第十三章:のぞむこと ―睦月― 其の参
そんな殺伐とした雰囲気も単純なことに、美味しいものを口に含んでしまえばある程度は緩和されるもので。いつの間にか場は和気藹々とした空気に変わっていた。
お節を口にした橘は素直に美味いと一言だけ言い、口数は少ないながらもお節に舌鼓を打っているようだ。桐谷はといえば予想通りと言うべきか、栗きんとんと黒豆をぱくぱくと消費していた。が、奏一郎の言を気にしてか、酢蓮や伊達巻にもちゃんと手をつけている。小夜子もお節作りに少しだけだが参加したので、二人が満足げに食べてくれる姿には嬉しくさせるものがあった。
小皿に乗せた昆布巻きを咀嚼すると、昆布と鮭の程よい甘さとしょっぱさが口に広がる。人によって好みもあるから、と鰊を巻いたものも奏一郎は作っていたのだが、小夜子はどちらかというと鮭の方が好みだな、と思いながら頬を綻ばせた。
「それにしても。呼び立てておいてこんなことを言うのも変な話だが、二人は今日、用事は無かったのか? 里帰りとか」
奏一郎がそう問うと、「んーん」と、桐谷が首を横に振る。橘も同様だ。
「俺んちは親父と二人で実家住まいだし、親父んとこの親族とは疎遠だし……」
言い終わりに、まるで口癖のように「んまい」と栗きんとんを褒める桐谷に、奏一郎も笑みを返した。
「俺は……遠方にあるから、なかなか、な。正月休みだけじゃ時間が足りない」
橘の答えに、小夜子の胸がきゅっと狭くなる。恐らく彼の実家というのは、彼の母が亡くなった際にその後の援助をしてくれたという叔父夫婦の家を指すのだろうと思ったのだ。義理堅い彼のこと、本来ならば毎年挨拶に行きたいだろうに。
ぱっと、思い出したように小夜子は顔を上げて桐谷に向き直る。
「あの、そういえば静音ちゃんはどうしているんですか? お正月の予定、聞きそびれちゃって」
話を転換させたかったのもそうだが、これを訊きたかったのも本当だ。静音とはクリスマスパーティ兼文化祭の打ち上げにて別れて以来、連絡こそ取っても直接会えていないのだ。
「あー、静音ね……。毎年恒例で母方の実家に行ってるよ~。たくさんお餅食べてくるって言ってた……羨ましい限りです……」
桐谷が穏やかな表情でそう答える。苗字が違う、ということはやはり二人の両親は離婚しているのだろうと小夜子は思っていたのだが、それでも兄妹仲は良好なようだ。文化祭での二人のじゃれ合いも、見ていて微笑ましいものであった。
すると、奏一郎が口を開く。それに反応を示すのは、橘と桐谷だ。
「おや、お餅なら、榎本さんからたくさん分けてもらったぞ。二人共、食べていくか?」
「いや、さすがに悪いだろう」
「食べていきます、いただきます」
ここまで正反対に意見が分かれることって親友同士であるのだろうか――。小夜子はそう思ったが、二人の“らしい”回答に笑みを隠せそうにない。
「せっかくめでたいお正月なんだし、気にすることないぞ。食べていくといいよ、たちのきくんも。さて、どうやって食べようか?」
まずは桐谷にそう問う奏一郎。問われた方の褐色の目が、再びきらきらと輝き始めた。
「磯辺焼き……。磯辺焼きがいい……」
「……俺もそれでいい」
子猫をケージ越しに見つめながら、諦めたようにそう呟くのは橘だ。
餅があまり好きではないのかと思う小夜子だったが、恐らくそうではないのだろうな、と。そして、どこまでも優しい人だ、とも思った。
「うーん、磯辺焼きか……。申し訳ないんだが、海苔をちょうど切らしているんだ」
橘の態度に気づいたのか否か、奏一郎の表情を見るだけでは推し量ることはできなかった。彼は桐谷へ向けて、困ったような笑みを浮かべていたから。
「あ、それなら私が買ってきますよ!」
ほうじ茶を飲み込みそう言うと、小夜子は颯爽と立ち上がった。と、同時に立ち上がる一つの影。
「俺も行くー……」
そう言ったのは――桐谷だ。普段の緩慢な所作からは想像もできないほどの素早い動きに、小夜子は一瞬呆気にとられてしまう。
「いえ、お客様ですし、桐谷先輩はゆっくり……」
「女の子一人、お正月の朝に歩かせるわけにはいかないのー……」
酔っぱらいが彷徨いてるかもしれないしー、と言いながらぶんぶん、と首を横に振る彼。子供っぽい仕草と口調であるはずなのに、その紳士的な台詞には思わず、小夜子も頬が赤くなる。
「というわけで。さよさよ、お買い物デートしよー?」
お買い物デート、とはまた聞こえが良い。が、買うものは海苔である。
* * *
