第十三章:のぞむこと ―睦月― 其の十四
「小学校に上がって、だんだん周りからからかわれ始めるようになって……高学年になる頃には、両親が不良なんじゃないかとか、根も葉もない噂を立てられたり。中学に上がってからは、髪の色が気に食わないとかで上級生に呼び出されることもあった」
難儀なことではあれど、指摘されるその度に説明をしなければならなかった。生まれつきだから仕方ないのだと。最初はまだよかった。周囲もそれだけで納得した。それでも、説明を重ねに重ねていけばいくほどに増えていったのは――奇異なものを見るような視線。それはあまりに、‟理解”から遠く冷たい。
なぜ、人の髪の色ごときにそこまで好奇の目を向けるのか。目くじらを立てるのか。小夜子にとっては、自分の髪は普通なのに。本人が自分を普通と思っても、それを周りは受け止めてくれない。小夜子には不思議でしょうがなかった。苦痛で、しょうがなかった。涙を流すことさえあった。
「何で自分がって、何度も思った。生まれつきだから仕方ないのにって。それなのにどうして、こんな目に遭うのかなって。指摘されてムキになっちゃうことだってあった。その度に何度も悲しい気持ちになった……けど」
けれど。
ある日、小夜子は理解した。悟った。これは、仕方のないことなのだと。
きっと多くの人――“普通”――は、黒い髪で生まれてくるのだから。そうでない自分は、周囲からしてみれば“普通ではない”のだと。“普通ではない”自分は、“普通”の彼らの感性に合わせて、生きていかなければいけないのだと。
「仕方ないことなんだと思って……我慢、してきた」
いつしか、その我慢は絵の具となって。日常は水と化した。絵の具は水に溶かされて、そしてそれらはよく混じり合った。そうして出来た色合いは、日々の生活に彩りを与えた。馴染んでいった。浸透していった。
「誰に何を言われても、私が我慢するだけで……それだけで全て丸く収まった。『変な髪の色』って言われても、『そうでしょ、困っちゃうんだよね』とでも言っておけば、笑って誤魔化してしまえば……もうそれだけで、全部丸く収まるんだから」
これが『正解』なのだと、心の奥底で小夜子は学ぶ。波風が立つことのない方法。それは生きていく上で必要なことなのだと。“普通でない”自分は、この方法であれば“普通”の彼らと生きていけるのだと。
「そのままの自分を、誰かに受け入れてもらえるなんて思ったことはなかった……」
そのままの自分を受け入れてもらう努力など、無意味ならばする必要も最早ない。そうすれば事を荒立てることもない。人間関係も円滑に収まる。良いこと尽くめではないか。
「でも」
自分は諦めてしまった、けれど。
「でも、だからこそ。私は、そうはなりたくないって思った。見た目だとか、自分とは違う考えだからって誰かを遠ざけるような人に、絶対に私はなりたくなかった」
容姿が違うのなんて当たり前で。性格が違って、それぞれに特技があって、趣味があって。好物があって、もちろん苦手なものもあって。
それで、いいじゃないかと。
周囲に理解を求めたりはしないけれども。自分だけはこの気持ちを忘れないでいようと、いつしか小夜子は胸に刻んだのだ。
だがしかし、許せなかった。先ほどの純の発言を。
「たしかに純くんの言う通り、奏一郎さんは……人間じゃないよ。見た目もすごく変わってるかもしれない。目的だってよくわからない。未だに私自身、どんな人なのか全然わかっていないかもしれない。でも……」
目を閉じて彼を思い浮かべるとき――目蓋の裏に映るのは、笑顔だ。
「奏一郎さんは欲しいと思った言葉を、くれる」
もう誰にも届かないだろうと思っていた自分の声に、聴こえているよと応え微笑んでくれた。涙で滲んでいたはずの視界に、その笑みだけは何故かはっきりと飛び込んできて。夕焼けに染められた彼は、あまりにも小夜子には眩しすぎた。
「温かな言葉をくれる。温かな場所を、くれる。私の弱さを、知ってくれる。受け止めてくれる。何度も、たくさんのものを与えてくれる」
