
「橘です。電話の時にもその名を出したら、永遠に取り次いでもらえませんからね?」
冷静な突っ込みにも、奏一郎の声のトーンは変わらない。
「僕はもう返事をしただろう? 『僕の答えは永遠に変わらない』と」