第十三話 結花は、どこですか
雨の中を走ったせいか、私はものの見事に熱を出し、学校とバイトを二日休んだ。
お泊まりのはずだったのに夜中にずぶ濡れで帰ってきた私を見て、お父さんもお母さんも、気を遣ってくれたのか何も聞いてこなかった。……余計な心配を、かけちゃったかな。
三日目。なんとか体を起こして、私は学校へと向かった。
結花と会うのは怖かったけれど、このまま引きこもっているわけにもいかない。
でも……どうしたらいいんだろう。
結花と会っても、今の私はきっと、まともに彼女の顔も見られない。
私は何の償いもしていないのに、どうして勝手に許されているの?
あの事故の後、大人たちは誰も私のことを叱らなかった。
「綾乃のせいじゃない」「君は悪くない」……お父さんも、お母さんも、結花のお父さんでさえ、私を慰めるばかりだった。
唯一、あの日あの場所で私に声を荒らげ、剥き出しの憎しみを向けた結花のお母さんは、事故の後すぐにどこかへ消えてしまった。病院へ結花のお見舞いに行っても、一度も会うことはなかった。
私はあの日、燃え盛る炎を見て危ないと思い、手近にあった水をかけて火を消そうとした。
発火した油に水をかけたらどうなるかなんて、幼い私は知らなかった。
知識が足りなかった。愚かだった。浅はかだった。だから、結花に怪我をさせた。
だから、あの事故は私が全部悪い。
それなのに――。
「あやのー! 心配したんだぞー!」
教室に入るなり、きいろが泣きそうな顔で抱きついてきた。
「ただの風邪だよ。大げさだなあ」
「だってウチ、寂しかったんだよぉ。結花ちゃんも休んでるし、二人に何かあったんじゃないかって心配で」
「え……?」
結花の席に目を向ける。きいろの言う通り、彼女の姿はなかった。
「結花も、休みなの?」
「うん。綾乃、知らんかったん?」
「う、うん……」
結花、どうしたんだろう……。
私に彼女を心配する資格なんてないかもしれない。けれど、あの日から私と同じように休んでいるのだとしたら、その原因は間違いなく私にある。
『本当に、ごめんなさい。綾乃。……今日までのことは、忘れていいから』
あの日、逃げ出す間際に結花が言った言葉。
まさか、結花はまた、どこか遠くへ行ってしまうつもりだろうか。
彼女が最後に見せた悲しげな瞳を思い出して、胸がどうしようもなく締め付けられた。
◆◆◆
「……はぁ」
放課後。私はまた結花の住むマンションの一室の前に立っていた。
帰宅する直前、副担任の如月先生に「和中さん、染葉さんと仲良かったよね。プリント届けてくれない?」と半ば強引に押し付けられてしまったせいだ。
正直、どんな顔をして会えばいいのかわからない。とりあえず、プリントだけ渡してすぐに帰ろう。
そう自分に言い聞かせ、インターホンを鳴らした。
「――ぁ」
ガチャリ、とドアを開けて出てきたのは、結花ではなかった。
四角い眼鏡をかけ、ワイシャツを着た、細身の中年の男性――。
「やあ、綾乃ちゃん。久しぶりだね」
「結花の、お父さん……」
てっきり結花が出てくると思っていた私は、しばらく硬直してしまった。慌てて頭を下げ、手に持っていたプリントを差し出す。
