握り拳ひとつぶん。
いけふくろうの前で、待つ。
都内の待ち合わせ場所としては渋谷のハチ公ほど有名ではない。地上から吹き込む風が直接当たる場所で、冬の寒い時期などは人気も疎らだった。
僕はそこで父を待っていた。地元にいる父が出張で上京してくるというので、久しぶりに居酒屋で一杯やろうという約束をしていた。
上京してから、メールも電話も滅多にしなかった。面倒くさいのと、親と連絡を密にすることの気恥ずかしさが大学に入って二年経った今でも、自分の中でとぐろを巻いていた。
父は偉くて大きかった。給料を全て家に入れて、毎晩ちゃんと帰ってきた。浮気、借金、たばこ、ギャンブルといった堕落した父親像とは無縁だった。理想的な父親。だけど、幼い僕には手を伸ばしても届かないほど、彼はいつも高いところにいた。
久しぶりだな、元気だったか。父と合流して近くの居酒屋に場所を移す。そこでは調子に乗って高い酒を頼んだ。冷酒じゃなくて、『久保田』とか『八海山』とかちゃんと名前のついたやつだ。コンビニのカップ酒とは比較にならなくて、水みたいに何杯でも飲めそうだった。
頭の中をじんわりと巡る酔いは、いつのまにか僕と父を饒舌にさせた。普段なら言わないようなことも口をついた。女のことは男友達と馬鹿騒ぎしているように、立ち行かない人間関係、手からこぼれ落ちる砂のような将来の夢を必死に掴もうとしていること。
父はずっと僕にしてきたように、自分の体験や考えを交えてひとつずつアドバイスをくれた。指し示す道はいつも正しかった。この道に乗っているのは楽だ。でもいつかは降りなければいけない。犯されそうな漆黒を手探りで進んで行かなければならない。けがをしても、何かにぶつかっても自分で進む。もしかしたら二十歳になった今、その『いつか』はもう隣に来ているかもしれない。
「子牛引っ張り出したことあるか?」
話が一通り巡って間が出来たときに父が尋ねてきた。
「いや、ないけど」
「大学受験失敗して、お前の祖父ちゃんに北海道の牧場にたたき込まれたことがあってな」
初めて聞く話だ。父と話すときはいつも僕に絡めたものだった。
「そこで働き始めて早々に牧場長の奥さんが駆け落ちしちゃって、俺は牛と牧場長の子供の面倒も見ることになっちまった。朝から夜まで働かされて、契約にはない子守までやらされて、給料は吹けば飛ぶような額だった」
何かが崩れる音がした。心の中の高かった何かだ。
「ある夜に牧場長が千鳥足で部屋に飛び込んできて、朝早いのにまた呑み相手されるのかとうんざりしていたんだ。でも、どうやら様子が違った。呂律が回らない言葉を聞き取ると、牛の出産が始まっていて、子牛の頭は出ているのだが、脚が引っかかって上手く出てこれないという。酔っぱらって手元が定まらないから俺がやれっていうんだ。もう、引っ張り出すしかなかった」
琥珀色の液体を舐める。父と同じ酒を頼んだのだが、飲めたもんじゃなかった。だけど、父はゴクリと音を立ててグラスを傾けた。背伸びをして同じようにしてみたが、咽ただけだった。
「顔を出して必死に生きようとする子牛を見捨てて逃げることなんてできなかった。怖かった。膝なんて、がくがく震えた。もし、なんて仮定の言葉ばかり浮かんで何度も躊躇った。だけど、いざ覚悟を決めて手を突っ込んで引きずり出してみたら意外とあっさりだった。すっと身体の中から何かが抜けていった気がした。やっちまえば案外あっさり行くんだなって」
父がなんでそんな話をしたのかは分からなかった。将来に迷う自分への道標か、酔っ払いの説教だったのかもしれない。
帰り道、終電を急ぐ足に揉まれながら歩いていると、ほろ酔いかげんの父が声を上げた。
「身長測ろう。身長、身長」
会うたびに、子供の頃からやっていた習慣だった。池袋の隅で大人が背比べなんてやるのは恥ずかしかったが、酒で気が大きくなっていたのも手伝ってか、父と背を重ねた。
やっぱり勝てなかった。成長期も終わり、止まった僕の頭は握り拳ひとつ届かなかった。したり顔の父に小馬鹿にされる。身長も、経験も、財力も、届かない。高さはもう少し時間がかかるかもしれないけれど、なんだか今回、距離だけはすこしだけ近くなった気がした。
そう、握り拳ひとつぶんくらい。