第十三章:のぞむこと ―睦月― 其の九
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空になった二つの紙コップを手に、己から離れていく男の背中を小夜子は見つめる。やがて人ごみに紛れてその後ろ姿は見えなくなってしまったが、ぼーっとした視線は依然、その雑踏に注がれたままだ。
「……どうしよう」
思わず口走ってしまった独り言は、微かに震えていた。自分はどうやら橘から想われている、らしい。そう何度己に言い聞かせても思い浮かぶのは、意外、の一言に尽きるのだった。橘という存在が一人の男性としても一人の人間としても、とんでもなく魅力的であることは小夜子にもわかる。そんな彼が好意を寄せる対象が、己であるらしい――。……恐ろしいくらいに、実感が湧かない、のだ。
そんな切欠があったようには思えない。出会ったのはほんの数ヶ月前。顔を合わせる頻度も少ないと言えばそうだろう。顔を合わせたところで、口数も互いに多くはないので会話の弾んだ記憶もさして無い。それだけでなく。
――私、迷惑ばっかりかけてるはずなのに。
思い出されるのは、文化祭の時だ。意識が混濁し、病院に搬送された自分の傍にいてくれたのは橘だった。奏一郎との関係の悪化を恐れ、涙を流した自分の話を黙って聞いてくれたのも彼だ。振り返ってみれば、橘には醜態を晒してばかりいるような気もする。誰かを好きになる、というのには、やはりある程度の切欠が必要なはずだと小夜子は思う。そしてその切欠――橘から小夜子へ好意を寄せるための――が、彼女には全く思い当たらないのである。
きょろきょろ、と辺りを見回してみる。こちらに向かってくる、見知った影はまだない。奏一郎と合流できないことが、小夜子の焦りを助長させていた。彼と行動を別にしてから、どれだけの時間が経ったのだろう。心臓の鼓動が、小夜子の体内時計の進行を早めているせいか。小夜子にはこの独り残されたほんの数分さえも、十数分にも数十分にも感じて仕方がないのだ。
「ねえ」
何の前触れもなく、悴んだ声が左耳を吹き抜ける。ほとんど無意識に声の主を辿ると、見知らぬ、決して大きくはない影が小夜子を見下ろしていた。
波打ちがかったクセのある黒髪が冷たい風にそよぐ度、その少年の体も微かに震えた。まだ幼さの残る円な瞳に、焦香の自分が鮮明に写っている。すっきりとした鼻筋を朱に染めているせいか、髪の艶も相まって、白い肌が余計に映えるようだ。まだ成長期なのだろうか、顔の輪郭もやや丸みを帯びていて、触れてみたら柔らかそうだなあ、などと考えてしまう。
暫し観察してしまっていると、やがて口元に宛てがっているマフラーが、小さく上下し始めた。
「あのさ。頼みがあんだけど」
早口に、かつぶっきらぼうにそう言う少年に、小夜子は思わず立ち上がる。目線が同じ高さになり、妙な親近感がじわじわと湧き上がるのがわかった。
「どうしたの? 何か、困ったことでも……」
落し物でもしたのだろうかと首を傾げると、少年は踵を返す。それと同時に、前につんのめ始める己の体。手袋をしているせいで、気付くのが遅れたらしい。少年は今、小夜子の左手を取りどこへやら歩き始めているのだ。
「え、え? 何っ?」
「ちょっと付いてきて」
小夜子を引っ張る少年の力は、華奢な見た目とは裏腹に強いものだった。自然に右、次に左と勝手に足が動いてしまう。やがて、雑踏の渦に二人は身を投げていった。
「あの。私、人を待たせていて……!」
「いいから。こっちに来てってば」
小夜子の制止も他所に、少年は足を止めない。止める素振りも無い。小夜子の手を放してもくれない。よっぽど焦っているのか。あるいは人の話を聞かない性分なのか。
「ちょ、ちょっと、放して……」
「……おいっ! どうしたっ」
