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第七話 あの小説のせいだ

「綾乃」

「ゆ、結花……」


 一体、どうしてこんなことになったんだっけ?

 私は自分の部屋のベッドの上で、一糸纏わぬ姿の結花に、押し倒されていた。


 結花のしなやかな指先が、私のパジャマのボタンを一つずつ、焦らすように外していく。はだけた胸元に冷たい空気が触れた瞬間、それを覆い隠すように結花の熱い唇が押し当てられた。


「ひゃっ、ん……!」

「ふふ、可愛い声」


 ちゅ、と音を立てて吸い上げられ、私の思考は真っ白に染まる。

 いけない。こんなこと、許されるはずがない。私は加害者で、彼女は被害者で。これは復讐されるための関係で――。

 けれど、私の理性とは裏腹に、結花の滑らかな指が肌を擦るたび、体の奥底から痺れるような甘い感覚が這い上がってくる。


「綾乃、気持ちいい?」


 結花が体を起こし、私の顔を覗き込んだ。

 月明かりに照らされた彼女は、いつの間にか前髪をカチューシャで全て上げている。露わになった額にも、瞼にも、頬にも――あの醜い火傷の痕は、どこにもなかった。

 透き通るほどに白く、完璧な美貌が、とろりとした情欲の瞳で私を見下ろしている。


「きもち、いい……ゆか、もっと、して……」


 その完璧な美しさに射抜かれ、私は自ら許しを請うように腰を浮かせていた。

 私の浅ましい返事に満足したのか、結花は淫靡な笑みを深め、ゆっくりと体を沈めてくる。


「いい子。あやの……■■■■よ。たくさん、してあげる」


 彼女の熱く濡れた指先が、私の一番弱い場所へと触れた、その瞬間――。


「ぐぇっ」


 次の――私は自分のベッドから滑り落ちた。

 あれ、結花は? 私はさっきまで裸だったはずでは……?

 床の冷たさと腰の痛みで状況を理解するのに、十五秒ほど要した。


「うう、あの小説のせいだ……」


 まさかこんな、思春期の男子中学生みたいな夢を私が見ることになるなんて。

 ため息をついて、寝直そうと布団を手繰り、ベッドに横になる。

 けれど二度寝に落ちるより先に、普段より早く設定していた目覚まし時計が鳴り響き、私は結局そのまま飛び起きる羽目になった。


◆◆◆


 卵焼き用の四角いフライパンに少量の水を入れて、袋から出したウインナーを転がす。

 強火で二分。水が蒸発する頃には、中の脂が溶けてパンパンに膨れ上がり、美味しそうに焼き上がったウインナーを、取り皿に取る。

 濡らしたキッチンペーパーを菜箸で挟み、表面を軽く掃除する。乾いたペーパーで水分を余さず拭き取ったら、次の工程へ。


 もう一度フライパンを温め、サラダ油を軽く引いて、キッチンペーパーで馴染ませる。

 ……うん、よし。この程度なら、油を使っても指先は震えない。

 菜箸の先を卵液に浸して、フライパンにちょんとつける。卵はすぐに固まった。準備は万端だ。

 卵液を一気に流して固まるのを待ち、ヘラで奥から手前に巻く。

 巻く。……巻く。……ま――。


「……難しいな」


 ヘラを使っているのに、全然綺麗に巻けない。というか、端っこが上手く持ち上がらない。

 お母さんは菜箸だけで魔法みたいに巻くのに。


「いいや。スクランブルエッグにしちゃえ」


 私は菜箸を手に取ると、フライパンの表面を擦るようにがしゃがしゃと動かして、中途半端に固まった卵をめちゃめちゃにほぐしていった。



「……できた」


 完成した赤いお弁当箱の中身は、白ごはんに梅干し。焼いてからカットしたウインナー。塩味のスクランブルエッグ(という名の失敗した卵焼き)。夕べの残りの蓮根の煮物に、ミニトマト、冷食のほうれん草のおひたし。同じく冷食のミートボール。


 初めて作ったにしては上出来だろう。

 結花ときいろに感化されたわけじゃない。けれど、時々なら自分でお弁当を作る日があってもいいんじゃないかと思ったのだ。


 とはいえ、今後も作っていくならレパートリーが少ないのは問題だ。今の私には焼くだけ煮るだけの簡単なものを作るので精一杯で、結花のように凝ったメニューを作る余裕はない。バイト帰りにレシピ本でも探しに行こうか。それとも店長に相談しようかな。


 ……結花には、聞けない。もし二人で台所に立つようなことがあれば、私はきっとあの日のことをはっきりと思い出して、彼女に迷惑をかけてしまうから。


 ……そもそも私が今、こうして台所に立てているだけでも、結構な奇跡なのだ。中学での調理実習では、毎回震える手を隠すのに必死だった。アジフライの実習の時は、あの時を思い出して倒れそうになり、保健室に運び込まれるほどだった。


 『ふーでぃえ』のバイトでも、最初はホール担当だけをやる予定だった。けれど、人手不足を理由に少しずつ厨房を手伝わされるようになった。初めて見たエスプレッソマシンと格闘したあの経験は、今の私の中で十分に生きている。


 いまだに揚げ物はできない。そもそも食べるのも無理だ。でも、台所に立つこと自体は、もう怖くなくなった。


◆◆◆


「綾乃〜。今日はお弁当なんだ!」


 昼休み。きいろが物珍しそうに、私のお弁当を覗き込んできた。


「うん。毎日コンビニのおにぎりだけじゃ飽きてきたし。作ってみた」

「綾乃が作ったの?」


 正面の結花が目をまん丸に見開く。


「う、うん。二人のお弁当みたいに綺麗にはできなかったけど」


 今日も今日とて、きいろと結花は丁寧で美味しそうなお弁当を作ってきていた。

 私はといえば、まるで小学生が作ったみたいに盛り付けもぐちゃぐちゃで、こうして並べてしまうとまさに月とスッポンだ。


「そんなこと、ないよ。美味しそう」

「そ、そうかな」

「うん。すごいよ、あやのは」


 結花は目を細めて、あったかい微笑みを浮かべながら、私を見てくれた。夢と違って、前髪のヴェールの下からほんの少し傷が覗いたけれど、私はその顔がとても綺麗に見えた。


 私はそんな彼女の視線に照れてしまい、顔を伏せる。私の頬はまた真っ赤に染まっているだろう。きいろが、そんな私たちを不思議そうにキョロキョロと見比べている。


 おかしいな。結花に褒められただけで、こんなに嬉しくて、ドキドキしちゃうなんて。

 結花を傷つけたことを忘れないって誓ったばかりなのに、彼女の言葉一つで舞い上がってしまう自分がいる。


 きっと、結花が貸してくれたあの小説のせいだ。

 そう自分に言い聞かせ、私は初めて作ったお弁当をもそもそと食べ進めるのだった。

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