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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十二と半分の章:しまうもの ―大晦日― 〈後・弐〉

「文化祭の、時は……えっと。色々ありました、ね」

「あはは、うん、そうだなぁ」

 どちらかというと奏一郎のために言葉を濁したつもりだったのだが、当の彼は何事もなかったかのように笑っている。余裕すら感じられる笑み。やはりこういうところが、彼を“人間らしく”させないのだと小夜子は思う。


 文化祭の一件を機に、奏一郎が人間ではないという事実――それを、小夜子は真正面から向き合わなくてはいけなくなった。だがそれは、あまりにも難しいことだった。なぜ、何が難しいって、向き合ってそれでもやはり不可能だったその時のことを考えてしまって――だが、それは奏一郎も同じらしかった。

「臆病だったなぁ、お互い」

「えへへ、そうですね」


 つい一週間前のことなのに、こうして笑い話にできてしまう。あの時に抱いた焦燥も、恐怖も、もう既に懐かしい気分すらする。

 心屋へ来て、約四ヶ月。食事も、睡眠時間も、高校生活も、友達も、習慣も、生活リズムも、とにかくすべてが変わっていった。そして、心も。初めて知った、気持ちがあった。


 静音の話を聞いてから、ずっと憧れていた気持ち。自分にはわからなかった、想い。

 とーすいは、かつて言っていた。「知ってしまったら知らなかった頃には、戻れない」のだと。その通りだと、小夜子は思う。もう戻れない。無かったことにはできないし、また、無かったことにはしたくないと思う、この気持ち。自覚する前は煩わしく感じていた心臓の鼓動も、今となってはそれも面映く、そして心地良い。


「ねえ、さよ」

「は、はい!」

 柔らかく微笑む奏一郎が、自分の名を呼ぶ。それだけで、どうしてこんなに心臓が煩くなるのか――もう、知ってしまっているけれど。

「人間はね、忘れていく生き物で。思い出は、薄れていくものだから」

 当の彼が、寂しそうに目を細めるから――鼓動を早めた心臓も、嫌な音を響かせ始める。

「だから今話したことも、さよは忘れてしまうのかもしれない」

「…………」

 小夜子は、目を丸くした。奏一郎がまるで、“今ここで話したこと”すらも、いつか忘れてしまうかもしれないと、言っているような気がして。


「……きっと、さよもそれをどこかでわかっているんだよ」

 だから焦るんだよ、寂しいんだよ、と奏一郎は続けた。

「もう二度と、思い出さないかもしれないから。楽しかったこと、苦しかったこと。嬉しかったこと、悲しかったこと。いろんなことがあったなぁって、思いながら、ね」



 そうやって出来事を思い出にして。胸に仕舞って、“過去”にして。さよならをしようとしているんだよ。



 無音の世界だ。いつの間にやら、煩かった心臓も落ち着きを取り戻している。いや、静かに、ざわついているのか。


 ――ああ、まただ。この感じ……。


 このざわめきには、覚えがある――小夜子は思い出していた。学校の三者面談の帰りのことを。

 人工的なオレンジの光に照らされて、二人は帰路に就いていた。日は既に傾いて、どこへやらその光を届けんと、視界から消え失せようとしていた時頃だ。

 腫れぼったい目に、止まり始めた嗚咽と終わりの見えないしゃっくり地獄。そんな小夜子の気を紛らそうとしてくれたのか、色んな話を奏一郎はしてくれ――その中で、言ったのだ。


 ――さよも三年生になって、いろんな学校を見学して、どこの学校に行くかを決めて、たくさん……たくさん、勉強して。……受験して、合格して。たくさん、いろんなことをそこで学んで、友達も、たくさんできて。いろんなこと、経験して……。そうして……そうやって、大人になっていくんだね――


 彼の、その何気ない言葉を――そう、忘れてしまっていた。思い出したくなかった。考えたくなかったのだ。何故なら彼の声には、悲哀が混じっていたから。彼が思う小夜子の未来に、彼の姿が全く、存在していなかったから。


「私、は」

 気づけば、唇は開かれていた。言葉を、紡いでしまっていた。

「忘れてしまうかも、しれないけど。それもどうしようもないことなのかも、しれないけど」

 視界が揺れる。目が泳いでしまっているのかもしれない。時を同じくして、心臓も揺れているのを小夜子は自覚していた。

「心屋に来て、楽しかったことも……辛かったことも。こうして、今、奏一郎さんとお話していることも。忘れたくなんか、ありません……」

 唇が震えるのも、それに連なって声が震えるのも、自覚していた。けれども、奏一郎の耳には届いただろう。届きますようにと、小夜子は願った。


「……うーん……」

 天井を見上げる彼。考え事をするときの、いつもの癖だ。やがて、小夜子に再び向けられるのは、温かな眼差し。碧い目は、乾いていても潤いがなくても、濁りがなくて綺麗だ。いつだって、そうだ。

「そうだなぁ。遠い未来でも……たくさん覚えてくれていたら、嬉しいなぁ」


 そんな、寂しいことを奏一郎が言うから――小夜子は、すっかり忘れてしまった。背後に覚えていたあの、妙な感覚を。いや、もしかしたら。もう既に、ずっと前に、小夜子の前から姿を消していたのかもしれなかった。


