第十三章:のぞむこと ―睦月― 其の八
「え……何ですか?」
「君が。……その、君は、幸せか。奏一郎と生活していて」
見当はずれの質問に、褐色の目は瞬く。なぜ今、このタイミングで彼は自分にそんなことを問いかけるるのだろう、と。
「えっと、はい。奏一郎さん優しいですし、ご飯も美味しいですし、畑仕事もお店番も楽しいです。お客様来ませんけど」
ありのままの、真実だ。それを淡々と口にしただけ、それなのに。
「そうか」
瞬間、満足げに橘が目を細めるから。彼にしては珍しい、幼い子供のような笑みを浮かべるから。さらには、
「たぶん、それが重要だったんだ。俺にとっては、何よりも」
そんなことを、本当に満足げに言うから。ますます、小夜子の頭は混乱を極めていく。どうして、自分のことでそんなに嬉しそうな顔をするのだろうか、と。橘は根っからの善人だから、この一言で安易に片付けられるものではない。小夜子はそう感じた。
「……話したいことがある。その……あの日のことなんだが」
「は、はい」
話が変わった、ことがわかる。橘の言う“あの日”が、どの日を指しているのかわかる。
揺れるのは、濁った白色の香り。ひたすら視線を注ぎ、いい加減にそれが冷めるのを小夜子は待った。
「君の看病のおかげで、翌日には良くなった。感謝している」
「いえ、いえいえ。ほら、きっとお仕事とかで疲れていたんでしょうね。季節の変わり目でしたし、私もそういう時期はけっこう風邪を引きやすくて、よくお母さんに心配をかけていましたし、それに、ほら。きっとお仕事が忙しいから疲れていたんでしょうね!」
「言いたいことはわかるが、重複しているぞ」
「は……っ!」
「……話を続けてもいいか」
一応、こちらに確認を取ってくれるあたりに優しさを感じる。と同時に、とてもじゃないが断りきれない雰囲気を醸し出していることに彼は気付いているのだろうか。気づけば、黙って頷かせてしまえるほどの。
「まずは、謝罪させてくれ」
そう、橘が切り出すので。小夜子の両手の中の、紙コップが形を変える。
橘の目は、まっすぐに小夜子を見据えていた。きっと、さっきと同じ――あの日と、同じように。
「全く覚えていないんだ。君に何をしたか……は、その、辛うじて覚えているんだが……」
「あの。大丈夫です、橘さん。私、怒ってないですから!」
意を決したかのようにやっと紙コップから視線を外すと自然、橘と視線が絡む。驚きで丸くなった黒い目は、笑みを浮かべた小夜子を映している。無論、その笑みも若干引きつっているのだが。
「だって橘さん、相当意識が朦朧としていましたし、全快じゃなかったのに私のことを心屋まで送るなんて、きっと相当無理をしていたと思うんです」
一息にそう言って、冷たい空気を肺に流し込む。
「それでその、悪化して。あんな風に、事故で……唇と額が当たっちゃっただけ、なのですから。私は怒っていないです。何も謝らないでください、ただの事故だったんですから」
「ただの……事故」
復唱する橘。視線は逸らされて、彼もまた、先の小夜子のように紙コップの中身を見つめ始める。
「……すまない」
ぽつりと漏れ出た言葉に、小夜子はほっと胸を撫で下ろすのと同時に、笑みを零した。丸くなった瞳そのままに、橘は再び謝辞を述べようとしている。そう、思ったのだ。ところが、
「もう、だから謝らないでくださいって言ってるじゃ……」
小夜子の言葉は、遮られる。
「ただの事故じゃ、なかったらいいと思っている自分がいる」
予想外すぎる言葉に、意識をごっそりと奪われて。
周囲は賑やかだった。混乱に満ち満ちていく脳内。それにつられるように、静かに、それでいて確実に速まる心臓の音。
「あの、それは……どう、受け止めたらいいのでしょうか」
思っていた以上に、絞り出された言葉は震えた。それに対して返ってくるのは、
「……俺にもわからない」
不明確なわりに、明瞭な声だ。
「そ、それじゃ私はどうしたらいいのか、わかりませんよっ」
「そう、だよな」
ごめんな、と付け加えるとともに、橘は続ける。
「こんなこと言われても、君もどう返したらいいのか、わからないよな。……少し考えれば、わかることだろうに」
常に誰かのことを考えて行動していそうな彼が、そんなことを言うのが小夜子には信じられなくて――思わず、傍らの彼に向き直ってしまう。
すると、彼は言うのだ。
「こんなことは、初めてだ」
