額縁の中の告白
雨は止む気配を見せず、山荘の窓ガラスを打ち叩き続けていた。
標高一千メートルを超える峠道は土砂崩れで塞がれ、外界との連絡手段である電話線も断絶している。この「時計荘」と呼ばれる古い洋館に残されたのは、館の主人である老画家の遺族たちと、訪問者である僕――警察を辞めたばかりの元刑事、神坂の六人だけだった。
「……父は、この部屋で殺されたのです」
長男の修一郎が、深く刻まれた眉間のシワを指でさすりながら言った。
彼らが僕をこの館に招いたのは、一週間前に起きた絵画修復家・黒田重蔵の不審死について、警察とは別の視点で調べてほしいという依頼からだった。
事件が起きたのは、館の最上階にある二階のアトリエ。
黒田は胸にナイフを刺された状態で発見された。
アトリエは完全な密室だった。
重厚なオーク材のドアは内側から鍵がかかっており、唯一の窓も頑丈なクレセント錠で施錠されていた。鍵は部屋の中、黒田のポケットの中から発見されている。
警察は当初、自殺の可能性を疑った。だが、刺し傷の角度や深さ、そして何より部屋の不自然な状況から、遺族は他殺を確信していた。
「不自然な状況……ですか?」
僕が尋ねると、修一郎は重い脚取りでアトリエのドアを開けた。
室内は、一週間前の事件当時のまま保存されていた。
油絵の具の独特な匂いが立ち込める広い室内。中央には大きなキャンバスが置かれている。
だが、僕の目を引いたのは、部屋の至る所に飾られた「空の額縁」だった。
壁一面に掛けられたいくつもの額縁。そのどれもが、中身のキャンバスを綺麗にくり抜かれ、枠だけになっている。
「これは一体……?」
「父は亡くなる直前、自身の最高傑作となるはずだった作品に取り組んでいました。ですが、彼が殺された時、その絵は姿を消していたのです。それどころか、このアトリエにあった父の過去作、数十点すべてのキャンバスが、鋭利な刃物で額縁から切り取られて消え去っていました」
修一郎の妹、冴子が震える声で付け加えた。
「犯人は、父を殺しただけじゃない……父の生きた証である『絵』を、すべて奪っていったんです」
完全な密室。消えた数十枚のキャンバス。
外は猛烈な雨。この館から逃げ出せた者はいない。犯人は確実に、今もこの館の中にいる。
僕の頭の中で、ミステリのピースがカチリと音を立てて噛み合い始めた。
◇
「神坂さん、何か分かりましたか?」
夕食の席、修一郎が探るような視線を向けてくる。テーブルを囲むのは、修一郎、冴子、そして黒田の長年の助手であった若者・蓮見の三人だ。
僕はワイングラスに少しだけ口をつけ、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「ええ。この事件には、最初から大きな錯覚が仕掛けられていました」
「錯覚……?」
助手である蓮見が目を見開く。
「この事件の最大の謎は二つあります。一つは『いかにして密室を作ったか』。もう一つは『なぜ犯人は数十枚ものキャンバスを切り取って持ち去ったのか』」
僕は全員の顔を順番に見つめた。
「土砂崩れで封鎖される前、警察はこの館を捜索しましたが、消えたキャンバスは一枚も見つかりませんでした。巨大なキャンバス数十枚を、誰にも見つからずに隠すことなど不可能です。……では、なぜ見つからなかったのか?」
「それは……犯人が館の外へ運び出したからでは?」冴子が尋ねる。
「いいえ。答えはもっとシンプルです。『最初から、キャンバスなど一枚も切り取られていなかった』のです」
室内が静まり返った。
「な、何を言っているんだ!」修一郎が立ち上がる。「アトリエの額縁を見たでしょう! 全部、中身がくり抜かれて枠だけになっていた!」
「見えましたね。ですが、あれは『くり抜かれた』のではなく、『最初から枠だけの額縁』を壁に飾っていただけです」
「なんだって……?」
「黒田先生は、晩年、極度のスランプに陥っていたはずです。助手である蓮見さん、違いますか?」
蓮見は肩をビクッと震わせ、俯いた。
「先生は……ここ数年、一枚の絵も描けていませんでした。描いては破り、描いては捨て……アトリエにあった額縁は、いつか描くはずだった未来の作品のための『空箱』だったのです」
「では、消えた最高傑作というのは……?」冴子が息をのむ。
「存在しません。黒田先生が『最高傑作を描いている』というのは、彼自身が自分を奮い立たせるための、あるいは家族にスランプを隠すための嘘だったのです。そして犯人は、その状況を利用した」
僕は目線を一人の人物に固定した。
「犯人は、アトリエに一枚だけ存在していた『本物の絵』……黒田先生が命と引き換えに遺そうとした『本当の遺書』を隠すために、壁の空額縁を一枚だけ剥がし、事件を『消えた絵画と密室の謎』に見せかけたのです」
全員の視線が、僕の視線の先に集まる。
そこにいたのは――助手の蓮見だった。
「蓮見さん。あなたが黒田先生を殺害した理由……それは、先生があなたを破門しようとしたからですね? あるいは、あなたの盗作を告発しようとしたからだ」
「な……証拠はあるんですか!?」蓮見が声を荒げる。「密室だったんですよ! 鍵は先生のポケットの中にあった! 僕は外から鍵をかけられるはずがない!」
「密室のトリックも、実に単純です」
僕はポケットから一枚の「紐」を取り出した。
「あなたが使ったのは、糸でもカラクリでもない。黒田先生ご本人の手です」
「先生の手……!?」
「あなたは先生の胸を刺した後、まだ虫の息だった先生のポケットに鍵を突っ込んだ。そして、先生の手を鍵の上から握らせ、『助けを呼ぶためにポケットの中の鍵を握りしめさせる』ように誘導した。……違いますか? 人間は瀕死の際、身近なものを強く握りしめる習性があります。ドアに鍵をかけたのは先生自身。あなたは部屋の外からドアを閉め、先生が内側からサムターンを回して鍵をかけるよう、ドア越しに言葉で追い詰めたのです」
『鍵をかけろ! そうしなければ、家族も殺す!』とでも脅したのでしょう。死の間際、先生は家族を守るために、震える手で内側から鍵をかけた。それが、あなたによって作られた『悲劇の密室』の正体です」
「くっ……!」
蓮見の顔から血の気が引いていく。
「そして、あなたが隠したかった『本当の絵』……。空の額縁の中に、一枚だけ『キャンバスが残っているように見せかけた場所』がありましたね」
僕は立ち上がり、壁に掛けられた古い大きな姿見(鏡)を指さした。
「アトリエの壁にあった巨大な鏡。あれは鏡ではありません。裏返されたキャンバスです。黒田先生は死ぬ間際、あなたの悪事を暴くための告発文とダイイングメッセージを、そのキャンバスの裏に描いていた」
「あ……あああぁぁぁっ!!」
蓮見はその場に崩れ落ち、顔を覆った。
外の激しい雨音だけが、男の咽び泣く声を静かに包み込んでいた。
◇
翌朝。雨は上がり、雲の隙間から眩しい日光が差し込んでいた。
土砂が撤去され、麓から警察のパトカーがやってくる音が遠くに聞こえる。
解き明かされた謎の残響のなかで、僕は空を見上げた。
止まっていた時間が、再び動き始めようとしていた。
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