第十三章:のぞむこと ―睦月― 其の六
「まったく、たちのきくんは狡いよなぁ。さっきのお餅だって、僕の手を煩わせたくなくて、桐谷くんと一緒の磯辺焼きって言ったんだろうし。お客様なんだからそんなこと、気にしなくていいのにね……」
しみじみ、といった調子で、まるで哀れむような目線をこちらに向けてくる彼。おかしい。会話の流れが支離滅裂だ。間違いなく、混乱しているのは彼の方だと言えた。
「おい、奏一郎」
「苦手だよ」
明瞭な声だった。それでいて、落ち着いていた。静かだった。これまでの、どの言葉よりも。
「僕は、君が何よりも苦手だよ」
どの言葉よりも、本心だった。
「君の鋭いところも。優しいところも……とても好きだよ。だけれど――とても、苦手だ」
刹那。橘は、言葉を忘れた。脈絡だとか、会話の流れだとか――それすらも、この瞬間だけは忘れていられた。
八の字になった眉、伏せられた瞳。そして微かに緩められた口元――それはまるで、涙を堪えているように。
視界に入ったのは、“人間”だった。これまでに見た、彼のどの表情よりも――“人間”らしかったのだ。
そして、その時。二人分の気配が店先に現れる。奏一郎もそれに気づいたのか、ふっと柔らかく目を細めると――盤上の駒を、片付け始めた。まずは香車、次に飛車を右の手に取り、駒箱に仕舞っていく。
「……少し意地悪をしてしまったけれど。たちのきくんもだいぶ上達したなあ」
パチン、パチン、と。一つ一つ、丁寧に仕舞われていく駒たち。彼が今手にしているのは、桂馬、だろうか。
「君に追い越される日も、近いかもしれないな」
最後に、それだけぽつりと呟いた。
* * *
心屋の軒先をくぐって、脱いだ靴の踵を揃える。
「ただいま~」
まるで我が家に帰ってきたように自然とそう口にする桐谷に、小夜子はふっと笑みをこぼした。
「ただいま戻りましたー」
「おかえりなさい」
居間の戸を開ければ、にこりと笑顔で迎えてくれる奏一郎に、堅い表情の橘。それぞれ彼ららしい表情をしてはいるが、この二人の間に流れている空気に、小夜子はほんの少しの違和感を覚えてしまった。張り詰めているでもないが穏やかでもない、曖昧な空気。慣れない空気に思わず小首を傾げて目線を下げると、彼らの膝下にはまたもや見慣れぬ将棋盤が鎮座していた。
「あれー……? また将棋やってたんだー……」
ぼーっとした眼と声に、小夜子は目を丸くする。
「お二人は将棋が好きなんですか?」
その問いに、うーん、と奏一郎が天井を向いた。
「僕は好きだけど、ね。たちのきくんは僕に付き合ってくれているだけじゃないかな」
「いや、面白いとは思うぞ」
何度やっても負けてはいるが、と付け加えて、橘は苦笑した。
「文化祭の時にもね、二人で将棋指してたんだよー……。そんな面白いんかね?」
桐谷がそう言っている間にも、将棋盤は奏一郎の手によって居間から彼の自室へと移動させらていく。同時に、静かに言葉をこぼすのは橘だ。
「趣味なんだろう」
彼の視線は、将棋盤に、と言うよりも白髪の青年の背中に注がれていた。
「いつも一人で指していると、言っていたからな」
将棋をよく知らない小夜子にとって、「一人で指している」という言葉は聞き慣れないものだった。
橘曰く、彼の祖父も一人でよく将棋を指していたという。暇つぶしにも練習にもなるらしい、とも彼は言うが――小夜子は、考えてみた。
心屋の周辺に、人家は無い。人気も無ければ、車道も無い。あるのは鬱蒼とした森林と、目の前を流れる小川だけ。そんな静かな空気の中、一人では広すぎるこの居間で、彼は一人で将棋を指しているというのだろうか、と。
それは、あまりにも寂しいことなんじゃないか、と。
自動的に思い出されるのは、クリスマスの夜のことだ。彼は、言っていた。待ってた、と。あの夜、本当のことを、本音を口にしてくれた。
――さよのこと、ずっと待ってた。学校に行くさよを、見送るときだって。夕飯の食材の買い出しに行くときだって。早く……早く帰ってこないかなぁって、いつも……いつも思うんだ――
そう言われた時は、小夜子は単純に嬉しかった。が、今はそんなめでたいことを思ってはいられなかった。彼に自覚があるかは知らない。もしかしたら、何とも思っていないかもしれない。
それでも、彼が孤独であることに気づいてしまったから。
一見孤独などとは縁遠いような、人懐っこい笑みを浮かべて暖簾をくぐる彼。数分後には磯辺焼きを盆に乗せて、こちらへと運んでくる。
