第十三章:のぞむこと ―睦月― 其の七
「さて、まずは手と口を清めなければね」
二人の後を追うようにして手水舎に向かう。彼らは初めてここに来たわけではないだけあって、人だかりができていようともある程度の位置取りは把握しているようである。
左手、右手、口、再び左手……と、奏一郎の見よう見まねで小夜子も清めていく。決して俊敏な所作ではなかったが、流れるように淀みなく、最後に柄杓を清め会釈をすると、彼は拝殿に並ぶ人々の最後尾へと歩を進めていくのだった。次に、橘も先に続く。二人共、時折背後を振り返って、まだ来ない小夜子を気にしてくれているようだ。二人が大人であること、そして自分が如何に子供であるかを実感させられた瞬間だった。
――こういうのを、何もお手本にしないでもすらすらできちゃうような、しっかりした大人になりたいよなぁ……。
そんなことをぼんやりと考えていたら、うっかり柄杓を落としたり、見知らぬ人とぶつかったり、雪で滑って転びそうになったりと、新年早々に自らのドジっぷりを露見する小夜子。奏一郎にはおやおや、と困ったように微笑まれ、橘には気をつけろと注意をされる――本当に、幸先の悪い。穴があったら入りたい想いに駆られるも、穴の無いこの境内では、赤くなった顔を俯かせるしか術はなかった。
それ故、か。彼女は気付かなかった。
己を見つめる、二つの琥珀の色の瞳に。
* * *
ガラン、ガラン、という鈴の音が何度耳に響いたろう。未だ、小夜子達に参拝の順番は回ってこない。
「さよ。今のうちに何をお願いするか、考えておくんだよ」
「はい」
「たちのきくんもね」
「ああ」
言葉少なな応酬。それでも奏一郎は満足なのか、微笑みを絶やさない。ふと気になって、小夜子は徐に口を開く。
「……奏一郎さんは? 何をお願いするんですか?」
「僕?」
平生、物欲の欠片も見せない彼が一体何をお願いするのか。何を望むのか。一度疑問に思い始めたら、興味は尽きない。
「うーん……」
と言って、そのまま空を見上げる彼。二人に何をお願いするか考えておくよう促しておきながら、当の本人は何も考えていなかったらしい。かなりの長考だ。やがて人の流れに乗るようにして、三人は拝殿へと一歩、また一歩と近づいていく。
「……そうだな。僕は……」
人並みの隙間から賽銭箱がちらりと見える頃になった、その時。
「奏一郎さーん」
一際陽気な声が、奏一郎の名を呼んだ。目に入るのは、拝殿の行列から少し離れた、ひと組の男女の姿。
「おや、榎本さんじゃないか」
二人の姿を認めた奏一郎は、さも当然とばかりに行列から――小夜子達から――離れていく。ここまで並んでおいてそんなあっさり、と目を丸くする小夜子。
「お餅のお礼も言いたいから、二人は先に参拝していてくれ」
それだけ言い残すと、奏一郎は迷いなく躊躇いなく、雑踏に紛れてその姿を消した。
あっという間だった。はい、わかりました、と言う隙が無いほどにあっという間だった。橘も呆気に取られているのではと思い振り返れば――彼は意外にも、涼しい表情を浮かべている。そればかりか、
「……ああいう奴だから、仕方ないな」
悟りきったかのような言葉を吐き出し、既に拝殿へと体を向き直していた。
「そ、そうですね」
同意して、小夜子は目前に迫った順番に備えて財布を取り出した――は、いいが。
「……何をお願いするんだ、君は」
「え、えっと……そうですねぇ」
ぱっと頭に浮かんだのは、あまりにも無難な願いだった。
「怪我も病気もなく、健康に過ごせますように……でしょうか。我ながら、無難すぎてつまらないですね。はは」
「……そんなことは、ない」
静かな声だった。それでいて、明瞭だった。その声に比例するようにして、眼も。まっすぐに小夜子を見つめるその漆黒は優しい色を帯び、儚げに揺らめいていた。そうして、気付く。今日初めて、二人の視線が交わったことに。
「大事なことだ、とても」
ようやく、順番が回ってきた。未だに戻ってこない奏一郎を気にしつつ、拝殿の前に進み出て、賽銭箱に小銭を入れる。鈴緒を掴み揺らしてみるも、思っていたような大きな音は鳴らない。どうやら簡単そうに見えて、これにはコツが要るらしい。二礼二拍手一礼、くらいの作法は弁えている小夜子だったが、橘と参拝のタイミングを合わせたくなってしまったせいで、やや挙動不審になってしまったことは否めない事実であった。そうして、願い事を心の中で強く念じる――その最中でも思ってしまうのも、密かに横目で盗み見てしまうのも、やはり傍らにいる橘のこと。
今は目蓋の裏に隠されているその瞳には、人を金縛りにさせるような、心臓をどきりとさせるような、そんな不思議な力を秘めているように、小夜子には思えたのであった。
