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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十三章:のぞむこと ―睦月― 其の十弐

 乾いた空気の中で一人、純だけが淡々と言葉を紡ぐ。

「正直ね、俺にも姉ちゃんにも、あいつの正体は具体的にはわかんないんだ。でもね、あいつが人間じゃないってことだけはわかる」


 その言葉にはまるで、情というものが一切感じられなくて。そうして、その時になってようやく小夜子は気づいた。


「姉ちゃん、言ってた。確かめるって。もしあいつが、少しでもあんたに悪い影響を及ぼすような存在なら、排除しなくちゃって」


 “排除”といった、その言葉に。純も、芽衣も、奏一郎を受け入れられないのだと。以前の小夜子のように。いやもしかしたら、小夜子以上に。彼らにとって、奏一郎という存在が壊れた日常であったのだということに。


 純の口から言葉が放たれる度に、先程までの温かだったはずの空気が冷えていく。

「あ。そういえば、言い忘れていたね」

 彼の所作の一つ一つが、殺気を纏っているような感覚に陥る。既に空になった湯呑を指し――、

「この水の効能は、破魔(はま)だよ」

 そのたった一言を添えるだけでも。

「もしこれに少しでも変な反応を示すなら――……姉ちゃんはあいつを排除するよ。“良からぬもの”としてね」

 まるで毒を盛られたかのように、息が詰まったのだから。


* * *


 茶筅(ちゃせん)の立てる細やかな水の音に、奏一郎は目を細めた。懐かしいものでも視界に入れたかのように、それはそれは嬉しそうに。

 碧眼には、真剣な眼差しで己の指先を見つめる芽衣の横顔が映る。慣れた手付きで茶を()てる彼女は、漆黒の美しい髪も相まって、大和撫子を体現しているようだった。和装でなく、カーディガンにジーパンという非常にラフな格好をしているのが実に惜しいくらいだ。


「驚いたな。その若さで茶道を嗜んでいるとはね」

 にこやかに奏一郎がそう声をかけると、琥珀の目が奏一郎にちらりと向けられる。

「母の見よう見まね、です」

 静かに、そして短くぶっきらぼうに芽衣は答えた。問われたので仕方なく、といった風だ。かと思えば、彼女は突然に饒舌になる。茶筅を回す手が止まるのと、それはほぼ同時だった。


「急にお呼び立てして申し訳ありません。境内(けいだい)を見回したら、あなたの姿が目に入って。……一度、お話ししてみたいと、思ったものですから」


 湯気を立たせた茶碗は芽衣の手を介して、梅の花を見せびらかすようにこちらに向けられた。抹茶色に染められた天井が、水面で揺らめいている。うっすらと浮かんだ細かな泡に、奏一郎は口角を上げた。

「ほう……。そうか、僕とお話を……ね。話し相手が増えるのは嬉しいことだ」

「……どうぞ」

 ぴんと張り詰めた声で静かに促され、奏一郎は右の手で茶碗を持ち上げ、底を左手で支える。一方の芽衣は、茶筅通しのためか柄杓を手に取っていた。その最中にも、奏一郎の動きを横目で捉えている。あまりに見え見えの警戒心を向ける彼女の態度に、奏一郎は碧眼をさらに細めるのだった。


「……実は……僕もね、君と話をしてみたいと思っていたんだ」

 柄杓を持つ手が止まる。奏一郎は未だ、茶碗を両手で持ち上げただけ。茶を口に含むことすらしていない。それだけで――いや、だからこそ、琥珀の目が警戒心すらも飛び越えて、まるで何かの確信を得たかのようにこちらを睨み始めたその訳が、彼には改めて理解できたのである。