自然と口から溢れた言葉は、留まるところを知らない。早鐘を打つ心臓の上に、重ねられた両の手。やがて言葉を重ねていくうちに、心臓が落ち着きを取り戻していくのがわかった。霧散していくのだ。先ほどまでたしかに在ったはずの怒りが。憤りが。
「それなのに……私は奏一郎さんに何もできないで。あの人はずっと、独りぼっちで。……そんなの、嫌じゃない。どうして人間じゃないってだけで、独りにならなきゃいけないのって、私は思うから。奏一郎さんが悲しむのだけは嫌だって、すごく思うから。いつも、心から笑っていてほしいって、すごくすごく思うから……」
屈託の無い笑みを、絶やさないでいてほしい。そう思うから。
顔を上げて、純の目を見る。怯むことなく、まっすぐに小夜子を見つめ返すその瞳。そう、彼に後ろめたさなど無いのだ。微塵も、無いのだ。何故なら、
「……楠木さんや純くんにとっては、奏一郎さんと私が一緒にいることは理解できないことなのかもしれない」
それが、彼らにとっての‟普通”だから。
けれど、小夜子は思う。奏一郎が人間じゃないとしても。
「だけど……この人と一緒にいたいって、心からそう思えるなら。奏一郎さんが、それをほんの少しでも望んでくれるなら。……私はもう、きっと、それだけで十分なんだ」
たとえこの選択が、‟不正解”だったとしても。共に在りたいと思い続けていたい、と。
先ほどまで淀んでいたように見えた視界が、開けた。まるで夜明けのように。
静かな怒りは密かに流れて。心の内に凪が訪れる。そうして次にじわりじわりと顔を出すのは——思いがけない羞恥心。
思い返せば小夜子は、過去のトラウマから奏一郎へ向けられた気持ちまでもを吐露してしまっていた。人前で話すこと、それ自体が得意ではないのに。しかも聞かれてもいないことをべらべらと——。
突然に黙りこくった小夜子に、純の目がぱちくりと瞬きする。黙りこくった、というよりも正確には、あまりの恥ずかしさに声が上手く出せなくなってしまったのだけれど。
「え、ええっと、つまり、私が言いたいのはね!」
しどろもどろになりつつも、どうにか口を開く。が、舌は思うように回ってくれない。
そんな時だった。思わぬ助け船が、右隣からやってきたのだ。
「……あいつの」
ずっと、それこそ黙りこくっていた橘が、小夜子の台詞の続きを口にする。
「あいつの、傍にいたい……そういうことか」
それは確認しているような、口吻ではなかった。納得であった。確信、であった。
「…………」
もはや、言葉は要らなかった。
自分の気持ちを、代弁してくれる人が傍らにいた。その安心感からかもしれなかった。
または自分の気持ちが空に放たれたことが、気恥ずかしかったのかもしれなかった。
小夜子は、自分でも気づかないうちに――朗笑を浮かべていたのだ。
それを目にした橘が、諦めたように己の瞳を目蓋で覆ったそのわけを、察することができぬままに。
「……あ、でも! 奏一郎さんがそれを望んでくれれば、の話なので!」
純に向き直って、慌ててそう付け加える。頬だけでなく、顔全体までもが熱い。いつの間にか冷えた空気はどこへやら、最初から存在していなかったようにすら覚える――。
「ふ、ははっ」
驚いたことに。小夜子が慌てふためいたのと時を同じくして、純は笑みを零していた。出会ってから今まで、大人びた無表情を貫いていたのにもかかわらず、だ。ビスクドールを思わせたその無表情が、途端に年相応の笑みを見せつけてくれるものだから。小夜子も橘も、思わずそれに見入ってしまう。
瞳の色がわからなくなるほどに細められた目に。口角が上がっているのを見られたくないのか、袖口で鼻から下を隠す様も。
「はは……俺ね、あんたのこと結構好きだよ」
おまけに、そんな思わずどきりとしてしまう言葉を吐くものだから。
「……あんたみたいな人が、もっと早く現れてくれたら良かったのに」
そんな潤んだ寂しそうな瞳で、それでも微笑むものだから。
「きっと……そう思える今が、一番幸せなんだろうね」




