第十三章:のぞむこと ―睦月― 其の十五
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そこまで広いスペースであったわけではない。小夜子らが客間で繰り広げている会話の数々は障子の向こう、廊下を佇んでいる二人の耳にもしっかり届いているのだった。純の笑い声が耳を掠めたところで、碧眼を細める彼。
「……どうやら僕は、さよに大事に想われているらしい。……僕や君が思っていたよりもずっと、ね」
芽衣だけに聞こえるようにしているのだろう。小声でそっとそう呟くと、奏一郎は背後の芽衣を振り返るのだった。芽衣は自覚した。自分の瞳には、恐らく、悔しさ――嫉妬とも言えようか――とにかく、そんな面白くない感情が宿っているのだろうと。碧眼はそれを見抜くようにして、まっすぐに見つめてくる。それがまた、心の端っこにちりちりと火を灯すのだ。
「……あんたみたいなのと一緒にいたがるなんて、馬鹿だ、あの子」
「そうだね、そうかもしれないねえ」
苛立ちから吐き捨てた言葉も、飄々とした笑みで躱されてしまう。その瞬間、芽衣は理解したのだった。ああ、この恐ろしくからりと乾いた空の眼は、己などほんの指先さえも映していないのだと。相手にされていないのだと。きっと、この口で何を訴えても、この男は平然としているのだろうと。
それでも、いい。伝えなくてはならないことが、芽衣にはあったのだ。
「……私は、萩尾さんを。萩尾さんの選択を、信じている、けれど」
そう、前置きして。
「どんなに言い繕うと、私があなたを信用することはない」
「ほう。どうして?」
一応聞いてみる、という風な口ぶりだった。いかにも興味なさげな問いの仕方。それでも、芽衣はめげない。
「あなたの正体が、わからないから」
この世の者でないことはわかる。体に触れることができる以上、霊でないこともわかる。破魔の水に何ら反応を見せなかったことからも、邪な存在でないことも、わかる。
では、何者なのか。
なんのために、小夜子を傍らに置いているのか。
「甘言を用いて人を惑わす。この世ならざる者は皆、そう。でも、私は惑わされたりしない」
わからないことだらけだ――が、それでも。何故かその碧眼を見ていると、芽衣の項を――嫌な空気が撫でるのだ。せっつくのだ。急かすのだ。息苦しく、させていくのだ。
このままでは、萩尾 小夜子がいなくなる。
永久に。闇の向こうへ。……そう、囁くのだ。
そうはさせない、決して。
「萩尾さんがもしあなたに惑わされているのなら。もし万が一、萩尾さんの身に何か起きるというのなら……全力で助ける。全力で、守る。そう、決めたから」
「……君の騎士道は、痛々しいほどに真っ直ぐだね」
そう、口では言っておきながら。褒めているような口ぶりではない。どちらかといえばそれは、同情のような。憐みのような。なぜ‟人ならざる者”に、そんな感情を向けられなければならないのか――。
「君たちが本当に友情で結ばれる日が来るのは、いつになるんだろう、ね」
垂れ下がった眉――寂しげな笑み。惜しげの無い憐憫の情が、こちらに向けられる。なぜ、そんな表情を浮かべているのか。そんな言葉を舌に乗せたのか。
芽衣の心中は穏やかではなかった。何故ならそれは――その笑みは、慈愛。その感情の向かう先が自分ではないことは、明らかだったけれど。その表情はきっと、初めて見るそれではなかった。生まれついてより霊感を持つ己と弟の未来を憂慮し続けてきた、母のそれとなぜか重なる。
けれど、すぐに思い直す。やはり、違うと。奏一郎の笑みと母のそれとは、決定的に違うところがあった。
奏一郎に向き直る。真っ直ぐに、その碧眼を見つめる。
「私があなたを信用できない理由、もう一つあった」
そう、前置きして。
「……あなたって、胡散臭い」
そう、吐き捨てて。
「今浮かべている笑顔も、言葉も。どうせ、偽物でしょう?」
そう、決めつけたように言葉を選んで。
柔和に細められていたその碧眼が、遂に丸みを帯びたのが芽衣にはわかった。やっとその視界に、自分の姿がきちんと映ったような気がして――ふつふつと、湧き上がる感情。それは、どこか暗い喜びだった。
しかし、そんな喜びも束の間。
「手厳しいなあ」
彼が浮かべたのは、満面の笑み。次には碧眼は目蓋で閉ざされ。やがては三日月型の唇が、次々に言葉を紡いでいった。
「うーん、これまでは‟借り物”‟貰い物”という認識でいたけど……。そうだね、そこに僕の心がこもっていない限りは、‟偽物”という表現もあながち間違いじゃないかもしれないね」
天井を見上げつつ、そんなことを冷静に分析するみたいに呟くものだから。結局のところ、目を丸くしてしまうのは芽衣の方だった。




