第九話 私が、結花の左に座るから
ミニシアター系の映画館が好きだ。
シネコンもいいけれど、ここでしか味わえない映画体験というものが確かにそこにはある。
もし、真の映画好きとして一味違う作品に触れたいなら、ここに来ればいい。ここには、誰にも見つかっていない本当の隠れた名作が眠っている。
もちろん、目を覆いたくなるような駄作も多いけれど、その分「当たり」を引いた時の嬉しさはひとしおだ。
ポップコーンは作りたてじゃなく出来合いだし、待合室のカフェに漂う空気はどこか浮世離れしていて、本当に映画を観に来たの? って格好の人が寛いでいたりする。シネコンと違って防音が完璧ではないから、静かなシーンでは外の雑音が聞こえてくることだってあるけれど、それらすべてを含めて、ミニシアターでの映画体験なんだ。
……なんて、昔お父さんが言っていた。
正直、私にはまだよくわからない。見たい映画が見られれば、私はどっちでもいいかな~。
「綾乃、席は端っこでもいい?」
「いいよ。ポップコーンは買う?」
「キャラメル&ベリーと塩、両方頼みましょ。飲み物はジンジャエールがいいな」
「私はメロンソーダにしよっかな」
券売機でチケットを購入し、併設されたカフェで飲み物とポップコーンを確保する。なるほど、出来合いのポップコーンが蓋付きのカップに入っている。キャラメル&ベリーは、ポップコーンだけでなくクランベリーのドライフルーツが混ざっていた。これはこれで、運ぶ途中にこぼす心配がないし、とても美味しそうだ。
受け取ったところでちょうど入場時間となり、私たちはシアタールームへと足を踏み入れた。
結花が選んだのは、中央列の一番左端の席だった。客足はまばらで、空席も目立っている。これなら真ん中の方を取っても良さそうなものだけど……。
「綾乃。あーん」
そんなことを考えながら腰を下ろすと、結花はキャラメルポップコーンを一粒指でつまんで、私の口元に差し出してきた。
「う、あ……あーん」
促されるまま口を開け、いつかのミニトマトの時のように、素手での「あーん」を受け入れる。結花の繊細で柔らかな指先が唇に触れるのは、もはや避けようのないことだった。
「美味しい?」
「う、うん。甘くておいしい」
「ふふ、本当だわ」
私が答えると、結花はまたあの時のように、私の唇に触れた自分の指をペロッと舌でなぞって、私の顔はまた真っ赤に染まった。
「~~っ! それ、わざとやってるでしょ」
「ふふ、だって綾乃の反応、可愛いんだもの」
今日の結花は、やたらと私に「可愛い」を連呼する。私から言わせれば、結花の方が何千倍も可愛いというのに。
「……じゃあ、結花も。あーん」
「あむっ」
「ちょっと」
仕返しのつもりで塩味のポップコーンを差し出したら、彼女は容赦なく私の指ごと、ぱくりと食らいついてきた。
「こ、こいつ……」
「ふふ、美味しい」
ぺろりと舌なめずりをして、ポップコーンと私の指の味わいにご満悦な様子の結花。一方の私は、結花の唾液による湿度をわずかに感じる人差し指と親指をじっと見つめていた。
そんな私へ、「どうするつもりかしら?」と期待に満ちた眼差しを向けてくる結花だったけれど、私は容赦なく、ポップコーンと一緒にもらったウェットティッシュで指先を拭い去った。
「あーっ!」
「いや、舐めないからね、普通は!」
「むう。じゃあ、もう一回」
「はいはい。あ~~……ん、美味しい」
「あーっ、こらっ!」
あーんをするふりをして、自分の口に放り込む。
それを見て、ぷくっと頬を膨らませる結花。ああ、やっぱりキミの方が何万倍も可愛い。
付き合いたてのカップルのようなイチャイチャを繰り広げていると(実際そうなんだけど)、正面のスクリーンが灯り、映画の予告編が始まった。
「ん。そろそろね」
結花は鞄を漁り、カチューシャとメガネケースを取り出した。
その瞬間、私は彼女が「一番左端の席」を選んだ理由を、唐突に理解してしまった。
「あ……」