聞き慣れた声に、置いてきぼりにされた右手を見る。橘だ。小夜子を掴むその手は力強い。少年から無理やりにでも引き離そうとしているのかと錯覚してしまえるほどだ。驚いたような、それでいて少し怒っているような目が少年を捉えている。
「どういうつもりだ? この子をどこへ連れて行こうとしている」
橘の静かな問いに、少年は丸くなった瞳を一瞬だけ瞼で覆うと、大きな溜息を吐いた。
「はあ……。ああ、あのさ。あんたも来てくんない? できるだけ早く。急いで」
その子供らしくも横柄な物言いには、橘の声に怒りの色がよりはっきりと灯り始める。
「人の質問には答えろっ! 彼女をどこへ……」
声を荒げた橘を視界から外すためだろうか。少年は、今度はゆっくり瞼を閉じた。そうして、一つ大きな深呼吸をしたかと思うと――。
「……ひ……ひ、ひっくちゅ!」
……静かに、時は流れた。少年の発した大きなくしゃみが、橘の怒りを沈静化させていくのがわかる。何度も鼻を啜り、薄ら涙の滲んだ瞳が橘を睨む。冷静になった小夜子の左手にも、今更ながらに伝わってきた。少年の手は、先程からずっと、小刻みに震えていたのだ。
「っだから……っ……早く来てって言ってんじゃん……っ!」
そこまで言って、少年は再びくしゃみを発した。それは二度、三度と続き、そしていかにも苦しげな呼吸を続けている。そんな痛々しい彼の姿に、
「な、なんというか……すまなかった」
さすがの橘も謝罪の弁を述べ、一方の小夜子は、懐に忍ばせておいたポケットティッシュを、そっと少年に差し出すのだった。
少年に言われるままに後を付いていけば、自然と喧騒から離れていっていることに小夜子は気づいた。拝殿よりもさらに奥へと通されると、そこはどうやら社務所と呼ばれるところのようだ。玄関に入るよう促され足を踏み入れれば、ストーブの熱が冷え切った頬を溶かしていく。
少年は脱いだ靴を揃えつつ、鼻をかみながらも口を開いた。
「俺はこの神社の長男坊なんだよ。俺の親父があんたらをここに案内しろとか言うもんだから、風邪治りかけの体に鞭打って、迎えに来てやったんだよ。どう、理解してくれた?」
恨みがましい目が、主に橘を映している。よほど体が冷えたのだろう、ストーブの火を少年が占領し始めた。今回の一件は、早く体を温めたくて焦った少年の、説明不足が招いた誤解だったのだ。
小夜子を一瞥し、気まずそうに橘が口を開く。その代わり、
「……俺はてっきり、怪しい奴にでもナンパされて連れて行かれるのかと思ったぞ」
先ほどとは打って変わって、弛緩した表情は柔らかい。それに気付かないフリをして、小夜子は自身の靴の踵を揃えるのだった。
それに気付いているのかいないのか――橘の言い訳にも似た台詞に、少年が小馬鹿にしたような笑みを零す。
「はっ、ナンパ? そんなことしないよ俺には必要ないし。オトナのオトコってそういう不埒なことしか考えられないわけ?」
「……なんだこのガキ……ムカつくが言い返せん」
引きつった笑みを浮かべる橘を尻目に、それにさ、と少年は続けた。
「怪しい奴って、あんたらの連れの方がよっぽどそうじゃん。あれ、人間じゃないだろ?」
まるで当然のことを言うように、遠慮のない口吻だ。泳ぎ始めた小夜子の目が、傍らの橘に縋るように向けられる。橘もまた、少しだけその黒い眼を泳がせて――やがて、視線が交わった。一方、事も無げに少年は裸の両手をストーブに翳している。その後ろ姿が、とある人物を想起させ――小夜子は、ある確信を持って背中に問いかけた。
「ねえ。あなたは一体……何者なの?」
臆することなく、歯に衣着せぬ物言いも。
「言ったじゃん。ここ――『楠木神社』の長男坊だよ」
柔らかく波打つ黒髪も。華奢な背中も。どうして、もっと早く気づかなかったのだろうと小夜子は苦笑すら浮かべた。そう、この少年は――面立ちも雰囲気も、そして、その目の輝きさえも、
「あんたには、こう言ったほうがわかりやすいかな。俺は、楠木 芽衣の弟だよ。『萩尾 小夜子』さん、だっけ?」
楠木 芽衣に、瓜二つだったのだ。




