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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十二と半分の章:しまうもの ―大晦日― 〈中〉

 障子の隙間から吹き抜ける風に、冷たさが増していく。ふとそこに視線を送れば、空は瞬く間に真っ暗闇に包まれようとしていることに気付いた。それと同時に、先ほどの妙な感覚が背中の辺りを(うごめ)き始める。何かに、急かされているような。迫られているような。どこか、その“妙な感覚”という意志を持った生物が背中に張り付いているような、決して快いとは言えない感覚。だがそれも、突然の小気味よい音に――もちろん一瞬だけだが――意識を削がれ、忘れてしまう。


「もう、マスクを外しても大丈夫だよ」

 いつの間に炬燵から抜け出していたのか、奏一郎が障子を閉めたのだ。言われた通り、マスクを外しても息苦しさは感じない。むしろ、部屋に残った微かな冷たい空気は鼻に心地良いほど。

「そろそろお夕飯にしよう?」

 そう言って振り返る穏やかな彼の表情を見れば、“妙な感覚”が薄れていくのがわかる。


「あ、マスクの跡が付いてる」

 ここ、と鼻筋を指でちょんと押されれば、もう――“妙な感覚”など、どこかへ消えたようだった。頬が熱い。冷えた空気はどこへ消えたのかと、目が独りでに泳ぎ始める。奏一郎に知られまいと、急いで顔を俯かせた。

「い、いつもより早いですねっ」

「ん? 何が?」

「ゆ、ゆゆゆ、ゆううはんです!」

 ゆううはんとは、何か。小夜子は焦ってどもってしまった自分が、傍目から見れば明らかに挙動不審であろうことにさらなる羞恥を感じていた。一方、気にも留めていない様子の奏一郎は天井を見つめ、うーん、と呟いている。考え事をするときの、彼の癖。まるでそこに適切な答えでも書いてあるのかのように、こうして天を仰ぐのだ。そうして、天井から目を離したと同時に、こちらに視線を送るのも。


「だって早めに食べておかないと、年越しそばがお腹に入らなくなっちゃうでしょう?」

「へ?」

「ああ、そうか、言っていなかったね」

 まとっているのが和服だから、だろうか。奏一郎の所作はいつも緩慢だ。今みたいに、台所に向かい冷蔵庫を開けるだけの動作にも、どこか品があるように感じられる。

 開け放たれた冷蔵庫を見れば、そこには(ざる)の上に乗せられた蕎麦が鎮座していた。一体いつの間に、と奏一郎を見上げると、嬉しそうな笑みをそこに湛えている。

「今日は大晦日だからね。すこーし夜更しになっちゃうけれど、たまには良いだろう?」

 いかにも保護者らしい台詞とは裏腹に、どうやら夜更しできることに心躍らせているらしい表情だ。

 寝室に戻るのがいつも早い彼。たまには夜更しというものをしてみたいのかもしれない。


 小夜子もまた、夜更しなんてものには元より縁が無かった。夕食を済ませ風呂から上がれば、既に奏一郎の部屋の灯りは消えているため、二階の自室に戻ってからも、夜はなるべく静かに振舞いたいと思っている。試験期間中も計画的に勉強しているため、徹夜なんてほとんどしたことはない。友人とメール、なんていかにも女子高生らしいことも、夜中に迷惑かもしれないだとか、翌朝に支障を来すだとか様々なことを考えてしまい、結局一度も実行できずにいる。とにかく、小夜子は生まれてから今日という日まで、夜更しとは縁遠い生活をしてきたのだった。それは大晦日の夜も例外ではなかった。


 だから、奏一郎から発せられる「夜更し」という単語に、少しだけどきりとしてしまう。なんだか、悪いことをしようとしているような気分になるのだ。そして、それに少しだけわくわくしてしまっている自分がいる。夜更しに慣れきってしまっている者にはわからない感覚なのかもしれないけれど。