そうか。結花は、本を読む時はカチューシャで前髪を上げる。映画を観る時も、同じようにするんだ。だから、万が一にも左側に座った見知らぬ誰かに、自分の傷を見られて不快な思いをさせないよう、いつもこうして左端に座るようにしているんだ。
……ああ、バカだな、私は。そんなことにも、今の今まで気づけないなんて。
シアター内が暗転していくのと同時に、私の気分もひどく落ち込んでいった。この重い気持ちを晴らしてくれるくらい、面白い映画であることを願うしかなかった。
映画は、六人の高校生男女が弱小映画研究部で奮闘し、賞を狙いに行く青春物語だった。
彼らは時に反発し合いながらも互いを支え、夜の学校に忍び込むなどの危うい橋を渡りながら、一本のホラー映画を完成させていく。物語自体はありふれた青春もの――けれど、シーンの一つ一つが丁寧に編まれていて、心に残る。良い映画だと思った。
ふと隣を見ると、結花はポップコーンを食べるのも忘れて、真剣な眼差しでスクリーンに見入っていた。
カチューシャで髪を上げた横顔は、暗闇の中で白く発光しているように見えて、本当に綺麗だ。この顔を独り占めにして、ずっと見ていたいという、独善的な欲望に駆られる。
私の視線に気づいたのか、結花はこちらを向いて、ふわりと微笑んだ。それからポップコーンを一粒かじり、再び映画の世界へと戻っていく。
私も、結花の席にあるキャラメル&ベリーのカップに手を伸ばし、スクリーンへと視線を戻した。
「……面白かったね」
「うん、面白かった。谷頭由比監督かあ……うちのOG、すごいじゃん。覚えとこ。もしかしたら将来、世界で活躍する映画監督になるかも」
上映が終わり、館内に明かりが戻る。結花は満面の笑みを浮かべていた。
がやがやと観客たちが去っていく中、私たちは席を立たずに他の観客がすべて掃けるまで待ち、一番最後に出るつもりだった。
待っている間、私は結花の方を向き、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。
映画が始まったときから、決意していたことがある。それを、伝えないと。
「結花。今度映画を観に来る時は、真ん中に座ろう」
「え……? でも、私……」
「私が、結花の左に座るから」
私の言葉に、結花は小さく息を呑んだ。
「私、これからずっと結花の左側にいる。……それなら、いいでしょ?」
「あやの……」
結花の瞳が、じわりと涙で潤む。
彼女が目を閉じ、一筋の涙が零れ落ちた。
彼女の顔が一気に近づいてきて、私の唇に、熱いものが触れた。
「――!」
結花の唇だった。
彼女は私の背中に手を回して、必死に、縋り付くような切実さで唇を重ねてきた。
熱い。結花の唇は、私の骨の髄まで溶かし尽くそうとするほどの熱を帯びていた。嗚呼、キスって、こんなに熱いんだ。初めてしたから、知らなかった。
私も彼女の背に手を回し、その体を強く抱きしめた。
思えば、私には覚悟が足りていなかったんだ。
結花が、私を幸せの絶頂に導いてから絶望へと突き落とそうというのなら。彼女に復讐されることを望む私は、もっと真剣にならなければいけなかった。
本気で結花を敬って、慈しんで、慮って、誰よりも彼女に尽くして。健やかなる時も病める時も彼女の側に寄り添い、守り抜かなければいけなかった。
たとえ結花が本心ではそれを望んでいなくても、私だけは心から彼女の恋人でなければいけなかった。
唇が離れる。私は涙を零す結花を、自分の胸の中へと引き寄せた。
「綾乃、だ■■■、だい■■っ!」
彼女の声は、私の胸の中でくぐもって、よく聞こえない。
でも、何を言っているかなんて関係ない。もう遠慮なんてしない。
だって私は、昔からずっと――。
その時、清掃のスタッフが入ってくる気配がして、私たちは飛び上がるようにして離れた。
気付けば、他の観客はもう誰一人いなくなっている。私たちは慌てて荷物を手に、そそくさとシアタールームを後にした。




