第十三章:のぞむこと ―睦月― 其の五
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障子を揺らす風の音。壁に遮断され、それでも鼓膜を揺らす虎落笛。今のように静かな空間ではやたら際立つそれらだが、橘の眉が先程から顰められているのはこれらのせいではなかった。
そんな橘に対峙するのは奏一郎だ。空色に近い碧眼は今は、上下の白の睫毛に覆われている。口元にはたおやかな笑みが湛えられ、時折、さもおかしそうにその口角を上げるのだった。互いに正座している二人の間に君臨するのは――桧製の、将棋盤。やがて、橘の眉が再び深い皺を刻み始める。
「……おい、奏一郎。ふざけているのか?」
固く握り締めた拳も、小さく漏れ出たその声も、微かに震えている。それを自覚しているだけに、彼は歯痒い想いをせねばならないのだった。一方の奏一郎は、
「たちのきくん、なかなか長考だなー?」
橘の声など寸分たりとも聞こえていなかったかのように振舞うものだから、橘は目前にいる男の性根の悪さをここぞとばかりに思い知ったのであった。
膝の上、背中、そして腕にまで。ケージから解放された子猫たちが、その柔らかな温もりを余すことなく橘に押し当ててくるのだ。猫は気まぐれでなかなか人には懐かないものだという認識でいた橘だが、心屋の猫たちは違った。マイペースなのか甘えたなのか、無闇矢鱈に体を擦り付けてくる。否、無警戒なことに全身を委ねてきているのだ。動き回る温もりと耳をかすめる甘え声には、思わず頬を綻ばせてしまいそうだ。
猫好きな橘にとって、これ以上の至福はない、が、それに水を差すのは奏一郎だ。
「あ、たちのきくん。猫に触っちゃ駄目~。勝負は集中しなきゃ駄目なんだよ~」
「だったらケージに入れておけ……っ!」
心中での叫びをそのまま口にする橘。しかしその叫びも虚しくスルーされ、甘えたな猫に気を取られ盤面に集中できず、明後日の方向へ自らの駒を進めてしまう始末。無論、将棋をやろうと言いだしたのは奏一郎で、ケージから猫たちを解放したのもまた奏一郎である。これはれっきとした嫌がらせだ。その証拠に、猫に触れたくてうずうずして、それでいて行き場のない橘の手を見るや奏一郎は笑みを浮かべ、またそれを隠そうともしないのだ。
気持ちの良い性格をしているとは元から思っていなかった橘だが、今回の仕打ちの酷さはこれまでのそれを抜きん出ている。あの子に妙な言葉を口走らせたことが相当気に食わなかったのだろうか、と疑問符を浮かべるも、どうせそれを口にしても彼が素直に答えてくれるとは到底思えない。完全なる八方塞がりである。状況も盤上も。
「……投了、だ」
引きつった笑みそのままに頭を下げると、奏一郎も軽く頭を下げた。否、橘の顔を覗き込んだ、と言ったほうが正しかった。そうして、言うのだ。青空を彷彿とさせる、実に爽やかな微笑みを湛えて。
「いやあ、たちのきくんの悔しそうな顔はとっても見応えがあるなぁ!」
「ほんっっとに悪趣味なんだな……!」
単に機嫌が悪いのか、やはりどこまでも性根が悪いのか。橘にはもはや知る術もないし知る気も起きないが、とにかく一局終えたのだ。膝の上で寛ぐ子猫の脇に手を差し込んで、胸元で抱き寄せると、なんとも柔らかな生き物が嬉しそうに目を細める仕草に、橘は心臓を高鳴らせる。
「前に来た時よりもさすがに大きくなっているな。……まだ、里親は見つからないのか」
「さよのケイタイにも電話がかかってきていないみたいだからな」
「そうか……」
自分がアパート住まいでなければ飼うのになぁ、と複雑な気持ちで腕の中のそれを見る。温かな体温に誘われてか、遅い瞬きを重ねる子猫の目。
「それにしても、あの二人遅いなぁ」
玄関先に目線を送る奏一郎。気持ち、背筋をしゃんと伸ばし、二人の帰りを待ちわびているようだ。
「桐谷は歩くのが遅いからな……」
「二人で、のんびり散歩でもしているのかな」
頭の中で想像したのだろうか、碧い目が柔らかく細められる。陽だまりに似た温和な表情に、どこかほっと胸を撫で下ろしている自分がいることに、橘は気付いた。
「……仲直りは、したみたいだな」
「え?」
「お前と、あの子だ」
ああ、そのことか。奏一郎はそう呟いて、また笑った。屈託のない笑みだ。
「さよから、何か聞いていたのかい?」
「入院し始めた時に、少しだけな」
「そうか……」
今朝の小夜子の表情や雰囲気からもわかることだったが――どうやら、この二人の心のすれ違いは蟠りなく解決されたらしい。橘からすれば、小夜子の涙も、言葉も、笑顔も、未だに忘れることはできないのだが。