と。少しだけ困ったような、自分に呆れているような、それなのに満ち足りているような。そんな複雑な表情を浮かべて――口元には、穏やかな笑みまで湛えて。いつの間にか口元に運ばれていた紙コップのおかげで、ほんの少ししか彼の口角の上がるのは見えなかったけれど。
ああ、見てしまったと小夜子は思った。それと同時に、なんとはなしにまだ少しだけ熱のある甘酒を口に含む。
橘が甘酒を飲み始めたのは、それがちょうど良いくらいに冷めたから、などではなくて。
彼の頬が少しだけ朱に染められているのは、此処が寒いから、などではなくて。
彼の優しい眼差しは、此処にいない第三者に向けられている、わけでは決してなくて。
言葉ではっきり言われたわけでなくても、恐らく、そういうことなのではないか、と。
「……甘いな」
「そ、うですね。でも、美味しいです……」
初めて口にした甘酒は、予想以上にどろどろとしていて、しかも予想以上にとんでもなく甘かった。それでいて、アルコールの風味もしつこいくらいに口に残る。
忘れることは難しいのだろうな、と小夜子は思った。他のどの料理や飲み物にも例えようのない、この甘さは。
* * *
奏一郎は、社務所の玄関に通されていた。賑やかな空気が、歩を進めるごとに遠ざかっていくのがわかる。己より頭一つ分身長の低い男性の背後に付いていく形で、奏一郎は社務所から続く長い廊下を渡っていた。
さて、何故こんなことになったのか。それは奏一郎自身、実はよくわかっていなかった。
榎本夫妻と堅苦しくも馴れ馴れしくもない新年のごくありふれた挨拶を交わし、お餅の礼を口にして、また店に和菓子を買いに来てくださいね、なんてごくありふれた会話を少しして。ではまた、と別れた直後だ。小夜子と橘の元へ向かおうとした奏一郎の肩を、男性が叩いたのは。
「すみませんねぇ、お連れの方もいらっしゃるのに、急に引き止めたりして……」
「いえいえ。元旦に神主さんから直々に話しかけられるなんて、滅多にないことですから。今年は良い年になりそうです」
物静かに、やや見下ろす形にはなってしまったがにっこりと奏一郎はその男性――神主に微笑んだ。時折忙しなく振り返るので、彼も奏一郎に柔らかい笑みを返している。
「お時間は大丈夫ですか? お連れの方でしたら今、家の者が探しております、直に温かいところにお通しいたしますので、どうぞご安心を」
「そういうことなら。それで、お話したいこととは?」
用件を告げられることなく、「とにかく付いてきてほしい」と言われたので付いてきてしまった奏一郎だったが、一体ここはどこなのか。喧騒の気配は既に遠く。社務所という括りからもとうに外れ、長い廊下を通じて――神主の自宅にまで到達してしまったのではないだろうか。
「いえ、ね。それが、私にもよくわからんのですよ。こんなことは初めてでして」
「初めて、とは?」
よくわからないと言う返しにお似合いの、ほとほと困った顔を見せる神主。相も変わらず、奏一郎は笑みを崩しはしない。
「娘が、あの人だかりの中から貴方を指して、『ここに連れてきて』と言うもんですから……」
だからここへお連れしただけでして、と神主は愛想笑いを浮かべ、言葉を続けた。
「ですが、娘がそう言うのならね、私も貴方を放ってはおけなくなるんですよ。何か起きてからじゃあ、遅いですからね」
ぴた、と足を止める彼。傍らの障子の奥には一つの気配。
「おーい。お連れしたぞ、入るぞ」
神主の声に、先ほどより少しだけ柔らかさが灯る。が、それに対する返答はない。神主は声を落として、奏一郎に微笑んだ。
「少し気難しいというか無愛想というか、ね。言い方がきついところがありますが、きっと悪いようにはしないですので」
「お父さん、そういうの要らないから」
中から、あまり機嫌の良くなさそうな声色が響く。穏やかではないが、静かで凛とした声だ。ここで初めて、奏一郎はおや、と首を傾げた。
神主の手が、障子にかかる。するりと小気味良い音を立てて開かれれば、真っ先に目に入るのは少女の横顔。ちらりともこちらに視線を向けないまま、正座をして待ち構えている。奏一郎を部屋の中へと手招くのは神主だ。その少女は、ぴくりとも動かない。目の前に鎮座している茶器に、ひたすら視線を送っている。何も語らない少女の代わりに、神主が彼女の名を口にした。
「娘の、芽衣です」
ああ、聞いたことのある声だと思ったと、奏一郎は碧い目を細め、未だにこちらを見ることのない琥珀の眼に、笑みを送った。