「なんだか、悪いことしているみたいだよなぁ」

 奏一郎も、どうやら同じだったらしい。心境を包み隠さず素直に表に出してしまえば、自分もこんな表情をするに違いないと小夜子は思うから。

 大人であることは頭ではわかりきっていても、彼女にはどうも、奏一郎が子供に見えて仕方がないときがある。自分と同い年か、またはそれより下の子供に。そんな風に思わせてしまう彼を不思議な人だと思うときもあるが――時に可愛いとすら思ってしまう自分の気持ちのほうが、小夜子にはよっぽど不思議だった。


「さて。僕がご飯とお味噌汁をよそうから、さよは取り皿とおかずと……あと、お箸を運んでくれ」

「はい!」

「あ、転んでひっくり返さないようにね」

「……はい」

 台所と居間の敷居に意識を注ぎながら、ゆっくりと取り皿を運ぶ。その背後で、奏一郎が柔らかく微笑んだ気がした。確認は、できないけれど。


 時計を見れば、まだ六時を過ぎたところだ。いつもより夕食にはまだ早い時間帯なのだが、胃袋は既に声高らかに歌う準備をしている。早朝から大掃除に追われていたのだ、疲れた体は栄養を求めている。卓袱台に乗せられたおかずが、いつもより三割、四割増に輝いて見えたのはそのせいかもしれない。

「では……いただきます」

 いつも通りに、声と手を合わせる。心屋に来てから、食事というものの大切さを実感するようになったと思うのは、意識的に咀嚼を繰り返してしまうことから勘違いではないと小夜子は思う。


 茶碗に乗せられた白米はいつも通り瑞々しい光沢を放っており、湯気を立たせている味噌汁も、いつも通り鰹だしが効いていて風味が良い。鰤大根は箸で簡単に割れるほどに柔らかく煮込まれ、味もよく染みている。南瓜のサラダも口当たりは濃厚なのにさっぱりとした後味で、また食べたいと思わせられてしまう。

 こんな風に、“味わう”ことなんて以前は無かった。とりあえず食欲が満たされるのなら、それでよかった。


 ――この心境の変化は、奏一郎さんの作る食事が美味しいから……ってだけじゃないんだろうな……。


 ちらりと奏一郎のほうを見てみれば、箸使いも、お椀の持ち方も正しく。咀嚼する時も緩慢で、その口元は薄らと笑みを浮かべてすらいる。しかしこれも、いつも通りだ。

 以前、彼は言っていた。「自分の手で、生命が作り出されていく。それを、“味”という形で実感できる」と。そしてそれが、「楽しい」のだと。「畑仕事をするのが、昔からの夢だった」のだと。

 ここまで“味わう”ことを知っている者を、そしてそれを大切にしている者を小夜子は見たことがない。一種の憧れに似た想いが、彼を自然と真似させてしまっているのかもしれなかった。


「どうしたの、さよ?」

「へ?」

 ふと意識を目前に向ければ、その彼の目は小夜子をまっすぐに捉えていて、いつの間にか箸の動きも止まっている。どうやら、後半に限っては小夜子も同じだったらしいが。

「あまり口に合わなかったか?」

「い、いいえ、そんなことはないです! すっごく美味しいです、ただちょっとぼーっとしちゃっていただけで……っ」

「そう?」


 彼は知的好奇心が旺盛だ。何故、と一度考え始めれば、これだ、と答えを求めずにはいられない。そんな彼が、小首を傾げてそれで、この話を風化させてくれるはずはなかったのだ。

「今日のさよはなんだか、ずーっと上の空だな。何と言おうか、そわそわしている」

「そ、そう見えますか……?」

 図星もいいところだ。思わず奏一郎から目を逸らしてしまう。彼はと言えば迷いなく、終始こちらに視線を送っているというのに。

「何かあったのか?」

 決して、彼は無理に問い質そうとはしていない。柔和な口吻がそれを物語っている。不思議そうに丸められた目は、知りたいと訴えているけれど。小夜子は、今日の自分が上の空であることを自覚していたし、そしてその最たる原因が何なのか――“妙な感覚”であること――も理解していた。

 が、その本質的な正体を知ることは未だ叶わない。背中にぴたりと張り付いているような、不快といってもいい、この――焦燥感の、正体を。

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