「お、お久しぶりです! これ、先生に頼まれたプリントを届けに来ました」
「ありがとう。せっかく来たんだ。お茶を淹れよう。少し上がっていきなさい」
「で、でも……」
「結花なら、今はいないから」
「え……?」
顔を上げると、結花のお父さんは、どこか悲しげな目で私を見つめていた。
リビングに案内され、テーブルに着く。
結花のお父さんはケトルでお湯を沸かし、紅茶を淹れてくれた。香りのいいアールグレイだ。お茶請けに、袋入りの小さなチョコレートまで出してくれた。
「綾乃ちゃん。すまなかったね、うちの結花が」
お父さんは私の正面に座ると、深く、深く頭を下げた。
「そんな、どうして!? 私が悪いんです!」
お父さんの様子から、結花から何か聞いたのだとは察していた。けれど、まさか大の大人にこれほど切実な謝罪をされるとは思わず、私は慌てて立ち上がった。
「君は、あの事故のことでずっと罪悪感を抱いていたんだろう? そこに付け込んで、うちの娘が無理やり交際を迫ったと聞いた。親として恥ずべきことだ。本当にすまなかった」
「ち、ちがう……違います! だって、私、結花の顔にあんなに酷い怪我を負わせちゃったから。だから、責任を取らないと……っ」
「あの事故に関して、君に責任は一切ないよ」
「――ありますよ!」
思わず大声で叫んでしまい、慌てて口を押さえる。
結花のお父さんは顔を上げ、驚いたように目を見開いていた。
「だって、私、私がバカだったから。結花の顔に傷をつけて、それで、結花のご両親も離婚して、私が、ゆかのじんせいをめちゃくちゃにしたから、ゆかはわたしをうらんでいるはずなのに」
「――待ってくれ」
一転して、結花のお父さんの表情が険しくなった。
「綾乃ちゃん。もしかして、君は何か思い違いをしているんじゃないか?」
「――へ?」
その言葉に、私の頭は真っ白になる。
「ゆっくりでいい。落ち着いて、あの日のことを、もう一度思い出してみてくれないか」
「え、ええと――」
あの日。確か、結花の家に遊びに行っていて、晩御飯をご馳走になる約束だった。
結花が唐揚げを作っていたら突然、鍋から火が上がって。驚いた私が鍋に水をかけたら、爆発が起きて、跳ねた油が結花を――。
「違う」
「――え?」
「綾乃ちゃん。すまない……本当に、すまなかった。あの女の所業が君にそこまでの傷を残していたとは……」
結花のお父さんは、テーブルに額をぶつけるほど、もう一度深く深く、頭を下げた。
「どうやら、君はあの事故について根本的な認識違いを起こしている。君は……あまりの罪悪感に、自分の記憶を歪めてしまったんだね。周りの大人がもっとしっかり君をケアするべきだったのに、誰一人として気づかなかったなんて――」
「どういう、ことですか?」
――私の記憶が、間違っている?
――結花を怪我させたのは、わたしじゃ、ない……?
「あの日、君が火のついた油に水をかけたのは、そこの台所だったかい?」
「それは――」
そうだ。先日、結花の家に来たときも違和感があった。私の記憶に焼き付いているあの光景は、「この場所」の出来事ではない?