* * *
参拝を終えて行列から離れ、しばらく辺りを見回してみるも、奏一郎の姿を見つけることはできなかった。
「熱いから、気をつけて飲むんだぞ」
落ち着いた声に背後を振り返ると、橘が紙コップを差し出してくる。受け取った瞬間に漂う独特の香り。この馴染みの薄い香りは――麹、だろうか。そう思い覗いてみれば、紙コップの中身はやはり甘酒だった。手袋越しにでも伝わる熱から察するに、まだ口をつけるべきではなさそうだ。
「ありがとうございます。甘酒って飲むの初めてです。……というか、私も飲んでいいものなんですか?」
「未成年でも問題ない」
そう答える彼も、まだ口を付けてはいない。両手で包んで、カイロの代わりにしているだけのようだ。
「それにしても、奏一郎さんはどこに行っちゃったんでしょうか」
「……あいつのことだ。心配しなくても大丈夫だろう」
橘はそう言って、目を伏せる。時間の経過とともに、徐々にではあるが人だかりはばらけてきており、その上、境内は広いとは言えない。にもかかわらず見つけられないなんて、どう考えてもおかしいと小夜子は思うのだが。
そこで、途切れる会話。続く沈黙。周囲が賑やかなこともあって、この沈黙はやたらに小夜子をはらはらさせる。昼間のような目も合わない、という状況からはどうにか脱却できたものの、会話が途切れるという第二の気まずい空気が流れ始めてしまった。
やがてこの沈黙を破ってくれたのは、やはり橘だった。
「……奏一郎とは、もう仲直りはしたのか」
「は、はい!」
気のせい、ではないだろう――小夜子の返しに、彼の目元がふっと和らいだのは。
仲直り。それだけ聞くと、まるで子供の喧嘩のようだ。実際は小夜子も奏一郎も当時は、お互いに必死だったのだが――橘から言わせれば、“子供の喧嘩”だったのかもしれない。
「泣いていたから、少し気になってな」
「あ、あー……。そう、ですよね」
思い出し、小夜子は頬を赤く染めた。橘の前で何回泣いたか知れない。彼に子供だと思われるのも、無理からぬことであった。
「……あいつと、また何かあったらいつでも言うといい」
公園で。今とは真逆のあの暑い夏の日に、似たような台詞を彼の口から聞いたことを、再び小夜子は思い出していた。
あの時。彼はこうも言った。奏一郎と話していると、まるで人間じゃない“何か”と話しているような気がしてくる、と。そして、奏一郎のことを怖い、とも。
今はどうなのだろうか。今も彼は奏一郎のことを怖いと思っているのだろうか。小夜子はそこまで考えて、いいや、と思い直す。怖いと思っている相手の誘いに乗る、というのは現実的には考えにくい。
――橘さんは、ひょっとして気付いているのかな。今はもう、全部知っているのかも。
それなら、二人の間に流れていた不思議な雰囲気にも納得がいく。だとすると、橘は奏一郎を人間じゃないとわかった上で付き合いを続けているということになるが――。
「橘さんは……」
だとしたら、どうして。
「橘さんは、知っているんですか?」
どうして、そう易々と彼を受け入れられたのか。知りたいと小夜子は思った。
「奏一郎さんが、その……」
「人間じゃないってことか?」
通常であれば“非現実的”なことを、そうやって真剣な表情で受け入れられたのかを。
「知っている。あいつ自身、俺には隠そうともしていなかった気もするが」
「そ、そうなんですか?」
橘は悟りきったような表情だ。そこには恐怖心はおろか、躊躇も存在しない。ただ淡々と、小夜子の言葉に頷いている。それどころか、
「まあ、あれが普通の人間だと考える方がどうかしていたのかもしれないな」
そう言って揺れる紙コップの中身を見つめている。小夜子は混乱した。何なのだ、この余裕は。大人って皆こうなのか? それとも、皆がそうなのか?
「わ、私はおかしかったのでしょうか。奏一郎さんのこと、避けたり怖がったりして」
「奏一郎に誰よりも近い君がそうなるのは、自然なことだろう」
だとしたら、不自然なのは橘の方ということになる。奏一郎を恐れていたと言う割に、彼の正体を知った後ではこの悟りっぷりだ。小夜子の心が疑問に満ち満ちたのを表情で悟ったのか、橘は口を開く。
「どういう反応を示すのかに正解、なんて無いと思うぞ」
「そ、そうかもしれませんが。それにしても、橘さんの反応は大人びすぎていて、よくわかりません……」
そこで初めて、橘は目を丸くした。次には、何かを思い出したように小夜子から視線を逸らす。
「……そうだな、俺が特殊なのかもしれない。奏一郎の正体云々よりもそれ以上に、俺には気になることがあったからな」




