第十三章:のぞむこと ―睦月― 其の十六
ふと、彼の視線が庭の方へと向けられる。誰も足を踏み入れていないそこには、まっさらな雪原が広がっていた。彼が目にしているのはそこなのか、それとも、さらにその奥にあるものなのか。推測することすら、叶わなかった。何故ならその目は、あまりにも虚ろで。本当にその目で何かを見ることができるのか、わからないほどだったから。
「でも、君のことを心配しているのは本当だよ」
徐に、そんな本当なのか嘘なのかわからないことを呟くものだから――芽衣は思い切り眉を顰めてしまう。この男の言葉に耳を傾けてはいけないと強く思うのと同時に、どうしてそんなことを言い出すのか、という好奇心が沸々と湧き上がってしまうのだ。
けれどその好奇心に応えるためだろうか、奏一郎は訊いてもいないのに口を開くのだった。
「君は真っ直ぐだから。純粋なほどに真っ直ぐだから」
言葉の響きとは、裏腹に。まるで、それが悪いことのように。悪い‟何か”が、引き起こされることを予感しているみたいに。
「何かの拍子に少しばかり曲がってしまっても、それに気付かないで……きっと、真っ直ぐ歩いてしまうだろうから」
その、言葉に。芽衣は逡巡の後、意味が分からない……と心の中で舌打ちする。
「……私は自分を真っ直ぐな人だとは思わないし。第一、なんであなたにそんなこと言われなくちゃ……」
舌に乗せた言葉は、塞がれてしまった。庭先を見つめていたはずの碧い目が、こちらを見据えていたのだ。碧の世界に漂う己の顔は、恐怖に固まっている。いつの間に、いつの間に、こちらに向き直っていたというのだ?
「良かれと思ってしたことが、たとえそんなつもりが無くたって、誰かを傷付けることだってあるんだよ」
それは、静かな口吻だった、はず。それなのに言葉の端々に、微かな怒気を覚えるのは何故なのか。
「……気を付けてね。大切なもの、失わないように」
最後にぽつりとそれだけ穏やかに言い放ち、奏一郎はにこりと笑った。自然、碧眼は目蓋に覆われる。その瞬間、芽衣は――その碧い世界に閉じ込められたような……妙な感覚を、覚えてしまった。
そうしてやがて、気付く。奏一郎の口にした、‟大切なもの”――その意味を、もちろん芽衣は知っている。誰を指すのか、知っている。
――……結局、「心配している」のは私じゃなくて。萩尾さんの方なんじゃないか。
きっと、この読みは――当たっているに違いない。何故だろうか、そう強く思わせられたのは。
* * *
すらりと小気味良い音を立てて、障子が開かれる。
「さよー、たちのきくーん、お待たせしたね」
障子を開いたのは、緊張感など母の腹に置いてきたと言わんばかりの声の主――奏一郎だ。
「奏一郎さん……!」
彼の登場にぱあっと表情が明るくなったのを、小夜子は隠すことなどできなかった。傍らに何とも形容しがたい表情を浮かべた芽衣が見えてもなお、奏一郎のもとへ駆け寄ってしまう。
「いやあ、年甲斐もなく迷ってしまってね。彼女に助けてもらっていたんだよ」
「え……あ、そうだったんですか……」
彼女、とはきっと芽衣を指すのだろう、にへら、と奏一郎は笑ってそう言い放った。事の顛末を純から聞かされているので、彼の今の言に嘘しか存在しないことは明らかである。こんなあからさまな嘘を彼の口から聞かされたのは、もしかしたら初めてのことかもしれなかった。
純の存在を認めるや、奏一郎は人懐っこい笑みを純に送った。一方の純は、口を閉じて軽く会釈を返すだけ。先ほどまでの幼気な笑みは、もう、消えていた。
気に留める様子など一切見せずに、奏一郎は小夜子に向き直る。
「そろそろお暇しようか? 初詣で忙しい中、長居は失礼だからね」
「は、はい……」
言いながら、小夜子は褐色の目を上下させて、奏一郎の頭から足袋の爪先まで何度も往復させてしまう。
手足も目も、間違いなくそこに存在している。穏やかな笑みも健在だ。芽衣が大人しく傍らにいることからも、きっと破魔の水に何の反応もしなかったのだろう……と、ほっと胸を撫で下ろす。が、彼が無理をしてここに立っている、という可能性も0ではない。なるべく小声で、小夜子はそっと問うのだった。
「あの……奏一郎さん。どこか、痛かったり。その、気分が優れなかったりとかは、ありませんか?」
「ふふ、大丈夫。むしろ、美味しいお茶を振る舞ってもらったよ?」
その言葉が本音なのか、はたまた芽衣へ向けての皮肉なのかわからなくて、思わず肝を冷やしてしまう。彼の、容易に本心を悟らせないところもどうやら健在のようだ。




