第十三章:のぞむこと ―睦月― 其の壱
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僕には為すべきことがある。為さねばならないことがある。
それは誰かに定められたことだけれど、僕の決めたことでもある。
それが、それだけが、僕がここにいる理由。
それだけだった、はずなのにな。
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ふと仰いでみれば、雲一つない青空に太陽が燦々と顔を出している。雪を踏みしめてみても、それほど深くに靴が埋まることもない。雪に反射した陽光が目に飛び込んでくるのはあまり快い気はしないが、冬の朝に見られる独特の澄んだ空気が鼻腔を通じて体中を駆け巡る、そんな感覚は桐谷にとっては物珍しく、そして楽しく感じられるのだった。
「桐谷。お前は俺を、ロリコンだと思うか?」
「…………」
傍らの親友のこの一言さえ無ければ、清々しい朝である、と心中で締めくくることもできたに違いない。傍らの親友に隠れて、桐谷は肩を落とした。
ざくり、ざくりと繰り返される雪の鳴き声。できることならばその雑音に邪魔され、自分は先の問いを聞き間違えたのだろうと桐谷は思っていたかった。が、そんな器用な耳は持っていないことも彼は自覚している。よって結論づけるならば、先の問いは聞き間違いではない、ということだ。
「……えーっと、そうだな……」
一瞬の逡巡の後に桐谷が胸ポケットから取り出したのは、携帯電話だ。
「おまわりさんは一一〇番だったかな……」
震える指が、“一”を押し始める。
「通報するなぁぁぁぁ!」
一人の男の悲しい叫びが、街中に木霊した瞬間だった。
* * *
「……どうしたのきょーや。どっかの幼稚園児とお話でもしたの? ふわふわのスカートから出てくるちっちゃなおみ足を『可愛いなぁ』とでも思っちゃったの? それでこちらに向けられる純真無垢&無邪気な笑顔に心を痛めちゃったの? それとももう既に手を出しちゃっ」
「やめろぉぉそれ以上言うなぁぁ! それと断じて違う! 違うからな!」
先の問い一つで過多な妄想を繰り広げた桐谷に対し、橘は彼の口を塞がんとする勢いでツッコミを入れた。が、そんな親友よりも己の方が色々と問題だ――。その事実に、現実に、橘は頭を抱えた。
「俺は……俺は付き合ってもいない相手にあんな……あんなことを……!」
そう、付き合ってもいない相手に、橘はキスをしたのだった。唇にではなく額だったけれども。額だった、けれども。相手の同意を得ずにしてしまった、この点が彼を苦しめている。そのうえ、相手は十も年の離れた女子高生だ。それだけでなく、熱のせいで記憶も朧げだなんて最低の極みだと彼は思う。熱で朦朧としていたせいで、当時の己が何を思ってそんなことをしたのか、すら思い出せないのだ。
とりあえず通報するのは止めてくれたらしい桐谷だが、なおも容赦ない追及は続く。
「……なに? まさか風邪ひいて看病してもらったお礼に家まで送るとか言っておきながら、付き合ってもいない女子高生に無理矢理ちゅーしちゃったとかそんな感じ?」
「くっそ……! 悲しいことに概ね正解だ! エスパーか何かかお前は!?」
いやなんとなく勘で、と首を横に振る親友に、橘はツッこむのも億劫になってきた。
「きょーやったら大胆だねー……俺だったらそんなことできない。いや、しないけど」
「俺だって風邪をひいてなかったらそんなことしないぞ!」
「うん、まあ、そうだろうね。きょーや、真面目だし。真面目に眼鏡かけてみました、みたいな人だし」
そこで、おや? と桐谷は首を傾げた。
「……言い方から察するに、きょーや。もしやその時のこと覚えてないとか……?」
そして痛いところを突いてくる。自然、肩をびくつかせてしまう。この反応だけでも、ぼーっとしているようでいて実は聡い桐谷には全てを悟られてしまっただろう。読み通り、ふう、と一つ息を吐いて、彼はそのまま言葉を放ち始める。
「……人間って、“初めて”って忘れられないものだよね、きょーや」
「……だから何だ」
「いや、もし初めてだとしたら。その女子高生はその時のこと、一生忘れられないんだろうなと思って」
あ、きょーやは忘れてんだっけ、と――とどめを刺してきた。もはや橘は、自力で歩くことすら難しくなっていた。
