第四章:こわいひと ―長月― 其の壱
自分が生まれた瞬間を、覚えている。
その時に見た色はとても鮮やかで。綺麗で。
その時にね、思ったんだ。
誓ったんだ。
僕は自分に、誓ったんだ。
ああ、僕は、絶対に────。
* * *
奏一郎は、じっと空を見ていた。ほんの少し前から太陽の光に照らされ始めた、温かみを含む雲が浮かぶ。夜の凪から明けを知らせる風の音。その音に呼応するように、畑の野菜たちはゆらゆらと輝く。
「いい、天気だな……」
そう呟けば、頭上から降ってくる声。
「奏一郎さん、おはようございまーす」
小夜子が、廊下の窓から身を乗り出していた。彼女の表情は明るく、その声にも張りがある。
「ああ、おはよう。早起きしたな」
「はい。早寝したので……」
ふと、奏一郎の抱える籠を見る小夜子。
「畑のお手伝い、しましょうか?」
奏一郎は畑を一通り眺めてから、再び彼女の方に向き直った。
「そうだな。身支度したら、降りてきてくれ」
「はーい」
そう答えると、彼女は窓から姿を消した。
* * *
部屋でパジャマを脱ぐと、汚れても目立たなそうな藍色のTシャツを段ボール箱の中から引っ張り出す。中学の修学旅行の時に買ったものだ。以来何度も着用しているため、首周りや袖はややくたびれている。
「……我ながら、色気無いなぁ」
姿見を見つつ苦笑する。ふと、壁際にハンガーで掛けられた制服を見つめる。黒いセーラー服のスカートの裾を、なんとはなしに小夜子はきゅっと掴んだ。
今日から新しい学校でのニ学期が始まる。小夜子にとっては初の登校日だ。
転入が決まった当初は、自分がうまくやっていけるのか不安だった。だが今は、少しだけ希望が持てる。きっとそれは、この新しい環境──奏一郎が与えてくれる、この環境のおかげだと小夜子は思う。
奏一郎の店──『心屋』に小夜子が下宿し始めて、今朝で早三週間が過ぎる。彼との生活には何の不満も、不安も無い。肺の病を患う小夜子にとって、空気の綺麗なこの環境はこの上なく良いもので。慣れない畑仕事も、理屈抜きに楽しくなってきていた。
それに奏一郎が言っていた、『自分で生命を創り出し、それを味という形で実感する』。その魅力に、すっかり小夜子は取り憑かれてしまっていたのだ。
一つ、不安なところを強いて挙げるとするならば、それは──奏一郎の正体だ。
心屋の商品の中には、“意志”を持っている物があるのだ。小夜子が出会ったのは、ただの水筒、ではなく、『とーすい』という名を持つ“意志”を持った水筒であった。
『奏一郎が自分を創った』と、彼は言っていた。奏一郎がいったい何者なのか、人間なのか、はたまたそれとはまた別の何かなのか──。小夜子にはわからない。しかし、
──僕は人間だよ、そういうことにしといてくれ、今は──
奏一郎は、そう言ったが。
それって、『自分は人間じゃない』と暗に言っているのではないか、と。
「ごめんくださーい!」
階下から、知らない男性の声が響く。
「はーい」
返事をしつつ、身支度を整えたのを確認すると、小夜子は胡桃色の髪を風に躍らせて階段を降りた。
店のシャッターを開けると、ヘルメットを被った郵便配達員。まだ年若い男性が爽やかな笑顔で立っていた。
「おはようございます。郵便です」
「おはようございます。配達、ご苦労様です」
手渡された茶封筒は奏一郎宛てのものだった。小夜子は振り返って、裏庭の彼に声をかける。
「奏一郎さーん。どなたからか届き物がありますよー?」
その声に、奏一郎は微笑んだ。誰からの、どのような手紙なのか、彼にはわかっていたから。
「そこに置いておいてくれ。後で読むから、たぶん。今は畑を手伝ってくれー」
「た、たぶんって……。はい、わかりましたー!」
──……いいのかな。『重要』って、判が押されてるんだけど?