学校が始まればお弁当用におにぎりを持たされるので、と期間限定で枚数増量中の海苔を選び、レジに並ぶ小夜子。ところが、自分の我侭だから、ということで会計は桐谷が自ら名乗り出たのだった。お客様に対して申し訳ないと口にする小夜子だったが、
「心屋さんにはいつもお世話になってるからねー……」
彼のこの一言には、開いた口も閉じざるを得なかった。
スーパーの自動ドアから一歩足を踏み出せば、後ろから追い越してきた桐谷が、さっとレジ袋を小夜子から受け取る。動きに淀みは見られない。慣れた手つきだ。
「女の子に荷物を持たせるわけにいかないの……」
「……えーっと……ありがとうございます」
が、中身は海苔である。お得な三十七枚入りだが、それでもやはり海苔である。重いはずがない。
重くはないはずだ、が、代金を払わせてしまった挙句、荷物を持たせてしまっていることは事実だ。もやもやした心地に、小夜子は自然と声を出せずにいる。桐谷もまた、多弁な方ではない。必然的に、お正月に似つかわしい静かな空気がそこには出来上がっていた。
北風に冷やされた、それでいて陽光に温められたようなぼんやりとした温もりをはらんだ空気の中、雪を踏みしめる二人分の足音のみが、鼓膜を占領していた。
「ねー、さよさよ」
「あ、はい」
先に静寂を破ったのは桐谷だ。
「ちょっとさ、寄り道してってもおーけぃですかね?」
「は、はい、お付き合いします!」
二つ返事で了承すると、ふわりと微笑む彼。無表情が常の彼が見せる微々たる変化には、小夜子も思わず心臓をどきりとさせられてしまう。
と、その時。唐突に足を止める彼。
「じゃ、この公園に寄り道ってことで……」
そう言うと路考茶の髪はふわふわと風に躍りながら、雪で埋め尽くされた公園の中に入っていく。
彼の背中を追いながら、小夜子はすっかり真っ白に染め上げられた周囲に視線を配る。そして、遠い季節に想いを馳せる。自分は、この公園に来たことがあるな、と。暑い、暑い、あの夏の日に。
「クレープ……食べる?」
「へ?」
はっと意識を眼前に戻すと、いつの間にか目の前には軽トラックが鎮座していた。しかも街中でよく見るそれではなく、ピンクや黄色などのカラフルな色で装飾された、何とも可愛らしい軽トラック――これまたカラフルな色彩の看板には、「クレープ」の文字が。真っ白な銀世界の中、この可愛らしい煌びやかな色合いは目をちかちかとせさせてくれる。
「俺、クレープ好きなのね。付き合ってくれたら嬉しい」
「い、いいです、けど」
「ん、あんがと。俺のオススメはホットカスタードアップルパイ……そして白玉抹茶小豆パフェです」
クレープを作っているのは四、五十代と見られる女性だ。桐谷とは顔馴染みなのだろう、「あんた、本当にそれ好きだね~」と笑みをこぼしている。お正月であるにもかかわらず、しかもこんな人気のない公園でクレープを作っているなんて、と小夜子は目を丸くしてしまう。
「えっと。では、ホットカスタードアップルパイを」
「ん。じゃあ俺は白玉抹茶で」
「はいよ。ちょっと待っててね~」
クレープの完成を、今か今かと桐谷はうずうずしている。もしや、彼が自分と一緒に買い物に出たのは、単にクレープが食べたくなっただけなのではないか……と、邪推してしまうほどだ。
「はい、お待ち遠様」
ポケットに手をつっこみ、小銭とクレープを交換する桐谷。彼から手渡されたクレープは、毛糸の手袋越しにでもわかるほどに名前の通り温かく、少し熱く感じるくらいだった。
「ありがとうございます」
「んーん、いいの。ベンチに座って食べよー?」
手招きに導かれるままにベンチに座ると、その右隣に桐谷も続く。目の前のクレープは湯気をも発していた。鼻腔を擽るほんの少しのシナモンと、熱せられた林檎の甘い香りに、デザートは別腹、なんて言葉を胃が覚え始める。
「あったかいうちに食べなー……?」
「はい、いただきますっ」
元気よくそう答え、口を開いた、と同時に。
「さよさよ。きょーやにちゅーされたって本当?」
その口が、クレープを食むことはなく。丸くなった目が右隣を見据える。
「た……橘さんから聞いたんですか?」
「あー……、うんとね。きょーやは名前伏せてたんだけど。話の流れでわかっちゃったっていうか」
「そ、そう、ですか……」
目の前のクレープに視線を落としつつ、小夜子は頬が紅潮したのを感じた。そこではっと思い出し、急いで桐谷に向き直る。
「あ、あの! 一口に……ち、ちゅー……と、言っても! く、唇にでは、なく! おでこに、額に、ですからね!?」
「え? あ、そうなん? 俺、てっきりきょーやは口にしちゃったのかと思ってたわー……」
「そ……っ! そんなことあるわけないじゃないですかあ!」