珍しくぼーっとした――桐谷の口元のそれに気づかなかった――橘に、ほんの少し小夜子は首を傾げ。引っ張れば伸びる餅に、桐谷はふわりと頬を緩ませ。
四人で食べる磯辺焼きは――甘く、そして少しだけしょっぱい。
* * *
「初詣に行かないか?」
そう切り出したのは奏一郎だ。磯辺焼きを皆で綺麗に平らげ、猫と戯れている時だった。
「初詣って、今からですか? お昼過ぎとは言え、混んでるんじゃないですか?」
「さよの高校の近くにある神社なんだけどね、長い階段を昇った先にあるからか、地元でも行く人は少ないんだよ」
初詣とは、人々がひしめき合い、どこかで必ず迷子が泣いていて、足の踏みつけ合いと酔っぱらいによるトラブルが絶えないイベントであると小夜子は思っていたのだが――。
「それもあるが……東京に近いからか、この辺り一帯に住む人たちは皆、初詣には有名な寺社に行ってしまうんだ」
奏一郎、続いて橘の淀みない説明に、そういうものなのかとようやく小夜子は納得した。
「俺はあの神社好きだけどね~……。静かだし。甘酒振舞ってくれるし。たしか、井戸のお水が有名なんだっけ……」
「ああ。どんなご利益があるのかは忘れたが……高校の時の同級生がしょっちゅう神社に通っては水を飲んでいた、という話は聞いたことがある」
さすが地元民なだけあって、橘も桐谷もその神社に詳しいようだ。話を聞いているうちに、小夜子も興味が湧いたのだが、
「奏一郎さん。お参りしていいんですか、私も?」
一つだけ、彼女には心配なことがあった。口にするのも憚られるので、濁すだけ濁してそう尋ねる。言葉少なな問い。それでも察してくれたらしい――奏一郎は、大丈夫、とだけ言って笑った。
* * *
雪に反射した陽光が目に刺さるのは勘弁したいが、凍っていた雪の道がほんのりと和らげば、歩いているだけで気分も高揚するというもの。
「この時間帯にもなると、寒さが和らいで気持ちがいいな……」
白い息を吐き出しつつ、独り言のように奏一郎が呟く。肌も、髪もそれこそ雪のように真っ白な彼は、この銀世界と同化しているようにさえ見えた。
「それにしても、桐谷くんも来られればよかったんだけどな。会社の人達と飲み会だったか?」
「ああ。独身組で、楽しくな」
「……たしか、桐谷くんは酒乱じゃなかったか?」
「飲まないようには言ったが、な。念のため、後で電話の一つでも入れてやるさ」
仲良く肩を並べて歩く二人の背中を、小夜子は黙って見つめていた。会話の内容自体はあまり穏やかでないにせよ、先ほどの不思議な雰囲気はどこへやら。これではむしろ、一度も目線の合わない橘と自分との間に漂う雰囲気の方が、よほど奇異に映るのではないだろうか、と小夜子は思う。
彼女としては、自然に振舞っているつもりなのだ。ところが一方の橘は極力、小夜子との接触はなるべく避けたいようであった。おかげで今朝に挨拶を交わして以来、二人の視線は一度たりともかち合っていない。
――普通に話ができれば、それでいいんだけどなぁ。
決して贅沢な願いなどではないだろう。何故なら小夜子と橘との間には何も無かったし、これからもそうなのだから。額に唇が触れた、ただそれだけの事故なのだから。
「さよ、滑るから気をつけてね」
黙考しているうちに、神社の階段にたどり着いたようだ。気遣いの言葉に階段を見やると、なかなかの勾配だ。鉄製の手すりには薄い氷が張り付いている。手袋をしているからまだよかったが、とても素手では触れなかっただろう。
先頭を行くのは小夜子だ。次に橘、奏一郎と続く。足元は雪かきがしてあるにはあるのだが、氷の膜がそこかしこに張られているような気がしてならず、次の一歩を踏み出すのに躊躇してしまう。そうこうしているうちにも、階段に寄り添うようにして連なった木々の枝から零れ落ちる雪玉が、頭上に蓄積されていった。
中腹より一歩手前、といったところか。背後を振り返ると、銀色に染め上げられた街が一望できた。木之下高校の校庭も、誰の足も踏み入れられていないせいか一つのまっさらな反射鏡と化している。澄み切った青空に、煌めく白銀の色。この乾いた鮮やかな色彩は、非常に近しい人物を想起させた。
最後まで昇り終える頃には、小夜子の太ももはくたくただった。普段あまり運動をしないせいもあるのだろう。その点、奏一郎も橘も全く草臥れた様子を見せないのだから羨ましい。小夜子と違い、彼らは息切れを起こしていないのだ。
「いやあ、ここに来るのも久々だ」
「俺もだ」
などと会話をしつつ、早々に鳥居の下で会釈をする余裕すらあるらしい。常人よりも明らかに体力の無いらしい自分を、小夜子は少しだけ恨んだ。




