第四章:こわいひと ―長月― 其の弐
* * *
湯呑に茶を注ぐコポコポという音が、しんと静まり返った部屋に響く。橘は書類を片手にそれを読み上げ、一方の奏一郎は涼しい顔で茶を口に運んでいる。小夜子はちゃぶ台を挟んで、そんな彼の向かいに正座していた。
「以前にも申し上げましたが少子高齢化に伴い、裏の森林一帯に大規模な老人ホームが建設されることになりました。よって……」
「さよ。君の部屋に『てれび』とやらはあるのか?」
好奇心で輝く碧い目。まだ読み上げの最中である橘の存在に躊躇いつつ、奏一郎の問いに答える小夜子。
「は、はい、ありますよ……小さいし古いものですけど。……え。ま、まさか奏一郎さん、テレビを見たことも!?」
「……近隣にお住まいの方々には大変申し訳ないと思っておりますが、立ち退いていただこう、ということになっ……」
「『てれび』というのが世に出たのはずいぶん前だったが……。未だに見たことがなくてな」
「聞けぇぇ! 俺の話を無視するなっ!」
小夜子は、目に見えて苛々している橘をじっと見る。
黒縁の眼鏡の奥には、さらに深みのある黒の瞳。髪や目の色のせいか、全体的に厳格な雰囲気を漂わせている。この猛暑の中でもきっちりした型のスーツをスマートに着こなし、公務員のイメージをそのまま体現しているような人。知的な印象こそ受けるが、奏一郎と年は同じくらいだろうか。
しかし、一見冷静沈着そうな彼はどうやら──。
「まあ落ち着こうよ、怒ってもあまりいいことは起きないって言うぞ、たちのきくん!」
「だから『橘』だと言っているだろう! 何回目だ、このやり取り!」
感情が高ぶると、敬語が外れるようにできているらしい……。
「……あ、失礼」
小夜子の視線に気付いてか、橘は咳払いをしつつ話を元に戻した。
「とにかく、もう他の住民の皆さんは勧告に承諾して、中には既に引っ越しの準備を始めた方もいるんですよ? あなたくらいですよ、勧告を無視し続けているのは」
「別に無視はしていないさ。ただ、ここを立ち退くつもりはない。僕の答えは変わらない。何度もそう言ったろう?」
奏一郎は毅然としていた。店が、住むところが無くなってしまうかもしれない非常事態に、よくここまで冷静でいられるものだと脱帽する。
奏一郎の言を最後に、橘は眉を顰ると溜め息混じりに口を開いた。
「……今回の老人ホームの建設には、佐々木上松氏が関わっている」
彼の表情は暗い。先ほどの激昂した口調はどこへ行ったのか。静かにぽつりとこぼされたその名に、小夜子は目を丸くした。
「え……佐々木って。あの、よくテレビのニュースに出てくる……県知事、ですか?」
「ああ。メディアでは人の良い政治家として取り上げられているようだが……とんでもない。ありとあらゆるコネを使って、自分にとって都合の悪い事実を山ほど揉み消している」
よくニュースの映像には彼の発言が流れる。五十代半ばの、彼の笑顔も。あの屈託のない柔らかな笑顔が嘘だというのだろうか。彼の博愛主義的な政治活動には、全国から賞賛の声が上げられている“らしい”のだが。
「あれ? でも、老人ホームを造るなんて、慈善活動じゃないですか? 良いことですよね?」
小夜子の発言に、橘の表情は尚も暗さを増している。
「その老人ホームは、資産家や会社の元会長などしか受け入れない。それも、自分のコネを更に広げるためだ」
「……そんな」
──……最っ低じゃないですか。世の中の何もかも信じられなくなりそう。
「彼は県知事になる前からも、人脈を使って全国の様々な土地開発に関わってきた。その度、近隣住民に立ち退きの勧告をしてきたのだが……無論、中にはそれに強く反対する者もたくさんいた。……彼らが今どうなっているのかは俺も……誰も、知らない」
その一言で、小夜子はぞっとした。暑そうな日差しが照っているのにもかかわらず、この空間にだけ冷気が蔓延しているようだ。
──……じゃあ、本当にここを出ていかなきゃいけないの?