「そこは……もっと小さな、ワンルームのアパートだったはずだ」
「あ――」
そうだ。あの事故が起きたのは、こんな立派なマンションの一室じゃない。
寂れたアパートの一角だった。
「あのとき既に、私と結花の母親の離婚は成立していたんだ。結花は母親に引き取られ、隣町のアパートに二人で引っ越していった。あの日、君はそこに遊びに行っていたんだよ」
「それじゃあ、離婚の原因はあの事故じゃ、ないんですか?」
「その通りだ。我々の離婚に、君は一切関係ない」
奇妙な感覚だった。
まるで、心に幾重にも巻き付いていた鎖が、パチンと一本ずつ弾け飛んでいくような。
「で、でも、場所が違ったとしても、事故は起きたんですよね」
「そうだね。君が水をかけて水蒸気爆発が起き、火災が起きた。小火で済んだがね。そのときに油を浴びた結花が、重度の火傷を負ったのも本当だ。処置が遅れ、残念ながら傷は治らなかった」
「それじゃあ、やっぱり、私が――」
「だが、よく思い出してほしい。揚げ物を、まだ小学生の結花に任せるだろうか」
「――え?」
「君と結花はあの日、二人でゲームをして遊んでいたはずだ」
「――っ」
そうだ。そうだ思い出した。私はあの日、結花の新しい家に遊びに行って、結花のお母さんが晩御飯を作ってくれるのを待ちながら、二人でゲームに夢中になっていたんだ。
そしたら、火災報知器が鳴り響いて……台所から火が上がっているのに気づいて、それから――。
「――あ、れ?」
思い出した光景には、決定的に不自然な部分があった。揚げ物を管理しているはずの結花のお母さんが、いるべき場所にいない。
「そのとき、結花の母親は外の廊下に出て、隣人と井戸端会議に興じていたんだよ」
「――は?」
そんな、馬鹿な。揚げ物を火にかけたまま放置して、外に出るなんて。まともな大人なら、それがどれほど危険かわかるはずだ。
「そして火災に気づいた君が、慌てて水をかけた。結花はそれが危険だと気づき、咄嗟に君を突き倒して、自分を盾にするように君に覆い被さったんだ。わかるかい? 結花が傷を負ったのは、君を守るためだったんだ」
「そんな……。でも、それじゃあ結局、事故は私のせいで……」
「違う。道義的にも法的にも、事故の責任は100パーセント結花の母親にある」
結花のお父さんの力強い断言に、私は小さく息を呑む。
『あの人の話はしたくないな』
結花が転校してきた日、お母さんの話をしようとしたら、たちまち不機嫌になった結花。
心を縛っていた鎖が、また一つ弾けた。
あの日、あの時。私に向かって『あんたのせいよ!』『許さない!』と叫んでいたあの人。
すべての元凶は……私ではなく、あの人にあったんだとしたら――。
「確かに、君はパニックになって間違った判断をしてしまった。だが、その根本的な原因を作った人間にこそ、すべての責任があるんだ。思うに、君はあの時何かあの女に吹き込まれたのではないかな」
「そ、れは……」
あの、冷たい視線を覚えている。
幼い結花を抱きしめ、ひたすら私を非難してきたあの女の人の声のせいで、私は、自分が何もかも悪いと思いこむようになってしまったんだとしたら――。
――でも、それでも、全ての罪悪感が消えるわけじゃない。
だって、私の間違った判断が結花の顔を傷つけたのは事実で、そのことで私が結花に恨まれるのは当たり前のことだ。
「確かに君は判断を誤った。でもね、結花が君を恨むはずがないことは、わかるだろう? だって、あの子は君を守ろうとして、自分から怪我を負ったんだから」
「あ――」
不意に、結花の笑顔が脳裏に浮かんだ。
彼女は、いつだって私のことを見てくれていた。
冷たく感じていた、左目のあの視線。あれは――結花が私を恨んでいると思い込んでいた私自身が、結花の母親から向けられた視線と勝手に重ねて、歪めて受け取っていたものだったんだ。
本当は、結花は私のことをずっと目で追ってくれていたんだ。私を見守ってくれていた。私が二度と、危ない目に遭わないように。
すべての鎖から解き放たれ、私は自分の情けなさに打ちひしがれた。
なんて馬鹿だったんだろう、私は。
結花のお母さんは、確かに私に責任を押し付けようとしていたのかもしれない。
でも、それはうまくいかなかった。当時大人たちは誰も私を責めなかったし、結花のお母さんはその後結花を連れて実家の新潟に逃げたみたいだけど、最終的には親権をはく奪された。
私はあんな人に何を言われようと、結花が命懸けで守ってくれたという事実から目をそらしてはいけなかったんだ。
もしかしたら結花の、私のためなら命を投げ出せるほど真摯な愛情に向き合うのが、怖かっただけなのかもしれない。
「お父さん」
私は、結花のお父さんの目をまっすぐに見つめた。
ちゃんと、彼女の気持ちと正面から向き合わないと。
「結花は、どこですか?」




