美のイデア
わたしは、フリーランスの哲学者である。
そう名乗ると、だいたい二種類の反応が返ってくる。
「大学の先生ですか?」
か、
「それ、食べていけるんですか?」
である。
後者については、わたしも知りたい。
大学には所属していない。
論文も最近は書いていない。
哲学系のWebメディアに記事を書き、企業から頼まれて「ビジネスにおける哲学的思考」などという研修を行い、たまにYouTubeに呼ばれて、
「幸福とは何か」
について二十分ほど喋る。
その翌日に、スーパーで三十円引きの弁当を買う。
そういう生活をしている。
名刺の肩書きには、
『哲学者』
とだけ書いてある。
嘘ではない。
フリーランスなのだから、誰かの許可を取る必要もない。
問題は別にあった。
わたしは女性が苦手だった。
嫌いなのではない。
むしろ逆である。
好きすぎるのだと思う。
特に美しい女性を前にすると、まともに喋れなくなる。
これは哲学者として由々しき問題だった。
人間とは何か。
愛とは何か。
美とは何か。
そんなことを日々考えている男が、美しい女性から、
「お仕事、何されてるんですか?」
と聞かれただけで、
「あっ、えっ、あの、まあ……」
となる。
ソクラテスに顔向けできない。
そこでわたしは考えた。
哲学によって、女性恐怖を克服できないだろうか。
*
実践の機会は、思いのほか早く訪れた。
駅前のカフェだった。
わたしは窓際の席でノートパソコンを開いていた。
依頼された原稿のタイトルは、
『なぜ人間は働くのか――アリストテレスから考える現代のキャリア』
だった。
わたし自身がフリーランスで仕事に困っているのに、ずいぶんなテーマである。
「すみません」
声がした。
顔を上げる。
女性が立っていた。
美しかった。
わたしは瞬時に視線をノートパソコンへ戻した。
「ここ、使ってますか?」
女性が、向かいの椅子を指さしていた。
「あ、いや」
声が裏返った。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
女性が座った。
まずい。
非常にまずい。
わたしは画面を見つめた。
『なぜ人間は働くのか』
知らない。
今はそれどころではない。
コーヒーを飲む。
手がわずかに震えている。
なぜだ。
なぜわたしは、たった一人の人間が目の前に座っただけでこれほど動揺しているのか。
相手もホモ・サピエンスである。
分類学上、わたしと同じ種だ。
心臓があり、肺があり、胃がある。
昨日の夜には歯を磨いただろう。
今朝、寝癖がついていた可能性だってある。
恐れる理由などない。
しかし、ちらりと見る。
美しい。
駄目だった。
生物学では処理できない。
ならば哲学である。
わたしはプラトンを召喚した。
待て。
彼女が美しいのではない。
わたしが彼女の中に、美のイデアの影を見ているのである。
この世界に存在する美しいものは、完全な「美」そのものではない。
花も。
夕焼けも。
彫刻も。
そして、目の前の女性も。
美そのものを部分的に映しているにすぎない。
そう考えると、不思議なことに少し落ち着いた。
なるほど。
これは使える。
彼女は美そのものではない。
わたしの魂が美のイデアを想起しているだけなのだ。
心拍数が下がった。
わたしはコーヒーを飲んだ。
哲学を二千年以上積み重ねてきた人類に、初めて心から感謝した。
「あの」
女性が言った。
心拍数が元に戻った。
「はい」
「哲学、お好きなんですか?」
「え」
女性がわたしのパソコンを見ていた。
画面には大きく、
『アリストテレスにおけるエウダイモニア』
と書いてあった。
「ああ、はい」
「大学で哲学やってるんですか?」
「いえ」
来た。
この質問である。
わたしは姿勢を正した。
「哲学者です」
女性が止まった。
「……哲学者?」
「はい」
「お仕事が?」
「はい」
女性は少し考えた。
「哲学者って、職業なんですね」
「わたしが名乗っているので、少なくとも一人はいます」
女性が笑った。
笑った。
その瞬間、プラトンが吹き飛んだ。