* * *


 すっかり夜も更け、静かな夜にさらに、侘しい空気が漂う。閉め切っているはずの心屋にも、どこからかその空気は入り込んで――小夜子の心を、占め始める。大晦日って、こんなにも切ない気持ちになるものだったろうか。そんなことを、思いながら。


「もうすぐで年明けだねぇ」

 奏一郎が、お盆を抱えて台所から現れた。炬燵の上に並べられる、二つの椀。中には、奏一郎のお手製のお蕎麦と、汁の間を刻まれた玉葱、ワカメとなめこが漂っている。小皿には薬味として、ネギが別に分けられていた。

「お好みで七味をどうぞ」

「はい!」

 七味をある程度入れて、それらが汁の表面を泳ぐのを見届けてから、小夜子は自身が空腹だったことに気づかされた。また胃が悲鳴を上げないでよかった、と密かに胸を撫で下ろす。

 手を合わせ、お互いに「いただきます」を口にする。いつもの習慣のはずなのに、何故かこそばゆく感じてしまうから不思議だ。眠気が夕飯時の比ではないせいもあろうが。


 一口、先に汁をいただくことにする。温かなそれが口内に浸透していくと、鰹節の出汁がよく利いていて、喉に流し込めばほう、と思わず息を吐いてしまう。胃袋も喜んでいるように小夜子は感じた。

「あの、奏一郎さん。蕎麦の前に汁が既に美味しいのですがどうすればいいでしょうか」

「ん? おかわりもあるからたくさん食べていいんだよ?」

「ダメです、太っちゃいます!」

「……さよは痩せ過ぎだと思うんだけどなぁ」

 もう少しふっくらして丁度良いくらいなのに、と奏一郎は付け足して蕎麦をすすった。その緩慢にして上品な所作に、小夜子はほんの少しの違和感を覚える。思い返せば、今日の奏一郎は終始“いつも通り”だった。いつも通りにゆったりとしていて――そう、(せわ)しくないのだ、全くと言っていいほどに。夕焼けに見た雑踏とは違う。全く、違うのだ。


「……奏一郎さんは、もう、お別れを済ませたってことですか?」

「ん? 何のことかな?」

 丸くなった碧い目がこちらを見据える。どうやら本当に、小夜子の発言の真意が汲み取れないらしかった。

「……いいえ、何でもないです」

「えー、何ー。教えてよー」

 その珍しい反応に、小夜子は蕎麦をすすることで笑みを隠す。

「たまには奏一郎さんも、“意味がわからない!”って戸惑えばいいんですっ」

「えー? さよはケチだなぁ……」

 困ったように、目尻にほんの少し皺を寄せる奏一郎。その表情を目にした瞬間――やはり彼が、少しだけ幼い子供のように見えてしまって。彼のことを、ほんの少しだけ、抱きしめてしまいたくなってしまった。けれど、それはまだ秘密だ。誰にも言わない、自分だけの、自分しか知らない、秘密の気持ちだ。


 その時。鈍重な、それでいて高らかな音が微かに耳元を掠めた。小夜子にとってはテレビ越しにしか聞いたことのない、その音。

「これってもしかして……除夜の鐘、ですか?」

「ああ、隣の町のお寺の、だね。ここまで聴こえるんだよ」

「初めて聴きました……」

 耳に意識を集中させつつ、蕎麦をすする。彼の作ったそれはやはり美味しくて、先ほど自分で「ダメ」と言っておきながら、つい、おかわりをしてしまいそうで怖い。

 蕎麦を最後まで食べ切り、汁の一滴まで飲み干すと、小夜子はほう、と息をつく。満たされた胃袋も実に喜んでいる心地がした。


「ごちそうさまでした」

 これまた、二人で声を合わせて挨拶を交わす。

「おかわりはよかったのか?」

「はい。もうお腹いっぱいですから。でも、すっごく美味しかったです!」

「そうか、それはよかった」

 そして、その時。除夜の鐘の音が、まるで気づかれないようにしているかのように、静かに消えていったのがわかった。

「……そういえば。これはもしかして、明けたってことなんでしょうか」

「明けたってことなんだろうなぁ」

「……な、なにやらぐだついてしまいましたね」

「まあ、気にするほどでもないでしょう」

 互いにのんびりと言い合って。それから、視線がぶつかって。同時に、二人は笑みを浮かべた。


「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします!」


 軽く会釈をしつつ、小夜子は思う。

 もう、思い出さないこともあるのだろうか、と。昨年起きた出来事を、忘れてしまうこともあるのか――あるいは、既に忘却の彼方に送り込んでしまったものもあったかもしれない。忘れたくなど、ないのに。


 だがもし、本当にそうだとしたら。


 こうして一緒の炬燵に入って、言葉を交わして。忘れていたことを、思い出して。思い出を共有していけたらいいのに、と。今年の大晦日も、そうしてできるならば、その先もずっと。


 だが、この気持ちはまだ、秘密だから。


「さて、もう寝るとしようか。朝にはたちのきくんと桐谷くんを招待してるからな」

「はい! 奏一郎さんのお節も楽しみです!」



 だから、今はまだ。そっと胸に仕舞っておくのだ。

年も(しま)いとなりまして。

大切な思い出も、秘密の気持ちも。

そっと胸に、仕舞(しま)いまして。


第十二と半分の章:しまうもの 終


次章は第十三章:のぞむこと

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