「……ふ、はは」
今まで黙っていた奏一郎がもらした笑い声。ちっとも面白くなさそうな。まるで、ロボットが笑い出したかのような。一切の感情も込められていない笑い声だ。
「夏も過ぎようとしているのに、恐ろしい話だな、まったく。時に、たちのきくん?」
「『橘』な!」
「真実とは言え、立場上そんなことを僕たちに言ってはいけないだろうに。優しいんだな、君は」
突然の褒め言葉に面食らったのか、橘は顔を赤らめた。
「ち、違う! 俺はただ、俺の仕事のためにも早くここから立ち退いてほしいだけで……」
「本っっ当に優しいんだなぁ、君は……!」
見る見るうちに橘は頬を赤く染めていく。この反応には小夜子もなんだか、見ていて楽しくなってきた。
「やめ……やめろ、本当に! もういい、用件は済んだ、俺は帰るぞ……帰るからな!」
鞄と書類を雑に手に掴むと、橘は口早に言う。
「いいか、金曜だ! 金曜には答えを出せ! それまでに、ちゃんと……興味とかそういうんじゃなくて、書類に目を通しておけ!」
茶封筒を残し、橘は姿を消した。嵐が去った、とはこのことか。静かな茶の間には、じわりじわりと現実味が帰ってくる。
小夜子は頭を抱えた。
──前回は苦労して、追い出されずに済んだっていうのに。今度は家そのものが追い出されるってどういうこと。ああ、もう。
奏一郎は橘が消えた方を見てにやりとしてから、小夜子に向き直って──今度はにこやかに微笑んだ。
「まったく、彼は優しいなあ。さよもそう思う? 思うよね?」
「は、はい……」
奏一郎は呑気なものだ。何故、こんなに落ち着いていられるんだろう。由々しき事態であるという実感が無いのだろうか。
しかし小夜子も、そんな彼の発する次の一言で“由々しき事態”を一瞬忘れてしまうことになる。
「ところで時間は大丈夫なのか、さよ?」
「え?」
時計を見ると既に八時過ぎ。ここから学校までは徒歩で約三十分。学校の朝礼が始まるのは、たしか八時半だったか──。小夜子は一瞬にして青ざめた。
「は、早歩きすれば間に合います、多分!」
言いながら、小夜子はちゃぶ台の脇にあった学生鞄を取り出す。そして素早く鏡で身形を確認して、玄関先でローファーを履く。この間、僅か七秒。
「……あ、さよ」
「はい!?」
「ここは絶対に、誰にも渡さないから。何の心配もしないで。友達をたくさんつくっておいで」
奏一郎は目を細める。白の前髪の奥に見える碧い目が、妖しく光った──ような、気がした。
「は、はい……」
「あ。あと、制服すごく似合ってる。可愛いぞ」
「へ、ええ!?」
先の橘の気持ちが分かった。唐突に、いきなり褒められると、なるほど恥ずかしい。内容によるのかもしれないけど。相手にも、よるのかもしれないけど。
「あ、あ、ありがとうございます」
熱を帯びた顔を隠すようにして、頭を下げる。
「さあ、さっさと行ってくるといい」
──呼び止めたのは自分のくせに──!
そう思っても、言い返すだけの時間は無い。
「い、行ってきまーす!」
「ああ、行ってらっしゃい」
小走りの背中を、奏一郎は見えなくなるまで見つめていた。大きく揺れる胡桃色の髪は、夏の日差しに反射して眩しく見える。
「さよ、顔が真っ赤だったな」
ふふっと笑って伸びをして、久々に独りになった彼は小さく呟いた。
「さーて、と。彼女にでも会いに行くか」
* * *
しばらくの間、小夜子は焦りを抱えて走っていた。走っていたと言っても、早歩きを意識しただけのようなものだが──足を止める。心屋を飛び出してからずっと、違和感が背中にまとわりついていたのだ。鞄から、『編入案内』を取り出す。一週間ほど前に制服と共に学校から郵送されたものだ。中を開き、ゆっくりと、そして落ち着いて読んでみる。
『なお、9/1(始業式)の登校時間は、10:30からです。本校の職員室に10:00にお越しください。』
小夜子はうなだれた。まだ、一時間以上も余裕があるではないか。
それなのにこの暑さの中、あんなに急いだりして、馬鹿みたいだ……。額の汗をハンカチで拭いながら、ふと空を見上げた。
思えば、心屋に来てから一度も外出していなかった。店の前を箒で掃除することはあったが。
刺すような日差し。小さな雲が一つだけ、眩いばかりの空に浮かんでいる。今日は快晴だ。また、今夜も綺麗な夜空になるだろうか。少しだけ、気分が晴れる。
近頃はいつの間にか空や、草木に注目してしまう自分がいることに小夜子は気づいていた。何に注目しているかと訊かれれば、空の場合は色の濃淡、花の場合は蕾の膨らみ、葉の場合はその艶など。
──……たぶん、奏一郎さんの影響……だよね、やっぱり。
彼はいつも、どこか遠くを見つめているような気がする。かと思えば、道端に咲く花々や、草木の観賞もする。
──……自然が好きなのかな、もしかして。
やはり彼に影響されているのか、ふと視界の片隅に映った公園に目を向けてしまう。緑豊かな公園。大きな木々が手を広げて、遊具を紫外線から守っているようだ。砂場に取り残されたおもちゃたちが、夏休みの終わりを告げている。
小夜子はふと足を止めた。木陰のベンチに腰かける青年が一人。先ほど見知ったばかりの後ろ姿。
「……はあ」
彼は長閑な公園で、静かに溜め息を吐いていた。
「橘さん、ですか?」
「え?」
聞き慣れないであろう声に振り返ったのは、やはり橘だった。その表情にはどこか死相が漂う。
「……ああ、先ほどの」
「萩尾 小夜子です。だ、大丈夫ですか?」
「ああ……大丈夫です。まだ、職場に戻るには早い時間ですし……」
腕時計を見てそう答える彼。
「そ、そうじゃなくて。お体、お疲れみたいなので。……なにかあったんですか?」
まだ、学校に行くには早すぎる。
隣に腰かけると、彼はゆっくりとだが話し始めた。
「……今日で、あの家に行くのは十三回目だったんです」
「奏一郎さん、ですね?」
「ええ。始めに立ち退きの話をしたときも、彼は笑っていました。『ここを離れるつもりはない』と」
あまりに容易に想像できて、小夜子は笑いそうになる。橘には悪いが。
「それから何度も、何度も訪れて承諾するよう促しても、決して彼は首を縦に振ろうとはしなかった……」