あまり釈然としないのだが、郵便配達員の男性と軽く挨拶を交わすと、小夜子はその封筒を玄関先に置いた。それが、文字通り『重要』なものであるとは知らずに──。
* * *
男はその朝、いつもの時間に起床し、いつもの時間に朝食を食べ、いつもの時間に出勤した。同僚といつも通り手短に挨拶を交わし、いつもと同じ机に座った。
そして、今日の仕事は──いつもと同じではなかった。一つ溜め息を吐き、今日必要な書類をまとめ立ち上がり、職場を後にする。
いつもであれば通らない道を、男は真っ直ぐに歩いていく。暑い、暑い日。空に浮かぶ厚い雲はただゆったりと漂うばかりで、日光から、夏の暑さから守ってくれそうもない。それでも男はスーツの上着を脱いだり、ネクタイを緩めたりはしない。信条に反するし何より、気を緩めていては丸め込まれてしまう──。今日会う予定の男は、そういう男だからだ。
しばらくして男は目的地に到着した。
腕時計を見れば、予定の時間の一分前──七時五十九分だ。彼はこの後も、予定通りになるように願った。
──……それにしても、毎度思うことだが。古びれたというか、奇妙奇天烈というか、不気味かつ意味不明な店だ。
男──『橘 恭也』は強くそう思った。と同時に腕時計の長針は零を差す。
「ごめんください」
反応は無かった。しかし橘は諦めない。いる。絶対に奴はいる。そんな確信があった。
「ごめんください!」
反応は無い。
溜め息を吐いて、目線を上げる。そこには林檎大の鈴。神社よろしく、鈴を鳴らすための紐が天井からぶら下がっていた。
──……まさかとは思うが、これが呼び鈴か?
恐る恐る、紐を掴んだ瞬間──ベリッと何かが剥がれるような音がしたかと思うと、林檎大の鈴が橘の頭に綺麗に直撃した。
「だっ」
シャランシャラン……と、玲瓏たる鈴の音が店中に響く。その音に耳を澄ます余裕など無く、じんじんと痛む頭を抱えた。
「く……っ!」
「やあ、いらっしゃい」
顔を上げると、問題の人物──奏一郎が蘇芳色の着物を纏って茶の間から現れた。右手には箸、左手には茶碗がある。
「さっきからずっと聞こえていたぞ」
爽やかな笑み。何に対する笑みなのか、もしかしたら自分に対する嘲笑か、と思った橘は眉間に皺を寄せた。そしてそれを、特に隠そうともしないのだった。
「……なら何故、すぐに出なかったんです」
ずれた眼鏡を定位置に直し、溜め息混じりに問えば、
「いやぁ、だって今、食事しようと思ってたから、な?」
そう言って、両手のものを無邪気に見せてくる奏一郎。
足元に転がっていた鈴を拾い上げてから、橘は鞄から書類を取り出す。
「まあいいです。そんなことより、そちらに送付した書類には、目を通していただけましたか? 遅くとも今朝には届いているはずですが」
「ああ、あれか。読む前に捨てた」
「は?」
橘の額に青筋が入る。
──今、『捨てた』と。『捨てた』と言ったか、こいつ?
「い……今、ご自分が何を言っているかわかっているんですか?」
「うん、捨てた。だって興味無いんだもん」
あっけらかんと笑い飛ばす彼。対して、橘は自分の顔が青ざめていくことを自覚した。
──『興味』……!? 『興味無い』で片付けるつもりか!?
橘は怒りを抑えるのに必死だ。しかし、その時だ。
「奏一郎さん、今朝はご飯をどのくらい召し上がりますか?」
茶の間からこれまた無邪気にひょっこりと顔を出したのは、せいぜい十六、七の少女。それも制服姿の──。
橘は、眼前の光景に絶句した。
「奏一郎さん、お客様ですか?」
「うーん、ちょっと違うかも」
そう言って肩をすくめる奏一郎に、小夜子も首を傾げる。すると、
「……何を、考えているんです? 聖さん」
「へ?」
耳に入ってきた橘の震える声に、二人は同時に素っ頓狂な声を上げてしまう。次の瞬間には、これにはもう我慢ならんと言わんばかりに、橘は突然、大きな声で捲し立て始めた。
「これはっ! もはや犯罪だ! 二十歳を過ぎたいい大人が、健全な女子高生を家に泊めるなど……!」
一見冷静そうな橘の凄まじい気迫に、小夜子はたじろぐ。
「そ、奏一郎さん、この人誰ですかお友達ですか? そして『聖』って誰ですか」
「ああ、『聖』は僕の姓だ。教えてなかったか?」
「初めて知りましたよ……!」
奏一郎は、橘を見て微笑む。
「何やら誤解しているようだし……紹介しておこうか? 彼女は、『萩尾 小夜子』。僕の下宿生だ」
小夜子に向き直り、奏一郎は橘の肩に手を乗せる。
「そして、彼が『たちのきくん』。役所にお勤めでね。僕に、『ここから出てってくれ』って言うのがお仕事の人だよ」
「『たちのき』じゃない、『橘』だ! 何度も言っているだろう!」
小夜子は思った。
──それってもしかして『立ち退き勧告』……!? まさか、ここ無くなっちゃうの!?
あたふたし出した彼女の青い表情を見て、奏一郎はにっこり笑う。
「さよ、今朝は大盛りで頼むよ。ね?」