美のイデアどころではない。
笑顔という新しい現象が発生した。
待て。
落ち着け。
哲学だ。
こういうときのために哲学がある。
「面白いですね」
彼女が言った。
「普段、何を考えてるんですか?」
「いろいろです」
「例えば?」
わたしは考えた。
いま考えていることを、そのまま言うわけにはいかない。
あなたの美しさはあなた固有のものではなく、美のイデアの不完全な模倣にすぎないので、わたしは緊張する必要がない。
初対面の女性に言う文章としては、かなり危険である。
「最近は……」
わたしはパソコンを指した。
「働くとは何か、とか」
「へえ」
「人はなぜ働くのか。お金のためなのか。社会とのつながりのためなのか。自己実現のためなのか」
「それ、答え出るんですか?」
鋭い。
「出ません」
「出ないんだ」
「哲学は、だいたい出ません」
彼女がまた笑った。
わたしは思った。
いい。
非常にいい。
会話が成立している。
わたしは女性と会話している。
しかも、相手は美しい。
これは歴史的快挙である。
プラトンのおかげだ。
「じゃあ」
彼女が頬杖をついた。
「恋愛って何ですか?」
わたしの中で警報が鳴った。
なぜそこへ行く。
働くとは何かでよかったではないか。
なぜ人類はすぐ恋愛の話をしたがるのだ。
「恋愛……ですか」
「哲学者って、そういうことも考えるんでしょ?」
「まあ」
わたしは時間を稼ぐためにコーヒーを飲んだ。
すでに空だった。
カップを静かに戻した。
「プラトンは」
わたしは言った。
「人間は美しいものに触れることで、美そのものへ向かっていくと考えました」
「美そのもの?」
「はい」
「よくわかんない」
「わたしも完全にはわかりません」
「哲学者なのに?」
「哲学者だからです」
彼女が笑った。
まただ。
どうやら正解らしい。
わたしは少し勇気が出てきた。
「例えば」
言ってから後悔した。
「あなたを見て、わたしが美しいと思ったとします」
彼女の目がこちらを向いた。
逃げたい。
しかし、もう文章は始まっている。
文法上、述語まで行かなければならない。
「はい」
「そのとき、わたしはあなたそのものだけを見て美しいと感じているのではなくて、その背後にある普遍的な『美』のようなものを感じ取っている、と考えることができます」
「……つまり?」
「あなたが美しいのではありません」
言った瞬間、間違えたと思った。
「え?」
「いや、違います」
「美しくない?」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、どういう意味ですか?」
「あなたは美しいです」
言ってしまった。
沈黙。
わたしは死んだ。
哲学によって女性恐怖を克服しようとして、初対面の女性に真正面から「あなたは美しいです」と言った。
プラトン。
責任を取ってほしい。
女性はわたしを見ていた。
それから、少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
「あ、いえ」
「哲学者って」
彼女は言った。
「意外と普通のこと言うんですね」
わたしは何も答えられなかった。
彼女は立ち上がった。
「じゃあ、仕事あるので」
「あ、はい」
「原稿、頑張ってください」
「ありがとうございます」
彼女は店を出ていった。
わたしはしばらく動けなかった。
パソコンの画面には、
『なぜ人間は働くのか』
と表示されている。
わたしはその下に、新しい文章を書いた。
『人間は、理性だけでは生きられない。』
少し考えて、消した。
そんな大きな話ではない。
代わりに、自分用のメモを開いた。
『女性恐怖克服計画』
そして書いた。
『第一回実験:プラトン』
『結果:一定の効果あり』
その下に、
『問題点:最終的に本人へ「あなたは美しい」と言ってしまう』
と追記した。
少し考える。
次は、もっと感情に左右されない哲学者がいい。
わたしは検索窓に入力した。
『カント 女性』
検索ボタンを押した。
女性恐怖克服への道は、まだ始まったばかりである。




