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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十二と半分の章:しまうもの ―大晦日― 〈後・壱〉

「あの、ですね、奏一郎さん」

「はい、なんでしょう」

 小夜子は箸を置くと、奏一郎に背中を向ける。

「……何と言うか、妙な感覚がするんです。背中に、何かいる、みたいな。急かされているような感じがするんです。一度気になると、どうしても意識してしまって……それで落ち着かなくて」

 ここに、何かいるんでしょうか、と背を向けたまま問うと、背中越しに見た奏一郎の目は、さらに丸みを帯びていた。やはり変な質問だったかと、小夜子が羞恥に頬を染めんとしていた時、

「あれ? なんだ、そんなことか」

 一人、奏一郎が納得しているものだから。小夜子の口はあんぐりとしてしまう。

「え……え? わかるんですか?」

「うん。わかるよ」

 さも当然と言わんばかりに、奏一郎は味噌のに入った椀を口に運ぶ。自身が納得すればそれで終わり、食事は続行のようである。


「な、なんなんですか、この妙な感覚は?」

 自分一人だけ納得してしまうなんて、狡いではないか。小夜子が体を向き直せば、奏一郎はふわりと微笑を浮かべていた。

「まあまあ、今年が終わるまでにまだ時間もあるんだから、ゆっくりしよう、ね?」

 早く答えを知りたい小夜子が続きを促そうと口を開くも、

「ほーら。鰤大根が冷たくなってしまうぞー」

 作った本人にそう言われては、箸を止めるわけにもいかなくなる。納得がいかないが、放置してしまえば温かいものが次第に冷えていくのは必然。そして、鰤大根は温かいほうが美味しく感じられるのもまた事実。


「あ、後で絶対教えてもらいますからね!」

 少し悔しい心持ちで、それでもやはり口に含んだ大根は温かく、美味しい。

「はいはい。お風呂の準備はできてるからねー」

 奏一郎はそう言って、柔らかく微笑む。とてもありがたいことだ。買い物に出かけている間に、掃除だけでなく風呂の準備までしてくれていたとは。だが、これはつまり風呂に入れということだ。それはつまり、教えてもらえる機会がまた延長されるということだ。彼もわかっているのだろう。わかっているからこそ、笑みを浮かべているのだ。この、悪戯好きな子供のような、笑みを。


 ――本当に、奏一郎さんは狡い人だ。


 そう言いたくとも、口の中に物を含んでいては声を出すことも(はばか)られる。それすらもわかっているのだとしたら、いよいよ“狡い”どころでは済まされなくなってくると小夜子は思うのだが。そして予想通り、小夜子が次に口を開く頃には、奏一郎は自身の使った食器を片付けていて、

「食べ終わったらお風呂に入っておいで、さよ」

 予想通りの台詞と笑みを、小夜子に向けるのだった。


* * * * *


 心屋に来た初日には様々なカルチャーショックを受けたものだが、その中でも最たるものがこの風呂場だった。五右衛門風呂だなんて耳にしたことがあるくらいで、実際に目にしたのはその時が初めてだったのだ。踏み板を沈ませずにそのまま素足で入浴し、足裏に痛い思いをしたのも今となっては良い思い出である。

「ふう……」

 天井に向かっていく湯気を見送る。体を包む熱は、徐々に冷えた体を温めていった。背中に在るのは木の感触。温かみのあるそれに背中を預けると、何とも言えない解放感を覚える。小夜子はいつの間にか、見たこともない五右衛門風呂に慣れるどころか、一般家庭にあるバスタブよりも好きだと思うようになっていたのだった。


 しかし、そんな大好きな風呂の時間も、どこか煩わしく感じてしまう。背中に覚える感覚は木目だけ。それだけのはずなのに、やはりあの感覚がしつこく背中に張り付いているように思えてならない。早く知りたい。この焦燥の正体を。

「……出よう」

 もう、体は充分に温まったはずだ。


* * *


「さよ、随分早かったね。ちゃんと温まったのか?」

 目を丸くさせて、ややもすると細められる碧い目は、どこか心配げに小夜子を見つめてくる。それだけ言うと台所にいる彼は、俎板の上にあるネギに視線を戻した。

「ちゃんと温まらないと風邪をひいてしまうよ? ただでさえ今夜は冷え込むからな」

「大丈夫ですっ。そんなことより、お手伝いします!」

「ああ、ありがとう。それじゃ、吹きこぼれないようにかき混ぜてくれ」

 菜箸を手に、小夜子は鍋の中をかき混ぜた。泡の浮き立つ湯の中を、蕎麦が踊っている。


「奏一郎さん。そろそろ、教えていただけませんか?」

「ん、何を?」

 小皿にネギを盛り付けると、奏一郎は俎板と包丁を洗っている。小夜子が話しかけても、その動きに淀みはない。

「この違和感の正体ですって」

 やや呆れたようにそう言うと、奏一郎はああ、とだけ返して微笑んだ。その間にも包丁の水気を拭い取って、棚の中に仕舞っている。

「それはね、さよ」

「はい」

「寂しいんだよ、今日でお別れだから」

 相変わらず、彼の所作に淀みはない。まるでそれが常識であるかのようにぽつりとこぼされた言葉は、小夜子の予想の範疇をとっくに超越しているものだった。

 寂しい。この気持ちを、彼は寂しいと言ったか。頭の中で反芻させるも、意味は明瞭には伝わってこない。一体、誰と“お別れ”するのだろうか。


 その瞬間。あわや、吹きこぼれそうになって――開きかけた口を、小夜子は閉じざるを得なくなった。


* * *


 人数分の箸を並べると、小夜子は先に腰掛けるよう促された。湯冷めしかけていた体を炬燵の中に詰め込んで、じっと体育座りで奏一郎を待つ。やがて、暖簾をくぐった彼が台所から現れた。