「実は僕はね、以前にも君のその目を見たことがあるんだ。……正確には、違う、別の人の、だけれど」


 畳の部屋。乾いた、冷たさの孕んだ空気。雪解けの匂い。そして己に向けられる、一つの視線。そこから向けられる感情は違えど、奏一郎が覚えたのは――既視感であった。


「人格を思わせる深い琥珀。無償の温もりと、弛まぬ憐れみ。静かな憎しみで僕を見る……そんな目だった。それと似た目を持つ君には、きっとわかっているんだろう?」

 何を言っているのだろう、と訝しげに射抜いてくる芽衣の視線に気づいていないかのように、奏一郎は笑みを浮かべた。彼もまた、一つの確信を持って。


「僕が人間ではないということを、君はわかっているんだね……」


 それも、僕を初めて見たその時から。


 そう付け加えると、暫しの間を置いて、芽衣は柄杓を右手から離した。固く握り締められた両の拳が、膝の上に鎮座する。

「何のことですか? 私はただ、あなたに少しだけ興味があって。それでお話をしてみたいと思っただけです」

 奏一郎にはわかっていた。その伏せられた目蓋の裏、瞳が泳いでいることを。

「嘘なんて無意味だよー、僕の前ではね」

 細い指で茶碗を一撫ですると、彼もまた、碧眼を目蓋の裏に閉じ込める。


「いや……そうだね、正確には嘘じゃない、か。……けれど、本当でもない。そうでしょう?」

 奏一郎の言葉はゆっくりと、それでいて矢継ぎ早に続いた。

「君が本当に知りたいのは、僕自身のこと――その更に奥にあるものだろう」

 “問い”ではない。ましてや、“確認”でもない。まさしく、彼が口にしているのは“確信”であった。


「君が僕に抱くのは、少しの嫌悪。そしてほんの少しの好奇心。そこから成り立つ、絶対の猜疑心。僕の存在が……僕のしようとしていることが、さよに悪い影響を及ぼさないか……最も知りたいのは、それなんだね」

 芽衣は固く閉ざされていた目蓋、そして口を開いた。その瞬間も、彼は決して見逃さない。


「どうしてわかるんだ、と言いたいんだね?」

 縦横無尽に泳ぎ続けていた琥珀の目が、大きく見開かれる。やがて、その視線は彼の指先へと。


「わかってしまうんだ、こういうの。この茶碗に込められた想いが、触れた瞬間に突き刺さってくる」

 また一撫で、細い指先が梅の花をなぞる。芽衣には、彼のこの所作が気に食わないのかもしれなかった。まるで、自身の心がそのように扱われていると感じたのかもしれなかった。だからこそ、その年齢にはそぐわない眉間の皺が、深く深く刻まれたのかもしれなかった。

 そんなことは気にも留めないかのように、奏一郎は言の葉を綴る。


「相当に強い想い。まるで、刃のような。それでいて、溢れる水のような。まるで……」

 恋でも、しているかのような。


 最後まで口にすることは、叶わなかった。その禁句とも言える言葉はいとも簡単に捩じ伏せられたのだ。視界がぐるんと反転したと思った次の瞬間には、背中に冷たい畳の感触。腹には人一人分の重み。視界には天井を背景に、殺気を纏った少女が写った。

 碧の眼が丸くなる。さすがの奏一郎にも、この展開は予測できていなかった。こうなってしまった今ならば、喉元に突き付けられた刃があまりにも――元々用意されていたとしても――衝動的に向けられているのだろうことを知る。もしかしたら彼女自身、今、己が何をしているのかわかっていないのかもしれない。


 視界の隅には、彼の手元から離れた茶碗が見える。香りの強い真新しい畳に、点々と抹茶色の水溜りが生まれていく。しかしそんなことは、芽衣にとっては些末なことでしかないのだろう。

「そう、だよ……。あんたの正体や目的なんて、どうでもいい……!」

 先程までの凛とした静かな声が、鈍重な響きを持って地を這っていく。

「答えろ……! あんたが一体何者なのか、嘘偽りなく。答えようによっては、この場で亡き者にしてやる」

 心など読まなくても、目を見ればわかる。この言葉が嘘偽りなどない、本気であるということを。どこから取り出したか知れないその短刀を見て、奏一郎は再び既視感を覚えた。


 そうして、自然。笑みを零す。


「……相手の力量が如何(いかが)なものか知らずに、そんな攻撃的な手段を選ぶのは、賢明とは言えないと僕は思うけどね」

 奏一郎が言葉を紡ぎ出していくごとに、きゅっと真一文字に結ばれた唇は、一層きつく噛み締められていく。ちょうど喉仏の真上を静かに揺れ動くのは銀の切先。直に触れているわけでなくとも、その感触が鋭利で冷ややかなものであろうことは想像に難くない。

 それでも奏一郎は笑っていた。自覚はしていた。きっと“あの時”と、同じような笑みを浮かべているのだろうなあ、と。


「ああ、どうしてかなあ。あの、(はさみ)を手にした女の子……彼女のことを思い出してしまうなあ」

 どこか他人事のように、彼は思う。ああ、やはり。丸くなった琥珀の瞳に、嫌な笑みを浮かべた己が映っているなあ、と。

「梢の、ことを言っているの……?」

 芽衣は乾き始めた唇に、かつての朋友の名を乗せた。

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