奏一郎を怖いと思ってしまったから、もう一緒にいられないかもしれない、と泣いていた彼女の姿は、未だに脳裏に強く焼き付いている。そして、後に己を看病してくれた時の、笑顔も。それを目にした瞬間、どんなに安心したことか――言葉では言い尽くせない。
もちろん、小夜子がなぜ奏一郎を突然に恐れるようになってしまったのか、その理由を橘は知っている。彼自身……実感も、している。
「たちのきくんは、すごいよなぁ」
ふと、感心したように奏一郎が言うので、橘は二度、目をパチクリとさせた。
「何がだ?」
「だって君も、僕が人間じゃないって、もうわかっているんでしょ?」
「…………ああ」
逡巡の後、橘は子猫から一旦、目を離すことに決めた。
「そうだな、お前は人間じゃない。そのことには、初めて会った時から薄々気付いてはいたのかもしれない」
「ほう、それは鋭いことだ」
おどけるようにそう言って、奏一郎は笑う。対して、橘の目は真剣だ。
「確信したのは、文化祭のあの日だったが……いや、それは大した問題じゃないな。それはいいんだ、どうでも」
そう、どうでもよかった。橘にとっては、そんなことは瑣末な問題に過ぎなかった。
「問題は、お前と一緒にいることが……あの子にとって、本当に最善なのかどうか、疑ってしまう瞬間がある、ということだ」
「何故?」
「お前の目的がわからないからだ」
短い問いにも、橘は真っ直ぐな瞳で返す。
「俺にはお前の目的がわからない。何故ここにいるのか。何のために、何がしたくてここにいるのか。だが……お前の表情や言動から、こう思う時がある。……憶測でしか、ないが」
そう付け加えて、次に目に入るのは――、
「お前はその目的のために、あの子を利用しようとしていないか?」
真一文字に結ばれた、唇。
これだ。
この、突然に変わる表情が恐ろしいのだ。先程まで浮かべていた笑みは飾りだったのかと思わせるほどの、無感情を、無慈悲を想起させてしまえるほどの、この変わりようが――人間では、ないのだ。
そうして、また。何かを誤魔化すように、ふわりと微笑んで。
「……僕には」
目を、細めて――言葉を、紡ぐのだ。
「果たさなければいけないことが、あって――そのために、ここにいるんだ。そのためには、どんな犠牲も厭わない。今までもずっとそうだったし、これからもそうだろうけれど」
両の瞼が、碧眼を隠す。つり上げられた口角が、笑みを作る。
「……利用だなんて、人聞き悪い」
嘘を吐いているようには、橘には思えなかった。しかしここで、ああそうですかと納得して引き下がるわけには行かない。何故なら、偽りこそなくとも、奏一郎の言に否定の意思が見つからないからだ。奏一郎の“目的”に、小夜子が関わっていることを――否定して、いないからだ。
橘は知っていた。奏一郎は嘘を吐かないが、本当のことも教えてくれない男だということを。
だから――、
「……果たさなければいけないこと、と言ったな」
知りたいと思った。
「それは、お前の望んでいることでもあるのか?」
先の言葉に潜む、彼の本心を。
丸くなった碧い目に映るのは、ほんの少しの躊躇いの色。
「……? たちのきくん、何を、言っているの?」
「……必ずしも一致するわけではないだろう。義務と、願望は」
色濃く、深みを増していく、躊躇いの色。
よほど橘の言葉が衝撃的だったのだろうか、珍しいことに――本当に珍しいことに――奏一郎はそのまま、固まってしまっていた。瞬きすらも忘れてしまったのか――端麗な容姿も相まって、まるで人形と対峙しているような気分にさえ陥る。
「お……おい、奏一郎」
たまらず、名前を呼ぶ。橘の声に応えるかのように、微動だにしなかった瞼が二、三回と瞬いた。そうして、徐々に弛緩していく彼の背。俯いた顔――それでも、苦々しげな笑みを浮かべていることだけはわかる。
「……たちのきくん」
「何だ?」
いつの間にか緊張していたらしいことに、橘は己の反応の早さに思い知らされた。それすらも見透かしているかのように、奏一郎はくすくすと笑いながら、同時に言葉を零していく。
「きっと、君だからさよは話したんだろうね」
予想外の、そして話の流れとは脱線した台詞に、橘は不意を突かれてしまった。突然に、こいつは何を言い出すのだろうか、と。
「さよは僕に話せないことができたらきっと、君に話すんだろうなあ」
「……おい、何の話だ?」
橘は困惑した。まったくもって、わけがわからない。どうしてこんな話になった。自分が混乱しているのか、それとも、奏一郎の方が混乱しているのだろうか、と。