「まだ時間じゃないし、もうしばらくしたら年越しそばにしようか」

 時計を見れば、まだ夜の八時だ。年越しそばにありつけるのはまだまだ先のよう。奏一郎が持ってきた二つの湯呑からは、香り高い湯気が立ち上っている。


「ねえ、さよ。今年はどんな年だった? 何をした?」

「……そうですね……」

 ほうじ茶を口に含むと、小夜子は首を傾げた。

「今年のお正月は、どこにも行かなかったです。おじ……祖父母の家はずーっと遠くにあって、それで小さい頃に二回行ったきりで。だから、けっこう疎遠なんですよね」

「ほう。それじゃ、初詣なんかも行かなかったんだな」

 こくりと頷く。

「豪雪で出歩けなかったんですよ。だから今年のお正月は本当に何もせずに寝正月でした」

「なるほどなぁ」


 それだけ言うと奏一郎もほうじ茶を口に含む。ああ、続きを促されているんだな、と小夜子はなんとなくだが理解した。

「四月に、おか……母が、亡くなって」

「……いいんだよ? 『お母さん』で」

 柔らかく微笑む彼。思わずつられて、小夜子も口に笑みを湛えてしまう。

「えへへ、じゃあそうします。お母さんが亡くなってから、お父さんと二人だけの生活になって。……まあ色々と、あって」


 色々あった、というと語弊になるかもしれなかった。実際には、“ほとんど何も無かった”と言ったほうが正しいのかもしれなかった。会話も、接触も無かったのだ。お互いの空気すら――存在すらも――禁忌であるようだった。


「肺が悪いのは元々なんですけど、それからもっと悪化していって……六月の終わり頃でしょうか、父が下宿しろと言ってきたのは」

 唐突に、そして久方ぶりに父に話しかけられ、心臓が嫌な揺れ方をしたのを小夜子は思い出していた。会社から帰ってきたかと思えば、渡されたのは一枚の紙切れ。達筆な筆文字で『下宿生募集』と書かれた見出しがまず一番に目に入り、頭が混乱したのも記憶に残っている。


「『夏になったら海外で仕事をすることになったから』って、いきなり言われたんです。『そこに下宿しなさい』って、『高校もそこから通える距離のところに転入しなさい』って。下宿先を勝手に決められたうえ、転校までさせられるなんて……なんて理不尽なんだろうって、思いました」

 その時、父である徹に対して、怨恨の情をまったく抱かなかったわけではない。それでも、小夜子は彼の話を聞いてすぐに、首肯していた。もしかしたら考えるという行為を既に放棄していたのかもしれない。あるいは、父と離れられることに安堵していたか。


「前の高校にも友達はいましたし……寂しかったですが。もう、仕方ないかなって思うようになって。夏休みに入る前に、みんなとはあっさりお別れしてしまいました。そして……」


 そして、夏休み。激しい猛暑の中、小夜子は見知らぬ道を彷徨っていた。肌を焼く、刺すような日差し。照り返すアスファルト。額や首筋、衣の下、背中に流れる汗。響く蝉の声が、何十にも重なる。役に立ちそうもない地図を片手に、キャリーバッグを引きずっていた。

 視界の遥か彼方、こちらに向かって歩いてくるのは影法師。道を訊ねようと、小夜子はそれに近づいていった。


「奏一郎さんと、出会って」


 初めは、その見てくれに戸惑いを覚えずにはいられなかった。風変わりな商品が連ねられた下宿先も例外ではない。

「心屋に来た時は正直、どうしようかなと思いましたよ。だって、下宿先の管理人さんはおじいさんじゃなくてまだ若い人でしたし、生活リズムも明らかに常人とはかけ離れてますし、一部の商品は動くし喋るし……」

 そこで、奏一郎はくすくすと笑った。ちなみに今日、噂の“彼”は出てくるつもりはないらしい。

「……でも、奏一郎さんは優しかったですし、柔らかで、温かだったから。だから、ここでならうまくやっていけるとも思ったんですよ」

 初めて吐露した、正直な気持ちだ。思いのほかこそばゆくなって、ほうじ茶を急いで口に運ぶ。奏一郎はなおも、黙ったまま。その碧い目を細めるだけだ。


「……えっと。心屋の取り壊しの話なんかも、ありましたよね」

「ああ、あったなぁ」

 橘と会ったのもその時だ。当初は立場上、対立していた彼と奏一郎だが、心屋の取り壊しが中止になってから現在まで、“友達”として関係が続いているのだから人生わからない。

「思えば、橘さんとも不思議な巡りあわせですよね。あんなことがあっても、今ではお友達ですからね」

「それを言うなら、桐谷くんだってそうだろう。彼、心屋を壊そうとしていた人だしな。直接の意味で」

「ああ! そうでしたね……!」


 桐谷も、後に心屋で生まれた子猫の里親になってくれ、橘同様に奏一郎と“友達”でいるのだから、不思議な縁もあるものだと小夜子は思う。桐谷の妹である静音は、小夜子の現在の親友でもある。世間は狭い、にも程があろう。


「でも、今思い返せば良い思い出ですね。終わり良ければってやつでしょうか」

「そうだな。二人共優しくて、本当に“良い人”だしな。友達っていうのはいいものだなぁ」

「あ、それ。私もすごく思います!」


 明朗快活、という言葉がぴったりな静音。新しい高校にすんなり馴染めたのもきっと彼女のおかげだ。好きな人がいる、という彼女の恋愛話には、何度にやにやさせられたことか知れない。

 そして――芽衣とも。度重なる衝突や困難の末、やっと打ち解け合うことができた。それも、文化祭の一件があってのことだが。

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