記憶は朧げではあれど思い出そうとすれば、それは不可能ではないのだ。夢ではないと断言できるほどに。何故なら、記憶にある視界は決してクリアなものではないが、覚束無い己の足の感覚も、踏みしめた柔らかな新雪の感触も覚えているからだ。他にも、小夜子が浮かべていた少し寂しそうな笑顔だとか。こぼされたか細い声だとか、その言葉だとかも。
――奏一郎さんの、受け売りですけどね……――
それが最後の会話だったように橘は思う。その言葉を聞いて、何を己が思ったのかそれは定かではないが――彼女の額に、唇を押し付けたのだ。ちなみにこれも夢じゃないと断言できる。口づけた瞬間、やや短くなった彼女の髪から覚えのない香りがしたのだから。遠い意識の中、好きな香りだと思ったのも覚えている――。
「っダメだ! こんなこと考えるなんて……やっぱり俺は変態だ!」
「ちょ……びっくりした。元旦の朝っぱらからそんなこと大声で言わんといて……」
ご近所さんに聞かれたらなんて思われるか、と桐谷はこぼす。先の橘の叫びに、木々の鳥たちが一斉に散っていったのも事実だ。叫んでしまってはいつ誰に聞かれようと不思議ではないだろう。
「うーん……変態とかロリコンとか、そういう名称は置いとくとして、さぁ。きょーやはその子のことが好きなんだよね……?」
「……え?」
桐谷のその問いに、橘も驚愕を隠せない。きっと己の目は今、世界中にある球体の何よりも丸い形をしているに違いないと確信できるほどに。
「いくら意識が朦朧としてたからってさぁ、しないでしょ、ちゅーなんて……。相手のこと、好きだって思わない限り」
「そ、そりゃそうだろうが……」
「っていうか、そうじゃなきゃもっと最低じゃない? 好きでもない女子高生にちゅーするとか……された本人からしたらさ。連行されてもおかしくないレベルだと思うんだけど……」
桐谷の言い分に、言われてみればそれもそうだ、と橘は思う。ということは、つまり――。
「……桐谷、悪い。俺はもう、帰る」
踵を返す橘の腕を、桐谷が後ろ手に掴む。相変わらずの馬鹿力だ。前に進めない。
「頼む、この先は一人で行ってくれ! 俺はどんな顔で彼女に会えばいいのかいよいよわからなくなってきた!」
「うん、何で?」
「もしあの日のことを追及されでもしたら、何て返せばいいかわからないんだ!」
振り返れば、桐谷は生温かい目で橘を見つめていた。そこに映っていたのは呆れの色、そして少しの、同情の色。
「……きょーやってさー。可哀想なくらい正直だよね……」
そうして、言うのだ。その女子高生って、さよさよでしょ、と。
* * *
朝の九時をほんの少し過ぎた頃。眠たい瞼を押さえながら、小夜子は心屋の店先にいた。本日休業と書かれた看板に、ありふれた新年の挨拶の書かれた紙を貼り付けているのだ。
「……『新年明けましておめでとうございます。今年も心屋をよろしくお願い申し上げます。』……か」
読み上げると、どこかおかしく感じてしまうから不思議だ。と言うのも、心屋には“客”が来ないからだ。ここでいう“客”とは、金品のやり取りをするような、という意味だが。
奏一郎はここに来る“お客様”を選んでいる、という話は以前、とーすいから聞かされたことではあった。心屋の商品は売り物ではなく、“お客様”から心を貰うための手段として用いられているということも。しかしそうなると、奏一郎が一体どうやって生活費を遣り繰りしているのかわからなくなる。別段、生活に困っているわけではなさそうであるから、なおのこと。
「……橘さんたち、遅いなぁ……」
特に枯葉が落ちていたり、ゴミが散乱したりしているわけでもないが、手持ち無沙汰な小夜子は暇つぶしとばかりに箒を手に、歩道を掃き始める。と言っても雪の無い箇所しか掃くことはできないので、その空間もだいぶ限られてしまっているのだが。
「……あ、そうだ!」
箒から雪掻き用のスコップに持ち替えて、歩道に溜まった雪を持ち上げると、小夜子は道端にそれを投げ入れた。凍りかけている雪はその固さも質量も新雪のそれの比ではないのだが、それでも掬っては投げ、掬っては投げを繰り返す。徐々に掌にひりひりとした痛みを覚え始めても、隠れていたアスファルトを見つけてしまっては、どうにも止まりそうになかった。
すると、その時。
「さよさよ~……」
毎度のことながら緩慢な桐谷の声を、小夜子の耳が捉えた。同時に、人二人分の足音も、だ。




